2008.2.1(金)ルッカLucca
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 今日はルッカに向かうことにした。サンタマリアノベラ駅(SMN)から8時38分の普通列車に乗る。
所要時間は『地球の歩き方』では1時間〜1時間40分とある。
朝の列車は1時間40分かかった。
単線のため途中で待ちあわせがあるため所要時間に違いがでるようだ。
FI.SMN
フィレンッエ
LUCCA
ルッカ
所要時間
08:38
10:21
01:43
料金は普通で1人往復で9.8ユーロ
 

行きの列車、一見きれいに見えるが
手すりの表面が破れている座席が多く、
窓ガラスに落書きがあって
イタリア国鉄の車両はもうひとつ。

ルッカはオペラ作曲家プッチーニ
の生まれたところです。
ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini, 1858年12月22日 - 1924年11月29日)はイタリアの作曲家。その作品であるトスカ、蝶々夫人、ラ・ボエームなどのオペラは今日でも上演の機会が多いことで知られる。イタリアのルッカに生まれ、ベルギーのブリュッセルで没した。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ルッカ駅構内

駅舎に時計があるが狂っている。

歩いた経路
ルッカ (Lucca) は、人口79,783人のイタリア共和国トスカーナ州ルッカ県のコムーネの一つで、
ルッカ県の県都である。
旧市街は16-17世紀にかけて建てられた城壁で囲まれており、美しい街並みを今に残している。
ドゥオモ、サン・ミケーレ・イン・フォロ教会など、中世の建物が見どころである。
また、14世紀に建てられたグイニージ通りにある「グイニージの塔」は、
ルッカの町並みや周辺を眺められる恰好の展望台となっている。
かつての城壁は、現在では緑の多い約4キロにわたる遊歩道となっており、
散歩やサイクリングを楽しめる市民の憩いの場となっている。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ルッカの城壁

城壁の上の遊歩道

城壁を歩いていくと有名なグイジーニの塔が
見えてきた。
塔上に木があるので有名である。

サンフランシスコ広場のモニュメント
 
VAL DEL FOSSOという通り左側に運河

ANFITEATRO広場(ローマ円形劇場跡)
円形劇場と思っていたら建物に囲まれた広場だった。
実際は円形ではなく楕円形になっている。

周りは古い家並みで囲まれている。

引用:google eart

ANFITEATRO広場航空写真 引用:google earth

サン・フランシスコS.Francesco教会、 ゴシック様式

路地から見える時計塔

サン・フレディアーノ教会

ファザード上のモザイク画(ベルリンギエーリ作)
 ベルリンギエーリ・ボナベンツーラ
イタリアの画家。ミラノのベルギエルス(1250年までミラノに在住)の息子。
彼はいくつかのキリスト磔つけ像を描いた。
その中の1つが1254年にCasabasciano Pieve教会のために描かれたものである。
そしてもうひとつが1284年にルッカのサント'アレッサンドロ マジョーレ教会のためのものである。
彼はボナヴェントゥラとマルコBerlinghieriと兄弟であった。
引用:英語版 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

グイノニージの塔から教会を望む

内部は3つの廊がある

祭壇

入り口上のパイプオルガン

ロマネスク様式の聖水泉

サン・フレディアーノの像
 
聖水泉後方の壁の受胎告知レリーフ
 フレディアーノ(Frediano)
アイルランド人の6世紀の前半にルッカの主教であった人物。
スペインのサラゴーサの殉教者セント・ヴィンセントにこの地に教会を建て奉納した。
フレディアーノがこの教会に葬られたときサン・フレディアーノ教会に改名された

サン・ミケーレ・イン・フォロ教会

ファザードの上の大天使ミカエル像
大天使ミカエル 
ラファエル、ガブリエル、ウリエルと共に四大天使の一人、
神に反逆し、堕天使ルシフェルとは、
双子の兄弟と言われている。
中世においてミカエルは兵士の守り手、キリスト教軍の保護者であった。
現代のカトリックでは、兵士ではなく警官や救急隊員の守護聖人になっている。
(引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
 
ロッピア作の聖母子像
ルカ・デッラ・ロッビア(Luca della Robbia, 1400年 - 1481年)
、フィレンツェ出身のイタリアの彫刻家。テラコッタの丸皿で知られる。
戸外での耐久性があり、建物の外装に使うのに適したものを
作るための、土器の釉薬を開発した。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

グイニージの塔

入り口の看板

グイニージの塔
屋上に木が見える

屋上
この塔はルッカの有名な商人グイニージ一族のものである。

屋上からルッカ市街を望む

豪華な本屋さん
天井はステンドグラスになっている。

本屋さんの中にカフェがありました。
コーヒーの値段は意外と安かった印象です。エスプレッソは量が少なくて私の好みではありませんのでカプチーノを注文しました。

サン・ピエトロ・ソマルディ教会
S.Pietro Somaldi
プッチーニは若い頃にミラノに移る前、この教会でもオルガン演奏を行った。この教会のパイプオルガンは17世紀のもっとも貴重なものである。ルッカの有名なパイプオルガン製造職人、ドメニコCacioliによって作られたものである。

サン・ジョバンニ教会
San Giovanni Basilique
ドゥオモのすぐ近くにある教会、教会の床下にはローマやローマ以前の遺跡がある。プッチーニに関係する音楽会がよく行われる。プッチーニはこの教会で1858年12月23日に洗礼を受けた。プッチーニの父親はここに葬られている。


昼食を摂ったピッツエリア、かなり混んでいた。(焼きたてを出してくれる)
どうもピザの味についてはよく分からない。個人的には日本で食べた方がいいのでなないかと思う。

