ローマ・テルミニ行き普通列車 |
この列車はきれい |
アレッツオ駅ホーム |
アレッツオ駅、あいにく雨が降っていた |
アレッツォ(Arezzo)は人口91,582人のイタリア共和国トスカーナ州のコムーネの一つで、アレッツォ県の県都である。
アルノ川中流に臨み、中世の美術で著名。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エトルリアの町でトスカーナでもっとも栄えた町であったがローマに吸収された。
その後自由都市として栄えたがフィレンツエに破れ、その支配下に下った。
有名なヴァザーリはここの出身である。
アレッツォ 駅 |
モナコ広場、正面の道がモナコ通り |
グイド・モナコ(GUIDO MONACO)の像 |
グイド・モナコ(991or992〜1033)はグイドD'アレッツォとも言い、中世の時代の音楽理論家であった。現代の記譜法(五線譜)の発明者とみなされている。現在のドレミスケールの創始者である。アレッツォのベネディクト会の修道士であった。
引用: 英語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
骨董市の宣伝パンフレット |
骨董市が開かれる道路(黄色部分) |
骨董市というが、がらくたに近いものも売っている。家のドアなども売っていた。
こんなもの買ったらどうして持って帰るのだろうか? |
雨で少し人が少なかったが店はたくさん出ていた。 | |
高価なものはケースに入れている |
古い家具も売っているが、持って帰るのが大変だろう |
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グランデ広場 |
サンタ・マリア・デッラ・ピエーヴェ教会の後陣 |
雨がやんで一瞬日が射し始めた
右側にサンタ・マリア・デッラ・ピエーヴェ(Santa Maria della Pieve)教会の隣が裁判所でその横にフラテルニタ・ディ・ライチ(世俗修道会員)のパラッツオ(Palazzo della Fraternita deli Laici)が見える。上部は15世紀後半のルネサンス様式でロッセリーノ設計によって作られた。
※パラッツオ(Palazzo)とはイタリア語で館のこと。
※修道会:キリスト教、カトリック教会内の組織。聖座の認可を受けて、キリスト教精神を共同生活の中で生きる、誓願によって結ばれた信徒の組織である。(引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) |
グランデ広場の噴水 |
ベルナルド・ロッセリーノ(Bernard Rossellino, 1409年 - 1464年)は、初期ルネサンスの彫刻家・建築家。本名はベルナルド・ディ・マッテオ・ディ・ドメニコ・ガンバレッリ(Bernardo di Matteo di Domenico Gambarelli)。教皇庁の建築顧問として活躍し、レオン・バッティスタ・アルベルティが同庁の書記官となってからは、彼のもとで建築実務を担当した。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
グランデ広場はイタリア映画『ビユテェィフル・ライフ』に出てくる。映画のシーンと同じ位置で撮ってみた。(右の写真) |
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中世の典型的な邸宅の木製バルコニー |
サンタ・マリア・デッラ・ピエーヴェ(Santa Maria della Pieve)教会。この教会はロマネスク・ゴシック様式で表のファザードはアーチの3層で形成されている。これはピサ・ルッカ様式と言われる。 |
| 今日は日曜日でミサの真っ最中だった。ミサが終わるまで骨董市を見物して終わる頃に戻ってきた。 |
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アレッツォ市庁舎 | |
プレトリオ宮殿
かつての法務官邸でアレッツォ中世・ルネサンス期のの価値ある歴史建造物の一つ,、
1434年以降の行政長官や軍隊長の紋章 |
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ドゥオーモ/カテドラーレ
13世紀建築が始まったゴシック様式の
教会で16世紀に完成した。 |
中央玄関の尖端部に「イエス・キリスト」像
(G.カッシォリ作)とアレッツォゆかりの聖人像
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南正面玄関のニッコロ・ディ・ルカ・スピネッリ作のテラコッタ像「聖母子」「聖ドナート」
「福者グレゴリオ5世」(14世紀) |
土産物屋のアレッツォ の『キメラ』
ギリシャ神話に出てくるライオンの頭にヤギの胴体、ヘビの尻尾を持つ生物。
このキメラはエトルリア時代の神殿の奉納品で1553年に発掘作業中に発見された。今日このキメラはアレッツォのみならず、エトルリア文明の象徴となっている。
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【アレッツォ のキメラ】について
アレッツォのキメラの青銅像は、エトルリア美術の最も著名な作品のひとつ。
1553年にエトルリア・ローマ文明からの古い歴史を持つ都市であるトスカーナ州アレッツォで発見され、
すぐにトスカーナ大公であるメディチ家のコジモ1世のコレクションに加えられた。
コジモ1世はこの青銅像をヴェッキオ宮殿で公開した。
アレッツォのキメラは今でもフィレンツェにあり、現在は考古学博物館の所蔵となっている。高さは約80cm。
