2016年10月27日(木) 2日目
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香港発 01:00 キャセイパシフィック航空CX-0233でミラノへ/07:55着
ミラノ着後、コモへ(約85km、約1時間50分)
 ○ラリオ湖畔散通り/昼食
昼食後、トリノへ、(約200km、約3時間)トリノ市内観光 ○[世界遺産]王宮、
 ○サンカルロ広場
 ◎モーレ・アントネッリアーナ(トリノのシンボル)
18:00/ホテル着
トリノ泊
DIPLOMATIC
ディプロマティック
 香港からミラノへ
便名  機種  香港 (HKG)発  ミラノ(MXP)着 飛行時間 
CX-0233 777-300 01:00 07:55 12:55

ボーイング777-300ER (77W/ 77H)
 
777-300ER (77W/ 77H)シートマップ
 
 
 
夕食
 
朝食、おかゆもチョイス出来ます。
 
 
ミラノ マルペンサ空港
 
コモ湖へ
 
マジョーレ湖とコモ湖、湖はY字型になっている。コモの町の前はラリオ湖
 
ラリオ湖
 
 
 
昔のコモの写真 
 
コモ市の紋章 

国鉄コモ駅
   ミラノ行き列車
コモ(イタリア語: Como ( 聞く))
イタリア共和国ロンバルディア州北西部にある都市で、その周辺地域を含む人口約8万2000人の基礎自治体(コムーネ)。コモ県の県都である。
コモ湖南端のほとり、スイスとの国境に位置する都市で、絹の産地として有名である。
また、古代ローマの博物学者プリニウスの出身地である。
引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細
   
  Cathedral of Como (Duomo)コモ大教会堂
1396年から1740年にかけて建造された。
 ファサードは1457年に作られ、正面のばら窓、入口にはコモで有名な大プリニウス(博物学者・作家・ローマの歴史家(23-79年)と、Pli甥の小プリニウス(脚本家・政治家・ローマ(61-113年)のルネッサンス期の像が入口の両側にある。
内部はラテン十字式構造でで、ゴシック様式の本堂、翼廊はルネッサンス様式である。
 
   

小プリニウス像
 
大プリニウス像
ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus)
古代ローマの博物学者、政治家、軍人。
ローマ帝国の海外領土総督を歴任する傍ら、自然界を網羅する百科全書『博物誌』を著した。
一般には大プリニウスと呼ばれる。
甥に、文人で政治家のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)がおり、養子としている。
引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細
大プリニウスはコモで生まれ、ベスヴィオ火山の噴火に巻き込まれ死んだとされている。
コミック「プリニウス」ヤマザキ・マリ作
     
16世紀のタペストリ  
     
 
昼食のレストラン La Darsena
 
ペンネ
私は普通のスパゲッテイが好きです
 
ホカッチャ
 
説明では鯛?? 
食感では鱒、説明は間違いだろう
パンというのは広義の言葉で、フォカッチャもイタリアで作られるのパンの一種である。
フォカッチャは生地にオリーブオイル(地方によってはラード)、香辛料混ぜ込む、食パンはバターやショートニングを混ぜる。フォカッチャには超硬質の小麦粉を使うので食パンよりのようにフカフカしないで少し固くなる。また、砂糖も少なく、発酵の程度が低い。
 
公園のピノキオの像
 
 
 ラリオ湖畔

「007カジノロワイヤル」,、「スターウォーズ エピソード2 / クローンの攻撃」はコモ湖でロケしている。
 
コモからトリノへ
トリノと(Torino)いう地名は、ケルト語のタウ(Tau)=山に由来する、その後、ローマ共和国となり、「トリノ」と呼ばれるようになった。、「トリノ」というイタリア語で「小さな雄牛(Toro)」を連想させるので、街の紋章に雄牛が使われるようになった。
 イタリア共和国ピエモンテ州の州都で人口は約170万人。ミラノに次ぐイタリア第2の工業都市であり、自動車会社のフィアットがあるのでも有名である。近代にはサルデーニャ王国の首都が置かれ、サヴォイア王家の王宮群は世界遺産に登録されている。

