カステリョン・デ・ラ・プラナ(Castellon de la Plana、バレンシア語:Castello de la Plana)
 スペインの都市。バレンシア州カステリョン県の県都である。イベリア半島の東に位置し、地中海のコスタ・デル・アサアールに面する。バレンシアからは北に約72kmの位置。人口は約17万人。

この地域で最初に知られている建築物は、ムーア人の城である。ハイメ1世が1233年にバレンシア王国を征服したあと、1251年にカステリョンの街が公式に建てられた。1251年9月8日、ハイメ1世はこの街を山から平野に移す許可を与え、言い伝えによれば1252年の四旬節に移動が完了した。

中世にはこの都市は堀と市壁、塔によって守られ、教会が建設され、のちにカテドラルとなった。17世紀のヘルマニエス(es:Germanias)の反乱では、この都市は最後の砦となった。スペイン継承戦争でもハプスブルク家のカール6世の側に付いたが、フェリペ5世の部隊に占領された。

19世紀には市壁が壊され、街は広がり始めたが、半島戦争とカルリスタ戦争によって発展は中断した。1833年には新しく定められた県の主都となる。19世紀の後半には再び街は広がり始めた。鉄道が引かれ、港が拡張され、街を代表する建築物(病院、カジノ、劇場、公園)が建設された。

1991年にはハイメ1世大学が設立された。現在の市の経済はおもに製造業や手工芸品によっている。
【見所】
コンカテドラル・デ・サンタ・マリア(大聖堂代用の教会) - 13世紀に建てられ、その100年後に火事にあって再建された。

市庁舎 - 18世紀始めに建てられた。トスカーナスタイルのファサードがある。

エル・ファドリ - 教会の鐘楼。17世紀に建てられた。

麻の取引所 - 17世紀前半に、麻布や縄の貿易のために建てられた。現在では催し物の会場に使われている。

リェドのサンタ・マリアのバシリカ - 街の北西に建てられている。1366年に農夫が畑を耕しているときに発見したマリア像に捧げられたもの。16世紀に拡張されてバロック様式となった。


ハイメ1世
 またはジャウメ1世(スペイン語:Jaime I、カタルーニャ語:Jaume I、オック語:Jacme I, 1208年- 1276)は、アラゴン王、バルセロナ伯、およびモンペリエの領主。征服王と呼ばれる。

成人したハイメは、イスラム支配下の地域の征服に乗り出した。1229年からバレアレス諸島(1229年マリョルカ島、1232年メノルカ島、1235年イビサ島)、1232年からバレンシア(首都占領は1238年)の征服を進めた。

フランスとの関係においては、ピレネー山脈の両側にまたがる国家を樹立し、ロワール川以北の権力と拮抗しようとした。しかし危険を冒すことはなく、ルイ9世と1258年に
コルベイユ条約を結び、自身の地位を認めさせ、有名無実となっているカタルーニャに対するフランスの支配権を放棄させた。

後年の20年間では、娘婿のアルフォンソ10世に代わってムルシアのイスラム教徒と戦った。スペイン諸王の間では、立法者および調停者として高い地位を得た。

晩年には自分の領土を2人の息子に分け与えた。イベリア半島の領土はペドロ(ペドロ3世 (アラゴン王))に、マリョルカ王国(バレアレス諸島、ルシヨン、セルダーニュ)とモンペリエの領主権はハイメ(ジャウメ2世 (マヨルカ王))に与えたが、これにより兄弟間の争いが避けられなくなった。老王はアルシラで重病にかかり、王を辞してポブレ修道院に引退することを望んだが、1276年にバレンシアで死去した。

ハイメはキリスト教国の王として初めて、自伝的年代記『事実の書』をカタルーニャ語で著した。この書では王政の権力と目的の概念、封建的秩序での忠誠と裏切りの例、言語や文化に基づく民族主義的な感情の芽生え、中世における兵法が示されている。

ハイメの治世では、商人や職人が力を増し始めた。ハイメは貴族や僧侶に加えて商人や職人も参加する身分制議会「カタルーニャ議会」を設置させた。また、バルセロナには市会「百人議会」が生まれ、自治都市化が進んだ。


コルベイユ条約
1258年パリ近郊の都市コルベイユ(Corbeil)でルイ9世はアラゴン王ハイメ1世〔征服王〕との間にコルベイユ条約を締結した。ハイメ1世はラングドックとプロヴァンスの領有権を、ルイ9世はカタルーニャに対する宗主権をそれぞれ放棄し、領土問題に決着がついた。
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