RAI:Radio Audizioni Italiane
イタリア放送協会(Radiotelevisione Italiana〔ラディオテレヴィズィオーネ・イタリアーナ〕)、通称 RAI(ライ)は、イタリアの公共放送局である。引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細】 トリノ大学(Università degli Studi di Torino)
イタリア北西部のピエモンテ州トリノにある国立大学。ヨーロッパで最も伝統があり、ノーベル賞受賞者を複数輩出した、格式高い名門大学の一つである。現在は12の学部と55の学科からなる。また国連との共同プログラムを設立する等の先進的な取組でも知られる。引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細】
Google Earthで見ると正面は新しい様式で後ろは古い様式
マダマ宮殿もこれと同じ形式になっている。
カリニャーノ宮Palazzo Carignano
イタリア統一博物館
カリニャーノ宮の中庭 イタリア王国を統一した『ヴィットリオ・エマヌエーレ二世』の生まれた家
1679年、グアリーノ・グアリーニ(Guarino Guarini)によって建築が開始され、その後他の建築家に引き継がれた。レンガ造り建築としては大変ユニークで貴重。1831年までサヴォイア家の宮殿として使用され、その後1848年にサルデーニャ王国議会(Parlamento
Subalpino)の議事堂となった。現在は国立イタリア統一博物館(Museo Nazionale del Risorgimento Italiano)となっている。引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細】
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele II di Savoia、1820年 - 187)
サルデーニャ王国の最後の国王(在位:1849年 - 1861年)、のちイタリア王国の初代国王(在位:1861年 - 1878年)。サルデーニャ王カルロ・アルベルトとトスカーナ大公女マリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナの長男としてサルデーニャ王に即位する。父から引き継いだイタリア統一戦争に終止符を打ち、リソルジメントを成し遂げたことから、王国の国父(イタリア語:
Padre della Patria)と呼ばれた。引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細】
サヴォイア家は現在のフランスからイタリアの国境をはさまれた位置にあり、フランスとスペインハプスブルグ家の争いから同家の領地はフランスに占領されていた。 エマニエーレ・フィルベルト・ディ・サヴォイアは1557年にサンクィンティーノの戦いBattle of St. Quentinでフランスに大勝し、サボイア家の領地を奪還した。勝利後に剣をさやに収める動きを表している。『青銅の馬』"Caval 'd brons"と呼ばれている。
エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア(Emanuele Filiberto di Savoia, 1528 - 1580)
サヴォイア公(在位:1553年 - 1580年)、ピエモンテ公、アスティ伯(在位:1538年 - 1580年)、アオスタ伯、モーリエンヌ伯、ニース伯である。さらに、キプロス王、エルサレム王である。通称「鉄頭」(Testa
di Ferro)。フランス語名エマニュエル・フィリベール・ド・サヴォワ(Emmanuel Philibert de Savoie)。 引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細】
ドゥオーモとシンドーネ(聖骸布)Il Duomo e la Sindone
ドゥオーモは、トリノ司教ドメニコ・デッラ・ロヴェーレ枢機卿(1442-1501)が建築家メオ・デル・カプリーノMeo del Caprino
(1430-1501)に依頼して1491年から1498年にかけて建設された、ルネッサンス様式の建築物である。トリノの守護聖人であるサン・ジョヴァンニ・バッティスタをまつっている。隣にフィリッポ・ユヴァッラが1700年代に建てた鐘楼がある。
ドゥオーモには、1587年からシンドーネ聖骸布はドゥオーモ内のンドーネ礼拝堂Cappella della Sindone(グアリーノ・グアリーニ設計)に保管されている。
聖骸布(せいがいふ、Holy Shroud)
キリスト教でいう聖遺物の一つで、イエス・キリストが磔にされて死んだ後、その遺体を包んだとされる布。イエス・キリストの風貌を写したという布には、聖ヴェロニカの聖骸布、自印聖像など、複数あったといわれるが、ただ一つ現存するのがトリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されている「トリノの聖骸布」(Shroud
of Turin)である。
引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細】
鐘楼Cathedral Bell Tower
ルドヴィコ・ロマナーノによって始まった鐘楼の建設は、I469年の記録によればGiovanni di Compeys司教によって続けられた。 1484年には、鐘が設置されて鳴らされた。 世紀末に、枢機卿ドメニコ・デルタ・ロボレが別の階を塔に付け加えた。 1720年、ヴィットリオ・アメデオ公爵2世は建築家フィリッポ・ジュヴァラの設計でさらに高くしようとしたが塔の底部の問題で実現しなかった。
古代ローマ劇場跡
パラティーナ門Teatro Romano e Porta Palatina
古代ローマ劇場とパラティーナ門Teatro Romano e Porta Palatina
大聖堂のそばに、紀元1世紀の古代ローマ円形競技場跡Teatro Romanoが残っている。遺跡の横には紀元1世紀の高さ30メートルの二つの塔のあるパラティーナ門Porta
Palatinaがある。現在のマダーマ宮殿は、もとはプレトリア門というローマ時代の城壁内の一番東にある門であった。