トリノ大学

RAI トリノ
(Radio Audizioni Italiane
RAI:Radio Audizioni Italiane
イタリア放送協会(Radiotelevisione Italiana〔ラディオテレヴィズィオーネ・イタリアーナ〕)、通称 RAI(ライ)は、イタリアの公共放送局である。引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細
トリノ大学(Università degli Studi di Torino)
イタリア北西部のピエモンテ州トリノにある国立大学。ヨーロッパで最も伝統があり、ノーベル賞受賞者を複数輩出した、格式高い名門大学の一つである。現在は12の学部と55の学科からなる。また国連との共同プログラムを設立する等の先進的な取組でも知られる。引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細
 
自動レンタサイクル、日本にも出来て欲しい
     
入り口
 
 モーレ・アントネリアーナ (Mole Antonelliana)
モーレ・アントネリアーナ (Mole Antonelliana)
トリノの象徴的な建築物の一つ。国立映画博物館を有し、世界で一番高い博物館と言われている。
名称は建築家アレッサンドロ・アントネッリの名前から取られた。
ドーム型の屋根の頂上までの高さは121mで、尖塔の上部までの高さは167.5mであり、20世紀以前の建築物としてはエッフェル塔とワシントン記念塔に続き3番目の高さを誇った。
1863年に建設が始まり、26年後の1889年、建築家の死後に完成した。
当初はシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)として建設が始まったが、建築家の名誉心により途中で資金不足に陥り、トリノのユダヤ人社会はアントネッリを解雇した。 引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細】   
 
 

グラン ・ マドレ ・ ディ ・ Dio 教会

サンタ・マリア・デル・モンテ教会
 
Google Mapより引用

トリノ王宮

palazzo nuovo
 
左手の白い建物の前がビットリオ・ヴェネト広場、右手の塔がサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会Chiesa della SS. Annunziata

モーレ・アントネリアーナ (Mole Antonelliana)動画

トリノ エジプト美術館
 古代エジプト専門の博物館でエジプト・カイロにあるエジプト考古学博物館に次ぐ規模のエジプト美術を収蔵している。
1630年に初めてトリノに持ち込まれた「Mensa Isiaca」というエジプト様式の祭壇を見たサルデーニャ王国国王カルロ・エマヌエーレ3世が1753年に植物学者ヴィタリアーノ・ドナティをエジプトに派遣し、カルナック神殿やクィフトから300点以上の文物を持ち帰った。これがトリノのエジプト博物館の中心的な収蔵物となった。
 1824年に国王カルロ・フェリーチェがフランス領事ベルナルディーノ・ドロヴェッティがナポレオンエジプト遠征に従軍しエジプト駐在時に収集した「ドロヴェッティ・コレクション」(彫像100体、パピルス170冊、石碑、ミイラなどを含む5,268点)を購入。 同年、シャンポリオンがトリノの膨大な史料を使用し、ヒエログリフ解読の確証を行なった。
1960年代に行われたヌビアでの石碑発掘調査のイタリアからの支援を記念し、エジプト政府から贈られたエレシヤ神殿が追加された。
引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細】 

カルロ・アルベルト広場 Piazza Carlo Alberto 

国立図書館

カルロ・アルベルトの騎馬像
カルロ・アルベルト・アメデーオ・ディ・サヴォイア(Carlo Alberto Amedeo di Savoia, 1798 - 1849)
サルデーニャ王国の第7代国王(在位:1831年 - 1849年)。元はカリニャーノ公(在位:1800年 - 1831年)
i引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細】 

イタリア統一博物館 (カリニャーノ宮)
museo nazionale del resorgimento italiano
両側で建物の外観がかなり異なる
リソルジメントRisorgimento
イタリア統一運動とも言い、19世紀(1815~1871)に起こったイタリア統一を目的とした政治的・社会的運動である。イタリア語で再興リソルジメント(Risorgimento)と呼ばれ、日本語でもそのまま用いられる。
引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細
 
