@ドゥーモ Duomo(Santa Maria del Fiore(花の聖母寺)) |
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ドゥーモのクーポラ(Cupola)
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ロレンツォ・ギベルティLorenzo Ghiberti |
〇クーポラとはイタリア語で丸屋根、円蓋、丸天井の意味。クーポラの高さは91m。
イタリアゴシック建築の最高傑作で1296年に建築開始し、ブルネレスキが1436年に円蓋を作り上げて完成した。
〇ロレンツォ・ギベルティLorenzo Ghiberti(1381 - 1455)
ブルネレスキと大聖堂建設を競い合った。初期ルネサンスの彫刻家、金細工師。鋳造技術においては並ぶ者のない腕前を示し、その技量は今日においても賞賛されている。フィレンツェ随一の芸術家であり、彼の工房はドナテッロやパオロ・ウッチェロ、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオら優れた芸術家を輩出した。(WIKIMEDIAより) |
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最後の審判
世界の終末においてメシアが出現し、死者をよみがえらせて裁きを行い、
永遠の生命を与えられる者と地獄へ墜ちる者とに分ける、という思想をいう。
これはユダヤ教からキリスト教・イスラム教に引き継がれ、これら3つの宗教において重要な教義となっている。
元々はゾロアスター教の教義から来たものと言われる。(WIKIMEDIAより) |
クーポラ内部に描かれたヴァザーリ作の『最後の審判』 |
イエス・キリストが死者に裁きを下す。 |
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ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari, 1511 - 1574)
イタリアの画家、建築家。芸術家。
イタリアのアレッツォ生まれ。1529年ローマを訪れ、ラファエロらの作品に学ぶ。
メディチ家のトスカーナ大公コジモ1世(1519-1574)お抱えの芸術家となった。
ミケランジェロを中心にルネサンス期の芸術家の評伝を書き、これは美術史の基本資料になっている。
「画家・彫刻家・建築家列伝」は1550年に出版され、
チマブーエからミケランジェロまで芸術家133人の作品と生涯を記している。
1563年には美術アカデミー、アカデミア・デル・ディゼーニョを創立する。
1572年からフィレンツェ大聖堂ドーム天井に「最後の審判」のフレスコ画を描くが、
1574年逝去(天井画は1579年に完成)。(WIKIMEDIAより) |
レンガがクーポラの傾きに合わせて積まれているのが分かる。
左側がクーポラ内部でこの隙間に通路がある。
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クーポラの下部から中心部を通るように反対側にひもを伸ばす。
それをクーポラの頂上に向けて円を描くように上げていく。
その線に沿って煉瓦を積み上げていく。 こうすると内部に大きな枠を作らなくてもクーポラが組み上がって行く
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ドゥームの天蓋クーポラ(Cuopora)は当時の建築技術水準では難しく建設されなかった。
それを完成させたのはブルネレスキ。
1420年、彼はギベルティらと大聖堂天蓋工事の指導者に選ばれたが、
ブルネレスキに割り当てられた仕事は足場の架設工事と壁の構築であった。
しかし、ギベルティがドーム下部構造となるカテーナの工事に失敗し、莫大な損失を被ったことから、
1423年にはドーム工事の総監督はブルネレスキに任命された。
彼は大天蓋の設計に関して、当初はローマのパンテオンの様な半球型ドームを構想したらしいが、
構造的に無理があったために横への応力の少ないゴシック建築の尖頭型リブ・ヴォールト構造を適用した。
彼は、大聖堂のドーム工事を進める傍ら、他の建築の設計と造営に携わっており、
1419年頃にオスペダーレ・デッリ・イノチェンティを設計し、
1429年にはサンタ・クローチェ修道院のパッツィ家礼拝堂、1432年にはサント・スピリト教会を設計した。
サント・スピリト教会は、ブルネレスキの古典主義に対する考えを最も忠実に表現している。(WIKIMEDIAより) |
この梁は右の図に示すような理由で入れたものだが、
必要がないことが分かり一部だけ作って止めてしまった。
これがその補強用の梁
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当初、内側から外へかなり圧がかかると
予想された。 |
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レンガを途中で縦方向にはめ込んでいる。
NHKの番組でこのような組み方をする理由を説明 していたが忘れた
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レンガを積み上げるときにカーブを正確に出すため
木枠を使用したようだ。
真ん中部分のY字型の金具は木枠を
取り付けるための金具のようだ。
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サンロレンツォ(San Lorenzo)教会
とメディチ家礼拝堂 |
ジョットの鐘楼
Campanile di Giotto |
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ジョットの鐘楼(Campanile di Giotto)
フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の脇に建っている高さ約84mの鐘楼である。
大聖堂と同じく赤、白、緑の大理石で作られているゴシック様式の建築。
大聖堂の建設にあたって、1334年に工匠頭に任命されたジョット・ディ・ボンドーネは、
アルノルフォ・ディ・カンビオの構想にあった鐘楼の計画に専念し、すぐにその建築を開始した。
しかし、ジョットは基底部分の建築が済んだ時点(1337年)で死去し、
以後は弟子のアンドレア・ピサーノ、1350年以降は聖堂の建築を指揮していたフランチェスコ・タレンティが引き継いでいる。
聖堂よりも100年も早い1387年に塔は完成したが、当初計画された塔頂部の尖塔は造られなかった。
引用;Wikipediaより |
クーポラ屋上からの風景 |
ヴェッキオ宮殿
Pal. Vecchio |
サンタ・マリア・ノベラ教会
S. Maria Novella |
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サンマルコ修道院と付属美術館
San Marco |
ピッティ宮
Pal.Pitti |
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中央市場
Mercato Centrale |
サンマルコ・ヌォーボ病院
Arcispendale di Santa Maria Nuova |
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ウッチェロ作の時計の文字盤( ドゥーモ入り口上)
24時間時計で1辺6mの正方形、四隅に4人の予言者の顔が描かれている
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『神曲』を持つダンテ |
傭兵隊長ジョン・フォークウッド(1320-1394)
14世紀イタリアのイギリス人の傭兵、傭兵隊長 |
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主祭壇 十字架像(B.ダ・マイアーノ作) |
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聖水盤(レプリカ) |
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