ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini,1598-1680)
バロックの時期を代表するイタリアの彫刻家、建築家、画家。「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛されたバロック芸術の巨匠である。古代遺跡が残る古き都ローマは彼の手によって、壮大なスケール、絢爛豪華な装飾にあふれる美の都に変貌していった。人々は彼の作品を「芸術の奇跡」と絶賛した。

彫刻家ピエトロ・ベルニーニ(Pietro Bernini,1562年5月6日-1629年8月29日)の子としてナポリに生まれ、ローマに移り若い頃から彫刻に才能を発揮していた。マデルノ(1556年-1629年)のもとで建築に携わり、25歳の時に願ってもないチャンスが訪れる。ローマ教皇ウルバヌス8世からサン・ピエトロ大聖堂の装飾を命じられ、それはミケランジェロやラファエロなど大巨匠によって受け継がれてきた重要な仕事であった。あまたの実力者を退けての大抜擢。ベルニーニはローマ中の芸術家の羨望の的となった。後述のバルダッキーノの成功で、ベルニーニは31歳で建築主任となった。しかし1641年、順風満帆だったベルニーニに落とし穴が待っていた。設計を担当したサン・ピエトロ大聖堂の鐘塔から大きな亀裂が見つかった。この失敗はローマ中のスキャンダルに発展。若くして美術界に君臨したベルニーニに対して、溜まっていた不満が一気に爆発する。“見かけばかりで実用をなさないベルニーニ”と批判され、さらには1644年、ベルニーニの友人と謳った大司教アーバン8世の崩御に伴い、後ろ盾を失ったベルニーニへの仕事は激減。ベルニーニは始めて挫折を味わった。ベルニーニはそれまで自分を神のような完璧な天才だと考えていた。しかし、このショックな体験を通して初めて一人の人間になった。この頃からベルニーニは、熱心に教会に通うようになった。そして教会の権威のためではなく、信者たちのために作品を作ろうと考えるようになった。1年後、ベルニーニのもとに仕事の依頼が舞い込んだ。それは町の小さな教会にある礼拝堂の装飾であった。ベルニーニはこの仕事に全精力を傾け、これまでにない傑作を生み出したのが、「聖テレジアの法悦」である。

1656年〜1667年にはローマのサン・ピエトロ広場を建設したが、設計を依頼されたのは50代の半ばであった。しかし、取り掛かって難題にぶつかる。当時、サン・ピエトロ大聖堂の前には、いびつな形をした空き地があるだけだった。「この空間を神聖な場所にするには、どうすればいいのか ? 」ベルニーニは聖地に相応しい形を求め、試行錯誤を繰り返した。そしてひとつのアイデアに辿りつき、1667年、サン・ピエトロ広場は完成した。フランス王ルイ14世に招かれ、ルーヴル宮殿の改築計画にも関わった。

ベルニーニの彫刻のクオリティは極めて高く、多作で、生きていた時代を反映している彫刻家は歴史上殆どいない。彼の最初の作品は17歳、もしくはそれ以前に刻んだ幼神ゼウスの彫像で、最後の作品は81歳の時のキリスト像である。その間60年余り、彼は彫刻史上の大変革に一役かったばかりでなく、最も人気のある建築家としても作品を残した。

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)