Google Earthで見ると正面は新しい様式で後ろは古い様式
マダマ宮殿もこれと同じ形式になっている。

カリニャーノ宮Palazzo Carignano
イタリア統一博物館

カリニャーノ宮の中庭
イタリア王国を統一した『ヴィットリオ・エマヌエーレ二世』の生まれた家
1679年、グアリーノ・グアリーニ(Guarino Guarini)によって建築が開始され、その後他の建築家に引き継がれた。レンガ造り建築としては大変ユニークで貴重。1831年までサヴォイア家の宮殿として使用され、その後1848年にサルデーニャ王国議会(Parlamento Subalpino)の議事堂となった。現在は国立イタリア統一博物館(Museo Nazionale del Risorgimento Italiano)となっている。引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele II di Savoia、1820年 - 187)
サルデーニャ王国の最後の国王(在位:1849年 - 1861年)、のちイタリア王国の初代国王(在位:1861年 - 1878年)。サルデーニャ王カルロ・アルベルトとトスカーナ大公女マリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナの長男としてサルデーニャ王に即位する。父から引き継いだイタリア統一戦争に終止符を打ち、リソルジメントを成し遂げたことから、王国の国父(イタリア語: Padre della Patria)と呼ばれた。引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細
ヴィットーリオ・エマニエーレ2世の父カルロ・アルベルトは、トリノの南20kmのカリニャーノを領地にしていたサヴォイア家支流のサヴォイア=カリニャーノ家の当主であった。

カリニャーノ広場にある銅像
ヴィンチェンツォ ・ ジョベルティ Vincenzo.Gioberti 
後ろの建物はカリニャーノ劇場
ヴィンチェンツォ ・ ジョベルティ Vincenzo.Gioberti 
有名なイタリア人の哲学者で政治家。1825年にサルディニア王国宮廷つきの司祭に任命されるが、過激な共和主義的な行動のため.1833年に国外追放となった。.1848年にイタリアに帰還し、サルディニア・ピエモンテの宰相となり(1848-49)、その後駐仏大使となった。
 
サンカルロ広場

エマヌエーレ・フィリベルト (サヴォイア公)の騎馬像
カルロ・マロケッティ(1805-1867)が1838年に作った

サンタク・リスティーナ教会とサン・カルロ教
サヴォイア家は現在のフランスからイタリアの国境をはさまれた位置にあり、フランスとスペインハプスブルグ家の争いから同家の領地はフランスに占領されていた。
エマニエーレ・フィルベルト・ディ・サヴォイアは1557年にサンクィンティーノの戦いBattle of St. Quentinでフランスに大勝し、サボイア家の領地を奪還した。勝利後に剣をさやに収める動きを表している。『青銅の馬』"Caval 'd brons"と呼ばれている。
エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア(Emanuele Filiberto di Savoia, 1528 - 1580)
サヴォイア公(在位:1553年 - 1580年)、ピエモンテ公、アスティ伯(在位:1538年 - 1580年)、アオスタ伯、モーリエンヌ伯、ニース伯である。さらに、キプロス王、エルサレム王である。通称「鉄頭」(Testa di Ferro)。フランス語名エマニュエル・フィリベール・ド・サヴォワ(Emmanuel Philibert de Savoie)。 引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細
 カステッロ広場 Piazza Castello
 
王宮を守護する門の双子の騎馬像 

カストールCastore(左)

ポルックスPolluce(右)
双子座の神話
ゼウスの息子の双子、弟はポルックス、兄はカストールと言う。ポルックスは神で不死だが、カストールは人間で、死ぬ運命だった。ポルックスは自分より上の神様に頼み、自分の不死を兄に半分譲った。この双子の兄弟は1日の半分は神として天上で過ごし、残りの半分は地上で人間として暮らすことになった。
ギリシア神話の双子ディオスクーロイ(Dioskouroi)が星座の双子座になったといわれる。

王宮、後方にマダマ宮殿

マダマ宮殿(市立古典美術館)
マダマ宮殿前の広場はカステッロ広場Piazza Castelloという。
マダマ宮殿は王宮広場の東側にある宮殿で、2006年のトリノオリンピックでは建物が国際オリンピック委員会のラウンジとして使われた。
 サヴォイア家は、かつてイタリアのピエモンテとフランス及びフランス語圏スイスにまたがるサヴォワ一帯を支配していた辺境伯貴族であった。1713年、スペイン継承戦争の結果シチリア王国の王位を獲得、1720年にハプスブルク家とシチリア島、サルデーニャ島の交換を行い、サルデーニャ王国の王位を代わりに得た。
トリノは、サヴォイア家が16世紀に都と定めたことから繁栄を始めました。イタリア統一運動はイタリ王国の王家となり、威光を示すため、さまざまな重厚な建物を作った。
 第二次世界大戦後、王制の是非を問う国民投票により王制廃止が決定してイタリアが共和制となると、一族は国外退去を余儀なくされた。帰国さえもイタリア憲法により2002年まで禁じられていた。
引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細
 
