2005年7月17日 ある新聞記事が目につきましたので転載
『猫が行方不明』 井上荒野 2005.7.3 日経新聞 『文化』より
 猫を一匹飼っている。
毎朝、外に出してくれとにゃーにゃー鳴いて起こしに来る。階下に下りて雨戸を開けると、二匹でひゅーんと飛び出していく。それから、落ち着かない時間がはじまる。

 都下にあってひどく不便で、かわりに自然に恵まれた今の家に越してきたのは、そもそも猫のためだった。アパートに住んでいるとき仔猫を拾い、隣の建物に住んでいる大家さんの目を盗んでこっそり飼っていた。当然外に出せなかったし、ベランダにも金網を張っていた。(だからばればれだったともいえるけれど)。

今の家ではペットの飼育は大家さん公認で、周囲には車も入ってこないし虫もトカゲもモグラもいるから猫にはうってつけなのである。

 だが、本当は外に出したくないのだ。「猫が行方不明」とは、フランスの映画のタイトルだが、猫というのはとにかく行方不明になる動物である。

小さな頃からやくさんの猫を飼ってきたが、何匹もの猫が、ある日忽然といなくなった。一昼夜経って裏の家の柿の木のてっぺんで鳴いているところを見つけたこともあるが、一週間後にモグラ捕りの罠を後ろ脚につけたまま這うようにして帰還し、手当ての甲斐なく衰弱死してしまった猫がいて、どこでどうなったかわからないまま二度と会えなくなった猫たちがいた。

 今の家では、飼い猫のほかに庭にごほんだけ食べに来るノラ猫が何匹かいて、中の一匹を「トモ」と命名していた。ある日、トモにごはんをやっているとき、家の横手を女の人が通りかかって、「あっ、亀!」と叫んだ。その家にも通っていて亀と呼ばれていたらしい。その後、トモ(亀)を小振りにしたような猫も来るようになり、「小亀」と名付けたのだが、またある日、小亀がうちの庭にやってきて、そのうしろを、「亀〜、亀〜」と呼びながらいつかの女の人が追いかけてきた。

 「これは違いますよ、これは小亀です」と私が言うと、「あら本当だ、亀じゃないわ」と女の人は悲しそうな顔になった。この頃亀がこないので心配しているのだという。そう言えばうちにもしばらく姿を見せていなかった。

 「でも大丈夫ですよ、前もそういうことがあったけど、ひょっこり戻ってきたから。雄猫だからいろいろ忙しいんですよ」私は言ったが、「だといいんですけどねえ……」と、女の人は憂い顔を隠さない。聞いたら亀は、彼女の家とは、上がり込んで昼寝をしていくほどの付き合いがあったらしい。「ほとんど毎日来ていたんですよ」 「ああ、それなら…」心配ももっともだとしんみりした。亀はいまだあらわれない。
  
 スーパーマーケットの入口に、「りんりんちゃんを探してください」という貼り紙があった。その日の朝、雑木林のほうで見かけた、見慣れぬ猫に写真がそっくりだったので、すぐに電話をかけた。貼り紙の主はスーパーの近くのクリーニング屋さんだったが、おじさんが車に乗って探しに来た。

 でも、朝いた場所にはもちろんいない。飼い主の声で出てくるかもと、あちこちで呼んだが、出てこない。「見かけたらぜったいに連絡します」と約束し、気になって仕方がないあまり、二回もフライングして違う猫をりんりんちゃんではないびと連絡し、がっかりさ甘てしまった。今もそのソリーニング屋さんの前だ車で通るたび、窓をたしかめる。りんりんちゃんの写真がまだ貼ってあるということは、見つかっていないんだと思って、心が痛む。

 現在の飼い猫のうちの一匹、松太郎を拾ったのは、まだ目が開いてまもない頃だった。二時間おきにミルクを飲ませ、排泄の世話もして育てた。猫を子供がわりだなどと言うのは、子供にも猫にも失礼だとは思うけれど、実際のところまあそんなふうな存在である。

生活というものを自分で切り盛りし、仕事の場も家なので、猫とのかかわりは子供の頃よりも深い。

 松太郎は呆れるほど人懐こくて、呼ばれればすぐに尻尾を立てて近寄っていく。世の中にはいい人ばかりじゃないんだよと言い聞かせても、猫なので理解しない。家め裏の水田に巡っている木道で、松太郎が見知らぬ人と仲良くしている姿が、私の仕事部屋から見下ろせる。たいていは、猫好きの人なのだ。だから慌てて連れ戻しにいくのは感じが悪いと思い、でも、まんいちのことも考えて、物陰からじっと見張っている。

心が休まらないことこのうえない。姿が見えていればまだいいのだが見えなくなると気が気じゃなくて、戻ってくるまで仕事にならない。たまらないので、猫の外出は朝二時間だけと決めている。もちろん、猫が時間を守るわけじゃなくて、朝、外に出したら、だいたい二時間くらいで帰ってくるということだ。そのあとはもう外には出さない。

 そのくらいならいっそ猫をいっさい外に出さなければいいじゃないかと言う人もいるだろう。その通りだしそうしたい誘惑にかられもするのだが、それではあまりにも弱腰というか、何か人生に対して卑怯である感じがしてしまう。別れはどうしたっていつかやってくる、という覚悟がその気分の背景にある。猫ばかりじゃなく夫だって、普段通りに家を出てそれきり帰ってこない可能性はゼロではないが、閉じ込めておくわけにはいかないのだから、と考えでいる。
いのうえ・あれの 作家 1961年生まれ。