白いペスト、結核との闘い
 夭折を余儀なくされた樋口一葉
『切手にみる病と闘った先人たち』  新薬と治療 2004.Vol.54.No4
 中部労災病院院長 堀田 饒(ほったにぎし)
 病人が主人公の『闇桜』『うつせみ』をはじめ、『たけくらべ』『大つごもり』『にごりえ』『十三夜』『わかれ道』『われから』は、才能溢れた天折の作家、樋口ー葉の作品である。
いずれも、当時の暮らしの中で人々が使った言葉によって病気が綴られている。奈津が戸籍名の一葉は、物心のついた頃から貧困と病に怯えていた。

 歴史に残る病気の中で、結核は「白いペスト」と恐れられていた。ドイツの片田舎の医師が、顕微鏡を頼りに独力で炭素菌を発見し、特定の微生物が特定の病気を発病させることを明らかにした。その医師ロベルト・コッホは、あらゆる染料を用い、結核菌を染め出そうと試みた。苦闘の未、青色に染まった棒状の桿菌を見つけ、1882年3月24日ベルリンの学会で発表した。「結核菌発見」のニュースは、瞬く間に世界に広がった。1890年、結核治療薬ツベルクリンの作製に成功と公表した。後に、結核の診断には有効な一手段と実証はされたが、コッホの期待には大きく反したものだった。

 結核治療薬ツベルクリンの発見は、日本政府をしてコッホ研究所へ留学生の派遣を決意させた。しかし、コッホは「研究所にはすでに俊才北里柴三郎が居り、来るには及ばず」と断った。その報せに困惑した東京帝国大学内科教授青山胤通らだったが、その後も香港でのペスト菌発見の争いに北里の後塵を拝した。1905年にノーベル生理学・医学賞を受賞するコッホの下で、素晴らしい業績をあげ、1892年に帰国した北里に対する日本政府の態度は冷ややかだった。

1896年4月、雑誌『文芸倶楽部』に『たけくらべ』が一括掲載され、森鴎外が激賞した。文壇に名声を得た矢先、樋口ー葉は肺結核に羅患した。病状が増悪した秋、コッホの下で結核治療の研究にも関わった北里が診察を依頼されたが、診たのは森鴎外の紹介で青山教授であった。手の施しようもなかった。

 ツベルクリンの検査で診断の可能となった結核だが、更なる進展は1921年で、パスツール研究所のアルパート・カルメットとカシミール・ゲランによるワクチン作製に見ることができる。畜牛より単離した結核株からワクチン製造に取り組み、動物・人に免疫を与えることに成功した。研究者らの名前をとり、BCG(細菌・カルメット・ゲランの頭文字)と命名され、世界的に予防処置の定番として何十年にもわたって子供に接種されてきた。

しかし、いわゆる結核治療薬の登場は、アメリカ・ラトガース大学教授セルマン・アブラハム・ワックスマンの発見まで待たなければならなかった。彼とその研究チームは、病原性細菌に対して活性を持つ土壌細菌の集中的探索に着手した。1943年、土壌から採取した放線菌をもとにつくられた製剤ストレプトマイシンが結核に有効と発表した。1944年臨床治験が始まり、奇跡的的な薬という評価を得たストレプトマイシンだが、副作用の難聴が問題だった。やがて、抗結核薬の主役はイソニアジド(INH)とパラアミノサリチル酸(PAS)へと移り、以降カナマイシン、リファンピシン、エタンブトールの開発へと発展した。ノーベル生理学・医学賞がワックスマンに授与された1952年、抗結核薬lNAHが登場した。

 明治29年(1896)11月23日、肺結核がもとで樋口一葉が東京は本郷区丸山福山町の自宅で息を引き取った。24歳と6か月という、余りにも短い生涯だった。