マダマ宮殿の前の銅像
サルディニャ王国陸軍少尉の像
Monumento all'Alfiere dell'Esercito Sardo
有名なティチーノの彫刻家ヴィンチェンツォ・ベラ(1820~1891)によって製作された。
1815年、ロンバルド=ヴェネト王国としてオーストリアに奪取されたミラノは、1859年にフランスの援助を受けたサルディニャ王国が、ミラノをオーストリアから解放した。ミラノがそのお礼として1859年にこの銅像を寄贈した。

マダマ宮殿とアカイアの城(Castello degli Acaia)

 1934年から市立古典美術館
ここはもとはローマ時代の大きな門の一部で、その後、要塞となり、1400年代には城となり、その後、18世紀に建築家のユヴァッラによりバロック建築の豪華な正面部分が増築され、現在のマダマ宮殿となった。
17世紀にヴィットリオ・アメデオ1世の未亡人で、カルロ・エマヌエル2世の摂政であったマリー・クリスティーヌ(マダマ・レアーレMadama Reale)の住居になった。それで彼女の名前をとって、現在はこの宮殿をマダマ宮殿と呼んでいる。
※マダマ(Madama):はマダムのこと
 
DAVIDE RIVALTA作(ボローニャ1974年生まれ)
   
Bufale mediterranee 地中海の水牛

ドゥオーモ 大聖堂

ドゥオーモ大聖堂
ドゥオーモとシンドーネ(聖骸布)Il Duomo e la Sindone
ドゥオーモは、トリノ司教ドメニコ・デッラ・ロヴェーレ枢機卿(1442-1501)が建築家メオ・デル・カプリーノMeo del Caprino (1430-1501)に依頼して1491年から1498年にかけて建設された、ルネッサンス様式の建築物である。トリノの守護聖人であるサン・ジョヴァンニ・バッティスタをまつっている。隣にフィリッポ・ユヴァッラが1700年代に建てた鐘楼がある。
ドゥオーモには、1587年からシンドーネ聖骸布はドゥオーモ内のンドーネ礼拝堂Cappella della Sindone(グアリーノ・グアリーニ設計)に保管されている。

聖骸布(せいがいふ、Holy Shroud
キリスト教でいう聖遺物の一つで、イエス・キリストが磔にされて死んだ後、その遺体を包んだとされる布。イエス・キリストの風貌を写したという布には、聖ヴェロニカの聖骸布、自印聖像など、複数あったといわれるが、ただ一つ現存するのがトリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されている「トリノの聖骸布」(Shroud of Turin)である。
引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細
 
鐘楼Cathedral Bell Tower 
ルドヴィコ・ロマナーノによって始まった鐘楼の建設は、I469年の記録によればGiovanni di Compeys司教によって続けられた。 1484年には、鐘が設置されて鳴らされた。 世紀末に、枢機卿ドメニコ・デルタ・ロボレが別の階を塔に付け加えた。 1720年、ヴィットリオ・アメデオ公爵2世は建築家フィリッポ・ジュヴァラの設計でさらに高くしようとしたが塔の底部の問題で実現しなかった。

古代ローマ劇場跡

パラティーナ門Teatro Romano e Porta Palatina
古代ローマ劇場とパラティーナ門Teatro Romano e Porta Palatina
大聖堂のそばに、紀元1世紀の古代ローマ円形競技場跡Teatro Romanoが残っている。遺跡の横には紀元1世紀の高さ30メートルの二つの塔のあるパラティーナ門Porta Palatinaがある。現在のマダーマ宮殿は、もとはプレトリア門というローマ時代の城壁内の一番東にある門であった。 

