2008.2.4(月) フィレンツェ
戻る      

今日は最終日なのでゆっくりとフィレンツェ市内を歩いてみた。
ウインドウショピングもと思ったが、閉まっている店が多い。
月曜日が定休日の店が多いのかと思って店に掛けてある営業時間を見たら、
月曜日は午後からあるいは午後3時からと書いている店を多く見かけた。
月曜日の午前を休みにしているようだ。

P. te A. Vespucci 橋

ヴェッキオ橋

サン・トリニタ橋

V.go S. Frediano教会


アルノ川沿いの建物の屋上の彫像
この時は雲がとれて日がでていました。
アルノ川 (Arno)
イタリア中部を流れる長さ241kmの川でトスコ=エミリアーノ・アペンニーノにあるファルテローナ山 (Falterona) に
標高1385mから源流を発して、ティレニア海に注いでいる。
川沿いの主な町にはフィレンツェやピサがある。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

リパブリカ(共和国)広場

ピッティ宮

ドゥオーモ前でかっこいい制服の軍人さんを見た


天国の門(きれいになっている)

天国の門のギベルティの彫像
ロレンツォ・ギベルティ(Lorenzo Ghiberti、1381年頃 - 1455年12月1日)初期ルネサンスの彫刻家、金細工師。鋳造技術においては並ぶ者のない腕前を示し、その技量は今日においても賞賛されている。フィレンツェ随一の芸術家であり、彼の工房はドナテッロやパオロ・ウッチェロ、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオら優れた芸術家を輩出した。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジョットの鐘楼
残念ながら2/4から閉館(なんで?)

サンタ・マリア・ノヴェッラ(SMN)教会
後陣と違い正面はきれい
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会(Basilica di Santa Maria Novella)は、イタリアのフィレンツェにある教会。元々、9世紀ごろ、この地にあったサンタ・マリア・ヴィーニェ礼拝堂が起源。その後、1211年にドミニコ会の修道士がこの地に新たな教会を建てることとしたのが、現在の教会である。その当時、修道僧たちが薬草を栽培して薬剤を調合していたのが、世界最古の薬局といわれるサンタ・マリア・ノヴェッラであり、800年以上経た今でも続いている。黒と白の大理石をはめ込んだファサードの上部は、レオン・バッティスタ・アルベルティによるデザインである。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone, 1267年頃 - 1337年)
 ゴシック期のイタリアの画家、彫刻家、建築家。平面的・装飾的なビザンティン絵画の描写法から
現実味ゆたかなルネサンス絵画への先鞭をつけた。
ヴァザーリによる近代最初の画家という評価をはじめ、生前から一貫して巨匠としての名声を保っている。
 フィレンツェ近郊の出身。生年ははっきりしていないが1267年頃と推定される。
ビザンティン様式が支配的だった西洋絵画に現実的、三次元的な空間表現や人物の自然な
感情表現をもたらした。
ジョットの絵画においては人物は背後の建物や風景との比例を考慮した自然な大きさで表わされている。
こうした描写方法は当時の絵画界においては革新的なもので、
こうした点からジョットは「西洋絵画の父」といわれている。
アッシジのサン・フランチェスコ聖堂とパドヴァのアレーナ(スクロヴェーニ)礼拝堂の壁画が
代表的な仕事である。
ジョットはすぐれた建築家でもあり、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の「ジョットの鐘楼」
などを手がけている。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コジモ1世騎馬像(シニョリーア広場Piazza della Signoria)
Signoria:共和制都市国家の政庁のこと
コジモ1世(Cosimo I de' Medici, 1519年6月11日 - 1574年4月21日)
初代トスカーナ大公で、フィレンツェの名門メディチ家の1人。メディチ傍系であり、勇敢な傭兵隊長として知られた「黒隊長」ジョヴァンニ(1498-1526年)と妻マリーアの子。1537年、フィレンツェ公アレッサンドロ(ローマ教皇クレメンス7世の庶子)が暗殺された後、18歳のコジモがフィレンツェ公を継ぐ。ハプスブルク家の支援のもと、フィレンツェの中央集権体制を確立した。1555年にはシエナを併合。1562年、2人の子と妃がマラリアで相次いで死去。1569年に初代トスカーナ大公となった。現在のウフィツィ美術館や、ヴァザーリの回廊などを建設した。晩年は半身不随となり、また再婚するが家庭的に恵まれなかった。トスカーナ大公は子のフランチェスコが継ぐ。
引用抜粋: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