ナポレオン広場
中央にブルボン家のマリア・ルイーズの像がある。後方はプラタナスの並木。


ルッカ県の県庁
アンマンナーティにより16世紀後半に左半分が建てらた。
アンマンナーティはフィレンッエのシニョーリア広場のネプチューン像の製作、ピッティ宮を拡張し完成させた人物、フィレンッエのサン・ジョヴァンニーノ・デーイ・スコローピ教会に墓がある。
マリア・ルイーザという女性はたくさんいるがナポレオンに関係あるのはこの人だろう。
マリア・ルイーザ
(Maria Luisa, 1791年12月12日 - 1847年12月17日)
神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)の娘で、フランス皇帝ナポレオン1世の皇后。
後にパルマ公国の女公(在位:1814年 - 1847年)。
その他に同名
アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ(Anna Maria Luisa de'Medici, 1667年8月11日 - 1743年2月18日)
ピッティ宮殿で暮らした最後のメディチ家直系の人物。
コジモ3世とマルゲリータ・ルイーザ(オルレアン公ガストンの娘)の娘としてフィレンツェに生まれた。
最後のメディチ家のトスカーナ大公ジャン・ガストーネは弟である。
1691年、プファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムと結婚。
子供のないまま、1716年に夫と死別した。
遺言として「メディチ家のコレクションがフィレンツェにとどまり、
一般に公開されること」を条件に、すべての美術品をトスカーナ政府に寄贈した。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【ナポレオンとルッカ】
 1735年頃にルッカはナポレオンの妹エリーザ・ボナパルトに支配されていた。オペレッタ 「パガニーニ」はルッカを舞台にルッカ公国公妃であるナポレオンの妹エリーザとバイオリニストのパガニーニとの恋物語。両者とも実在の人物であり、フィクションか本当かは分からないが、パガニーニがアンナ・エリーザの愛人であったことは事実のようである
マリア=アンナ・ボナパルト (Maria Anna Bonaparte)、通称エリザ・ボナパルト (Elisa Bonaparte, 1777年1月13日 - 1820年8月7日) は、ナポレオン・ボナパルトの妹。エリーズ・ボナパルトとも。トスカーナ 女大公(在位:1809年 - 1814年)。
1777年、コルシカ島で生まれる。1784年に当時の女子教育の最高学府であるサン=シール学院に入学するも、1792年に中退を余儀なくされた。1797年に軍人フェリーチェ・パスクヮーレ・バチョッキと結婚。1804年にフランス第一帝政が始まるとともにフランス帝国の女公爵となり、1806年にはルッカ=ピオンビーノ大公妃になった。1809年にトスカーナ大公国が復活すると女大公に封じられたが、1814年にナポレオンが失脚するとともに逃亡した。 
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジュセッペ・ガリバルディの像
ジュセッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi、1807年7月4日 - 1882年6月2日)はイタリア王国統一に貢献した軍事家。イタリア統一運動(リソルジメント)を推進。イタリア統一を進めるため、多くの軍事行動を個人的に率いた。ヨーロッパと南米での功績から“2つの世界の王”とも呼ばれる。カヴール、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の1人。1860年千人隊を組織してシチリアの反乱を援助し、両シチリア王国を滅ぼした。その後、征服地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上してイタリア統一に大きく貢献した。その後は政治家となることなく余生をカプレーラ島で送った。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ドゥオーモ、サンマルティーノ教会
サンマルティーノ(聖マーティン、マルタン):4世紀頃、ハンガリー生まれて北イタリアで育ち、皇帝騎士隊の一員となりフランスに渡る。逸話として、路で凍えている浮浪者に自分のマントを半分に切って、かけてやった。その後、夢にイエスが現れてそのイエスが自分が浮浪者にかけてやったのと同じマントをかぶっていたいうう話が有名。11月11日はサンマルティーノの日。

ファザードは白と緑の大理石で作られ、3層のアーチで形成されている。(G.ダコーモの設計)
ドゥオーモにはティントレットの“最後の晩餐”がある。コインと投入すると何分間かライトがあたってよく見えるようにしたる。

レリーフ『キリストの十字架降下』(ピサーノ作)



ルッカのアコーデオン弾き(動画:画面をクリック)
(再生にはQuick Time Playerが必要です)
午後4時半過ぎにはルッカ駅にもどり16:32分発のフィレンッエ行きに楽々間に合った。
列車は行きと同様がら空き状態で走っていた。
LUCCA
ルッカ
FI.SMN
フィレンッエ
所要時間
16:32
17:52
01:20
----------------------------------以下 フィレンツェ-----------------------------
本日のフィレンッェの天気は曇りだったが雨は降らなかった。
気温は大阪より暖かくて夜間は帽子が必要だが持ってきたホッカイロは使わなかった。 

フィレッェのドーモ近くのレストランで夕食
ウエイターが『チッチキ・チー』と言った
のには苦笑した。
だれがこんなあほなギャグを教えたのだ。
日本語のメニューがあった。

個人的にはフィレンッェの食事
の値段は高い。
円高ではあるがマックの値段も
日本より高い。

スープ(?)リゾットのようだった

野菜のスープ、実だくさん!! 食べ応え十分

サラダを頼んだつもりだったが、タコとジャガイモの温サラダ
タコがいっぱいで軟らかい、ボイルではなく圧力釜で調理したのだろうか?

あさりのボンゴレ、これだけは想像iしたのと同じだった。
とにかく量が多い。全部食べきれなかった。
周りを見るとどうもみな一品しか注文していない。
大食漢のイタリア人でも食べきれないのだろう。
以後はよほど腹がすいていないかぎり注意することにする。

夜のロッジア(フィレンツェ)
露店がないとなんだがさびしい・・・
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