トリノ王宮の中庭

トリノ王宮
   
レアリReali庭園
 
王宮庭園 (レアリ庭園)
 ベルサイユ宮殿の庭園を手がけたアンドレ ル ノートルが設計、幾何学的に整えられた庭園です。
かつてこの地に君臨したサヴォイア王家の威光を今に伝えるシンボルとなっている。王宮庭園の前面にバロック様式の王宮を建てたカルロ エマヌエレⅡ世が庭園設計家のアンドレ ル ノートルに庭園の設計を依頼した。
庭園の人工池に立つ、シモーネ マルティネス作のトリトンの噴水の彫像の前で、写真撮影はいかがでしょうか。この噴水は、海の底から上がってくるトリトンを、白鳥に曳かれた二輪戦車から海の妖精が見つめている様子を表した精巧なデザインになっています。 引用;エクスペディア【詳細
カステッロ広場の回廊にあるコロンブスの彫像 

イタリアのラテンアメリカ移民の
第一大戦参加記念記念碑

コロンブスの指に触れると幸運を呼ぶ
コロンブスの青銅のメダリオン
有名な彫刻家DINO SOMAによって1923年に作られた。イタリアのラテンアメリカ移民が第一次世界大戦への参加した記念として多くのトリノ人に愛されている。 クリストファー・コロンブスの手の小指をこすると幸運をもたらすと言われている。 大学生が試験合格祈願に来たりしている。そのため、彫像の指はすり減り、近い将来には小指を交換する必要性がある。
 
ガッレリア・スバルピーナ Galleria Subalpina
ガッレリア・スバルピーナ
チェーザレ・バッティスティ通りからカステッロ広場に通じるアーケードで、スバルピーナ産業銀行が1873年にピエトロ・カッレーラの設計を依頼し建造された。トリノの老舗カフェ「バラッティ&ミラノ」、有名レストラン「アルカディア」がある。
また、有名な哲学者ニーチェが住んでいたアパートもある。小なガレリアだが、床の大理石装飾などは洗練されたものである。

カフェフィオーリオ
トリノのカフェでもっとも古く1780年の創業で、プッチーニが気に入っていたことで有名なカフェである。 カフェ・フィオーリオ caffè fiorioのジェラート売り場
ジェラートが美味しいことでも評判の店である。 
買って食べましたが、私には評価できませんでした 

RISTORANTE Govanni

黒トリュフのスパゲッテイ
これは美味しかった。
Trip Adviserではトリノのレストランで
2,725 軒中 399 位
 ポルチコ(日本ではアーケードでしょう)
トリノの貴族が雨に濡れないで町を歩くために作った。
ボローニャのポルチコでは歩道の上に住宅を増築し、住宅不足を解消するという目的があった。

トリノのカフェ アブラーテ(ABRATE)
1866年創業の老舗のカフェ

欧州の冬の名物焼き栗屋
 
 ホテルの近くにイタリア国鉄の駅があるので行ってみた。
 
旧駅舎
 
新駅舎
トリノ ポルタ・スーザ駅 Stazione di Torino Porta Susa
 イタリアのトリノにあるトリノ-ミラノ線の駅。 2008年のトリノ-ミラノ高速線の開業に伴い、新トリノ・ポルタ・スーザ駅が開業し、翌年は旧駅舎が廃止となり、全ての鉄道線が新しい駅舎に移動した。
引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細
   
   
道路にあった有料トイレ、フランスでよく見かけました。
トリノのホットドリンクといえばビチェリン
ビチェリン(Bicerin)
イタリアのトリノが原産の伝統的な温かい飲み物である。エスプレッソ、ホット・チョコレート、牛乳から作られ、小さく丸いグラスに層状にして提供される。ビチェリンという言葉はピエモンテ語で「小さなグラス」を意味する。この飲み物は18世紀から知られており、1852年にアレクサンドル・デュマ・ペールに賞賛されたことで有名である。17世紀の飲み物"Bavareisa"がベースであると考えられ、その主な違いは、ビチェリンでは3つの素材が混合されるのではなく、グラスの中で層状に積み重ねられることである。アメリカでは、牛乳の代わりにヘビークリームが用いられる。
Caffè Al Bicerinは、トリノのPiazza della Consolataで18世紀から提供されており、この店が起源だと考える者もいる。現在もVia PoにあるCaffè Fiorioで1704年頃に初めて作られたと考える者もいる。
2001年、ビチェリンはピエモンテ地域の“traditional Piedmontese product”に認定された。
引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細
     
トリノ市内はまだ市電が現役で走っていました。  
 
 トリノのトラム(市電)
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