サンティッシマ・アンヌヌンツィアータ広場
広場中央のフェルナンド1世の騎馬像

サンティッシマ・アンヌヌンツィアータ広場
Piazza della Ss. Annuziata
ルネサンス様式のアーチの柱廊で囲まれた広場。この建物がアンヌヌンツィアータ教会。右側が捨て子養育院美術館(ブルネレスキの設計)。
フェルディナンド1世・デ・メディチ(Ferdinando I de' Medici, 1549年7月30日 - 1609年2月7日)
 初代トスカーナ大公コジモ1世とエレオノーラ・ディ・トレドの五男で、第2代大公フランチェスコ1世の弟。 15歳でカトリック教会の枢機卿となったが、1587年に兄フランチェスコ1世夫妻が急死し、フェルディナンドがメディチ家の当主となった。フェルディナンドは翌年に枢機卿の地位を返上し、正式にトスカーナ大公となった。1589年にはフランス王アンリ2世の孫娘クリスティーヌ・ド・ロレーヌを妃に迎えた。政治を省みず錬金術に没頭していた兄フランチェスコと違って、フェルディナンドは枢機卿時代の経験と人脈を生かして積極的な内政・外交を展開した。スペインからの外交的自立性を高め、農地の開墾を進め、産業振興に務めたほか、港町リヴォルノを自由貿易港として関税を免除し、貿易を活発にした。こうして、兄の時代に低迷していたトスカーナ大公国の経済は活性化し、国庫収入も増加、首都フィレンツェの人口も最盛期に迫る7万人台を回復した。また、メディチ家の伝統ともいえる文芸・芸術の保護・振興にも努め、積極的な建設事業を行った。1600年には、姪マリー・ド・メディシスをフランス王アンリ4世に嫁がせるなどフランスへの結びつきを深め、1605年には、元枢機卿の立場からメディチ一族であるレオ11世をローマ教皇に選出させるなど影響力を誇った。賢明な統治で市民の人気も高かったフェルディナンド1世は1609年、60歳で病没した。彼の治世はメディチ家、トスカーナ大公国が繁栄を見せた最後の時代であり、以後トスカーナ大公国は徐々に衰退し、西欧の一小国となってしまうことになる。
抜粋引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フィリッポ・ブルネレスキ(Filippo Brunelleschi, 1377年 - 1446年4月16日 )
 イタリアの金細工師、彫刻家、そしてルネサンス最初の建築家である。フィレンツェおよびローマを中心に活動した。彼は冗談や悪ふざけで他者をからかうことを楽しんだが、発想は鋭く、聡明で機智に富んだ。彫刻家としてはロレンツォ・ギベルティに遅れをとったが、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ建設によって絶大なる賞賛を得た。名声はあまりに大きく、後世には遠近法の発明やオーダーの発見をも彼のものとすることがある。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

サンティッシマ・アンヌヌンツィアータ広場の柱廊

サンティッシマ・アンヌヌンツィアータ広場の噴水

アーチのメダイヨン、右にその拡大像
 捨て子養育院には赤ん坊を人に会わずに預ける回転ドアがあるとのことです。日本の赤ちゃんポストの原型となるものだろう。1875年のの閉鎖まで活動していた。もともとここに4世紀に建築された教会があり、メディチ家がパトロンとなって援助して捨て子養育院として設立されたということ

幼子の青いメダイヨン(ロッピア作)
メダイヨン[medaillon]は大型メダル(フランス語)のことをいう。建築では円形の壁面装飾をいう。また料理では円形の肉などの切り身の形を表す言葉として使われる。
アンドレア・デッラ・ロッビア(Andrea della Robbia, 1435年10月24日 - 1525年8月4日)
ルネサンス期イタリアの(とくにセラミックスの)彫刻家。ルカ・デッラ・ロッビアの弟マルコの子供(つまりルカの甥)である。アンドレアはフィレンツェの生まれ。当時の釉薬を使う美術家の中でも最も有名な人物である。アンドレアの工房は、死後、息子のジョヴァンニ・デッラ・ロッビア(Giovanni della Robbia, 1469年 - 1529年)に引き継がれた。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フィレンツェの99セントショップ
内容は日本の100円ショップと比べると貧弱

これは1ユーロショップ

サン・ロレンツォ教会の向こうにメディチ家礼拝堂

露店のない日のサン・ロレンツォ教会(San Lorenzo)
本日の夕食は中華にすることにしました。前回の旅行でも食べに行ったホテル近くの『北京飯店』で
2人セット(21ユーロ)とジェラートとジャスミンティー(お茶は有料)で40ユーロ前後だった。
味はまあまあ(日本の中華の方がおいしい)ですがチャーハンが食べられるのがよかった。
(別に白いご飯も出てききたが満腹で食べられない)人気があるようでイタリア人の客も入っていた。
午後7時過ぎに行ったが、少し、時間が早いのかはじめはがらあきだった。
レストランは全体に開店が遅いようです。(閉店かと思った) ※:SMN駅前の『京都大酒楼』より価格はリーズナブル

まだ、まだ見ていない所の多い、フィレンツェでした。これだけ古いものを保存するのは大変だろうと思います
。ただ、日本の建造物と違い、石で出来ているので耐久性があるのだと思います。
古いものを残せば便利が悪いし(ホテルの設備の悪さ・・・)、難しい選択のように思います。

追記
 フィレンツェ散策中にAIDS撲滅の署名をしてくれと女性が寄ってきた。
特に問題ないだろうということで署名したら、その後で寄付をしてくれという10ユーロ渡したら、みんな20ユーロ寄付していると言う。
寄付は個人の意志によるものなので断ろうとしたが、旅行に行ってもめるのも嫌なので20ユーロ出した。
少しだまされたような感じがしてあまり気分はよくなかった。
 ボランティア団体としては問題ないのだろうが、寄付して欲しければ先にそのことを言うべきだと思う。
寄付をしたくない人は注意した方がいいでしょう。

AIDS撲滅団体のパンフレット
戻る