ギリシア神話では、 怪物キマイラ(キメラ)は生国であるリキュアを荒らし回った末に、 ベレロポンによって退治されたとされる。
この青銅像がアレッツォで発見された時、キメラであれば蛇の形をしていたはずの尻尾の部分が紛失していたため、
発見者はライオンの像だと判断した。
しかし、その後すぐに神話のキメラであることが認められ、実際、ジョルジョ・ヴァザーリによれば、
フィレンツェに運ばれたブロンズの破片の中から尻尾の部分がすぐに発見されたという。
現在の銅像の尻尾部分は、18世紀に修復されたものである。
これらの青銅像は、市の城壁のサン・ロレンティーノ門のすぐ外側で堀を掘っているときに偶然発見された。
今日その場所には青銅のレプリカ像が建っている。
右の前足に刻まれた銘文は、かつてはさまざまな読み方がされてきたが、
近年では、エトルリア神話の最高神ティアナに捧げられた奉納品であることを示すTINSCVILという文字であると考えられている。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
※生物学的にはキメラは、2個以上の胚に由来する細胞集団から形成された個体である。
雑種は2種類を交配させて1個の胚に由来する個体を作ることをいう。
キメラは、接ぎ木の様なもので雑種とは異なる。
昼食に立ち寄ったカフェ |
カフェ内部
お年寄りのイアタリア人の夫婦がエソプレッソを注文して立って一気に飲んで出ていった。立ち飲屋で酒を一杯引っかける様であった。 |
アレッツォ の城壁 | |
少し、日が差したと思ったら、また雨が降り始めた。だいたい見所は見たので少し早かったがフィレンツェに引き返すことにした。駅に着いたら14:06の列車がちょうど来たところで乗り込んだ。帰りも列車はがら空きであった。
AREZZO
アレッツオ |
FI.SMN
フィレンッエ | 所要時間 |
14:06 | 15:25 | 01:19 |
1人4.9ユーロ(行きより0.5ユーロ安かった??)
------------------------------------------- 以下 フィレンツェ -------------------------------------------
フィレンツェに戻ってまだ時間があるのでネディチ・リッカルディ宮の見学に出かけた。ホテルから歩いてすぐだった。
フレスコ画の『ベツレヘムに向かう東方の3賢王』がある。
それの説明CGがあり、人が立って手で画面を指すとその部分が拡大されて説明が始まる。
かなり良くできたコンピュータ装置だった。メ
ディチ・リッカルディ宮(Palazzo Medici Riccardi)は1444年にコジモ・メディチがミケロッツオに設計させて作った館。
その後、16世紀後半にリッカルデ家の所有になった。
外観と相違して内部は随分豪華で優雅な造りになっている。
メディチ・リッカルディ宮 |
柱廊で囲まれた中庭 |
豪華な会議室、実際に使われている |
現在修復中で原寸大の写真が掛けてあった |
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中庭 |
ベニッツォ・ゴッツォリのフレスコ画「ベツレヘムに向かう東方の三賢王」(実物は撮影できないので説明ビデオをコピー)
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ロレンツォをモデルにしているが、画家がよいしょして男前に描きすぎている。 |
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ベノッツォ・ゴッツォリ(Benozzo Gozzoli, 1421年頃 - 1497年)は、フィレンツェ出身のイタリア・ルネサンスの画家。ゴッツォリの最も知られている作品は、メディチ・リカルディ宮にある連作の壁画である。驚くほどディテールに凝った、華やいだ、活気溢れる行進が描かれていて、国際ゴシックがゴッツォリの絵に影響を及ぼしていることを示している。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
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聖書の「マタイによる福音書」2章には輝く赤星に導かれて東方から3人の賢者が、
ベツレヘムで生まれたイエスの所に「黄金・乳香・没薬」を捧げるためにやってくる話が書かれている。
3賢人はヘロデ王がキリストを殺そうとしていることを教えたのでイエスと彼の家族はエジプトに逃れた。
メディチ家礼拝堂 |
サン・ロレンツォ教会 |
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サンロレンツォ教会前の露店 |
ホテルの近くの肉屋、肉以外にワイン、チーズなども売っていた |
フィレンツェの焼き栗屋
焼きすぎて割れて黒くなっている。日本の天津甘栗の方が良さそうです。(2/15放送のテレビでは日本を訪れた外国人の東京みやげの一番は天津甘栗だそうです。) |
肉屋の生ハムいろいろ
こんな店で買う方が安くてうまい |
でかいワイン、上の箱の通常サイズと比べて見て・・ |
夜のランツィのロッジア、『ザビーニの女達の略奪』
伝説上の逸話でローマが出来た頃は女性が少なかった。ローマ創設者ロムルスの考えで近くのサビニなどの村人をローマの祭りに勧誘し、女性達を略奪した。それを題材とした彫刻。 |
サンタマリア・ノベラ教会 |
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