Aダンテとフィレンツェ
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ダンテ・アリギエーリ Dante Alighieri(1265 〜 1321)
 中部イタリアのトスカナ地方にあるフィレンツェ市で、
金融業を営む小貴族アリギエーロ・ディ・ベッリンチョーネ・ダリギエーロとその妻ベッラの子供として生まれた。
ダンテは生後、聖ジョヴァンニ洗礼堂で洗礼を受け、
「永続する者」の意味を持つドゥランテ・アリギエーリ(Durante Alighieri)と名付けられた。

サンタ・クローチェ教会 Santa Croce
この教会には多くの文化人が埋葬されている。
ミケランジェロ、マキャベリ、ロッシーニ、ガリレオなどの墓がある


教会横の回廊
13世紀当時の北部イタリアは、ローマ教皇庁の勢力と神聖ローマ帝国の勢力が対立し、
各自治都市も教皇派と皇帝派に分かれ、反目していた。
フィレンツェは皇派に属しており、ダンテも教皇派の党員としてフィレンツェの市政に関係していた。
1289年には、カンパルディーノの戦いで両派が覇権を争い、その戦いにダンテも参加している。
その体験は『神曲』地獄篇第22歌の中に生かされており、凄まじい戦闘の光景が地獄の鬼と重ねられている。
教皇派は勝利をおさめたが、内部対立を起こし、フィレンツェの自立政策をとる「白党」(富裕市民層)と、
教皇に強く結びつく「黒党」(封建貴族)に分裂、した。
ダンテは白党に所属し、のちに百人委員会などの要職に就くようになった。
当初市政の政権を握ったのは白党で、1300年には白党の最高行政機関プリオラートを構成する三人の統領(プリオーレ)が選出され、
ダンテもこの一人に任命された。
しかし、1301年には黒党が政変を起こして実権を握り、フィレンツェは黒党の勢力下となった。
当時ダンテは教皇庁へ特使として派遣され、フィレンツェ市外にいた。
黒党の天下となったフィレンツェでは白党勢力に対する弾圧が始まり、幹部が追放された。
ダンテも欠席裁判で教皇への叛逆や公金横領の罪に問われ、市外追放と罰金の刑を宣告された。
ダンテはこの判決を不服として出頭命令に応じず、罰金を支払わなかったため、黒党から永久追放の宣告を受け、
再びフィレンツェにもどれば焚刑に処されることになった。こうしてダンテの長年にわたる流浪の生活が始まった。
ウィキペディア(Wikipedia)より
塔の左側がダンテの家 Casa di Dante
 
現在フィレンツェにあるダンテの生家は観光用に建てられたもので、実際の家はフィレンツェを追放された後に破壊されている。
ダンテの家系は現在に至るも存続し、ワイン業「セレーゴ・アリギエーリ」を営んでいる。
ダンテは1318年頃からラヴェンナの領主のもとに身を寄せ、ようやく安住の地を得た。
そこで『神曲』の執筆にとりかかり、1321年に『神曲』の全篇を完成させた。
しかし、1321年9月14日外交使節として派遣されたヴェネツィアへの旅の途中でマラリアに罹り亡くなった。
客死したダンテの墓は今もラヴェンナにあり、フィレンツェはたびたびラヴェンナにダンテの遺骨の返還を要求しているが、
ラヴェンナはこれに応じていない。 
NHK教育テレビ(イタリア語会話)で、ラヴェンナのダンテの墓の灯明の油がフィレンツェから送られるという場面があった。

サンタ・クローチェ教会の付近には皮革店が多い
サンタクローチェ教会には革の学校がある。
この革細工は教会の本の装丁に使われていた技術でこれが一般に普及し現在の皮革製品製造の技術に発展した。
それでこの教会の周辺に革細工の店が多いとのことだ。
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