2007年 BDヴェッキオ宮殿 Plazzo Vecchio |
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14世紀にフィレンツェの政庁者として造られた、現在も市庁舎として使われている。 映画『ハンニバル』では美術館として登場した。 この建物が一時、トスカーナ大公コジモ1世の家として使われたためヴェッキオ宮と呼ばれる。 その後、住居をピッティ宮に移した。 宮殿前の広場がシニュリーア広場(Plazza della Signoria)、 ここはサヴォナローラが処刑された場所。 |
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1563年コジモ1世は息子フランチェスコ1世とオーストリア大公の娘との結婚のため ジュルジュ・ヴァザーリにヴェッキオ宮の大改造を依頼した。 ヴェッキオ宮からピッティ宮までの回廊もこの時期に造られた。 この回廊は『ヴァザーリの回廊』として知られており、5ヶ月の突貫工事で造られたそうだ。 |
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フィレンツェ共和制時代に市民会議が行われていたのがこの五百人広間、 天井画はフィレンツェの成立と歴史の逸話を描いた48枚が描かれている。 その一枚ににコジモ一世の肖像が描かれている。 |
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コジモ1世(Cosimo I de' Medici, 1519 - 1574) 初代トスカーナ大公で、フィレンツェの名門メディチ家の1人。 メディチ傍系であり、勇敢な傭兵隊長として知られた「黒隊長」ジョヴァンニ(1498-1526年)の子。 ルネサンス期の女傑として知られるカテリーナ・スフォルツァの孫に当たる。 1537年、フィレンツェ公アレッサンドロ(ローマ教皇クレメンス7世の庶子)が暗殺された後、 18歳のコジモがフィレンツェ公を継ぐ。 ハプスブルク家の支援のもと、フィレンツェの中央集権体制を確立した。1555年にはシエナを併合。 1562年、2人の子と妃がマラリアで相次いで死去。 1569年に初代トスカーナ大公となった。 ジョルジョ・ヴァザーリ、アニョロ・ブロンズィーノらを宮廷画家として迎える。 また、ミケランジェロの葬儀(1564年)を行った。 現在のウフィツィ美術館や、ヴァザーリの回廊などを建設した。 晩年は半身不随となり、また再婚するが家庭的に恵まれなかった。 トスカーナ大公は子のフランチェスコが継ぐ。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用 |
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ウフィツイ美術館(Galleria degli Uffizi)は1559年シエナ攻略後、 コジモ1世がヴァザーリに依頼して建築した役所(ウッフィツィ:オフィス)。 コンクリート工法で建造されている。 コジモの後をついだフランチェスコ1世がメディチ家の美術品を集めて美術館とした。 |
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ジロラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola 1452 - 1498) 宗教改革の先駆と評価されることもある。フェラーラ生まれ、ドミニコ会の修道士。 フィレンツェで神政政治(神権政治)を行った。宗教改革の先駆と評価されることもある。 サヴォナローラサヴォナローラは1482年、フィレンツェのサン・マルコ修道院に転任する(のちに修道院長となる)。 説教壇から激烈な言葉でフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判し、 信仰に立ち返るよう訴え、市民を感激させた。 信奉者は次第に増え、メディチ家当主のロレンツォも、 死の間際(1492年)にサヴォナローラを招いて罪を告白したという。 1494年、フランス軍が侵攻してくると、それを予言していたということで信望が高まる。 メディチ家はフランスへの対応を誤ったことからフィレンツェを追放され、 サヴォナローラが共和国の政治顧問となって政治への影響力を強める。 これ以降、神政政治が行われることになった。 次第に教皇庁をも批判し、1497年には教皇アレクサンデル6世から破門される。 贅沢品として工芸品や美術品を広場に集め焼却するという「虚栄の焼却」も行われ、 市民生活は殺伐としたものになった。 サヴォナローラの厳格な姿勢に対しては反対派の不満も高まっていった。 1498年、対立するフランチェスコ会修道士から預言者なら 火の中を歩いても焼けないはずだとして「火の試練」の挑戦を受けるが、 この際に醜態を演じたとしてサン・マルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、 ついに共和国もサヴォナローラを拘束する。 裁判の結果、絞首刑ののち火刑に処された。遺骨はアルノ川に捨てられた。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用 |
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ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari, 1511 - 1574)
イタリアのマニエリスム期の画家、建築家。芸術家の列伝でも知られる。 イタリアのアレッツォ生まれ。1529年ローマを訪れ、ラファエロらの作品に学ぶ。 のちにメディチ家のトスカーナ大公コジモ1世(1519年-1574年)お抱えの芸術家となった。 美術館になっているウフィッツィ宮殿は有名。 ミケランジェロを中心にルネサンス期の芸術家の評伝を書き、これは美術史の基本資料になっている。 「画家・彫刻家・建築家列伝」は1550年に出版され、 チマブーエからミケランジェロまで芸術家133人の作品と生涯を記している (1568年の第二版では30人を追加)。 この中で「再生」 (rinascita) という用語を用いており、 ヴァザーリが中世とは異なるルネサンスの時代を強く意識していたことが示されている。 また、1563年には美術アカデミー、アカデミア・デル・ディゼーニョを創立する。 1572年からフィレンツェ大聖堂ドーム天井に「最後の審判」のフレスコ画を描くが、 1574年逝去(天井画は1579年に完成) フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用 |
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