エジプト考古学博物館。内部は撮影禁止。内緒で撮影している外人女性がいた。 | |
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カイロ博物館は1日で見るのはむつかしい。日本語で解説してくれないとまったく分からない。石像で足が前に出ているのは生きていることを表し、手を前で組んで足を揃えているのは死んでいることを意味するらしい。 |
ツタンカーメンの墓を守る兵士像のレプリカ(博物館の向かいにある本屋の前)、これは昼間の像 |
夜の兵士像、髪の形が違っている。本物は白目が少し赤く充血している。なかなか手がこんでいる。 |
博物館内部は撮影禁止なのでこれ以上の画像はありません。ツタンカーメンの埋葬品については金だらけ、おもしろいのはツタンカーメンのパンツなどが展示されているのには笑った。(日本なら織田信長のふんどしか・・・)
ツタンカーメン
紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃、在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃、古代エジプト第18王朝のファラオ(王)。より厳密な表記ではトゥトアンクアメン(Tut-ankh-amen)という。
生まれについては、はっきりしておらず、アメンホテプ3世の子、スメンクカーラーの子と諸説あるが、アメンホテプ4世(アクエンアテン)と側室キヤの間の子という説が有力である。
アクエンアテンの生存中、唯一神アトン信仰が説かれていたためにトゥトアンクアテン(アトン神の生ける似姿)と名乗っていた。アクエンアテンの死後、即位すると伝統的な神であるアモン=ラーの信仰を復活させ、トゥトアンクアメン(アモン神の生ける似姿)と改名した。また、首都をアマルナからテーベに戻した。
在位中、王妃アンケセナーメンとの夫婦仲は良かったといわれている。その後若くして死に、王家の谷に葬られた。ツタンカーメンの死後、王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる(但し、アイは王族の一人)。
ツタンカーメンはアクエンアテンの政策を大幅に覆したが、即位した時点でまだ年端のゆかない少年であったことがわかっており、アメン信仰復活やその死について様々な推測が語られ、歴史のミステリーとされている。2005年1月に、ミイラの調査が行われた。
引用 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
博物館見学後はおみやげを買うためハーン・ハリーリバザールに向かった。観光客向けの店がほとんどで値札がないので定価が分からない。 |
フセイン広場前のカフェ
※2009.2.22の夜にこの場所で爆発事件があり、フランス人観光客が1人亡くなられたとの報道でした。過激派が何の関係もない観光客を標的にするのは許されない。 |
バザールの内部 |
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ガーマ・ホセイン | |