ベネディクト派
ベネディクト会は現代も活動するカトリック教会最古の修道会。529年にヌルシアのベネディクトゥスがモンテ・カッシーノに創建した。ベネディクト会士は黒い修道服を着たことから「黒い修道士」とも呼ばれた。

彼が修道院の生活の規範とした戒律(『聖べネディクトの戒律』)は以後の多くの修道会の会憲・会則のモデルとなった。ベネディクトの妹スコラスティカも同じ精神を持って生活する女子修道院を開いている。同会の会員は「清貧」「従順」「貞潔」および「定住」の誓願をたて、修道院において、労働と祈りの共同生活を送った。これが観想修道会のスタンダードとなった。

ベネディクト会は以後も存続していくが、カマルドリ会、シトー会、厳律シトー会(トラピスト会)など派生形ともいうべき多くの修道会がベネディクトの精神によって誕生していく
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヌルシアのベネディクトゥス(480年頃 - 547年)
は中世のキリスト教の修道院長で、西方教会における修道制度の創設者と呼ばれる。カトリック教会と正教会の聖人。ベンディクトとも表記され、イタリア語ではベネデット(Benedetto)と呼ばれる

ベネディクトゥスはスポレートに近い小さな町ヌルシア(現在のノルチャ)の古代ローマ貴族の家系に生まれた。伝承によれば双子の妹にスコラスティカ(彼女も聖人である)がいた。少年時代は両親とともにローマに住み、学問を習得した。これはローマの行政官として必要な教養を身につけるためであったが、福音の教えに共鳴したベネディクトゥスは神に自らの生涯を捧げることを決意し、早い時期に学校を退学した。

ベネディクトゥスは隠修修道を行ったわけではなかったが、ローマ郊外の都会の喧騒を離れた場所で新たな生活を始めた。しばらく後、ベネディクトゥスはローマを完全に離れる必要を感じ、田舎で自らの労働によって生活しつつ修道生活を営むことを考えるに至った。ベネディクト会の標語 “ora et labora”, 「祈り、かつ働け」はこの精神を表現したものである。

修道士ロマヌスの勧めで数年間洞窟での隠修生活をした後、ベネディクトゥスはスビヤコに修道院を設立した。彼のもとに、次々と共鳴者が集まり、スビヤコには12の修道院が増設されるに至った。12の修道院のそれぞれに、ベネディクトゥスは12人の修道士と1人の監督者を住まわせ、自身は別の修道院にごくわずかな弟子たちと共に住んだ。とはいえベネディクトゥスは依然としてスビヤコ全体の修道院長であり、修道士たちの信仰生活の父親役を務めたのである。その後モンテ・カッシーノに移り、修道院を設立。モンテ・カッシーノの修道院設立の後は、ベネディクトゥスの生涯はその理想とする修道生活の実現のために捧げられた。

ベネディクトゥスはモンテ・カッシーノで547年に没した。
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モンテ・カッシーノ(Monte Cassino)
イタリア、ローマの南130キロに位置する標高519mの岩山。史上、ヌルシアのベネディクトゥスが同地に初めてベネディクト会の修道院を築いたこと(529年ごろ)で有名。同修道院は古代から中世を通じてヨーロッパの学芸の中心という重責を担っていたが、戦乱の中でたびたび破壊された(実際のカッシーノの町はさらに1.5キロほど東にある。もともとはローマ人のきずいたカッシヌムという町が岩山の上にあったとされる)。
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