2016年10月29日(土) 4日目
08:00/トリノからアルバへ
白トリュフ祭りへ、その後、バローロへ
《絶景ポイント》
世界遺産に登録されたブドウ畑の広がるランゲ地区を観光 13:15/昼食
昼食後、ジェノバへ8:30/ジェノバ市内観光
《絶景ポイント》
港町ジェノバを一望する展望ポイントへ
○[世界遺産]ロッリの邸宅群、
○コロンブスの家、
○フェッラーリ広場
18:00/ホテル着する展望ポイントへ
18:00/ホテル着
ジェノバ泊
スターホテル・プレジデント
STARHOTEL PRESIDENT
出発まで時間があるのでホテルの周りを散歩してみました。
道路脇の水道に牛の蛇口
ホテル正面
ポルチコの天井の装飾も豪華です
トリノからアルバ
アルバ
トリノから南南東へ、約60キロの位置にある小さな町でワインと白トリュフで有名である。ピエモンテ州を代表するワインを生産し、周囲にはブドウを生産する美しい丘陵地帯が広がっている。
町の歴史は古代ローマ時代までさかのぼり、中世時代からルネッサンス時代にかけて建造された建物がたくさんある。
1377年にボルナーバ・ダ・モーデナが描いた「慈悲聖母」がある「サン・ジョバンニ教会」や、14世紀建造のゴシック様式の「サン・ドメニコ教会」があり。
「ヴォットリオ・エマヌエレ通り」には、帯状装飾の15世紀の宮殿「ド宮殿」や、「コンティ・ベッリ宮殿」があり、中世時代の塔もある。
毎年10月には「アルバの白トリュフ市 Fiera Nazionale del Tartufo Bianco d'Alba」が有名で、オークションでは、数千万という高価な白トリュフが話題になる。
100gが300ユーロ(3万6千円)の白トリフ
トリフのペースト
白トリフ
黒トリフ
フォルチーニ茸EXTRA 100gが18ユーロ
白トリフのペースト
ワインの試飲(有料)カウンター
サン・ロレンツォ教会 Cattedrale di San Lorenzo
サン・ロレンツォ像
聖ロレンツォ (San Lorenzo martire、225年-258)は、キリスト教の聖人で、火傷・火災・熱病から守ってくれる保護者であり、また、菓子製造人、料理人、栄養士、メイド、宿の管理人、肉屋、ワイン・ビール醸造者、図書館員、兵器製造者、ガラス工、ステンドグラス製造者、コメディアン、学生などの守護聖人でもある。
熱した鉄格子の上で火あぶりにされたが、数分の後に、兵士に向かって「こちら側は焼けたから、もうひっくり返してもよい」と言った伝えられる。引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細 】
グリル焼きで亡くなったのでグリルの聖人になったとも・・・。
天使:Angel
ライオン:Lion
牛:Bovini
鷲:Aquia
3つの頭文字で地名の”ALBA”になる。
サン・ジョヴァンニ洗礼教会
ファサードには聖母子が
描かれている
10世紀頃に建造されたが、老朽化のため15世紀に再建された。
その後、1544年の戦争で破壊されたので、再度、18世紀(1716年から1725年)に再建された
洗礼礼拝堂のキリストの洗礼(現在修復中)
ジョヴァンニ(Giovanni )は、キリスト教の聖人ヨハネ(洗礼者ヨハネ)にちなむイタリア語の人名。
ジョバンニと表記されることもある。愛称として、ジャンニ(Gianni)がある。
「洗礼者」という意味のバッティスタ(Battista)が付く場合も多い。女性名はジョヴァンナ(Giovanna)。
引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細 】
VIDEO
アルバトリフュ祭り動画
アルバの白トリフ祭りを見学後、バローロへ
アルバからバローロへ
バローロ( Barolo)
イタリア共和国ピエモンテ州クーネオ県にある、人口約700人の基礎自治体(コムーネ)。この地域の特産品である「バローロ」は、最高級のイタリアワインの一つである。この町の成立に関するはっきりした史料はないが、先史時代からケルト系のリグリア人が暮らしていたのではないかと考えられている。中世初期には、この地の動向が記録されるようになる。バローロは、ランゴバルド王国、アルバ伯国を経て、トリノ侯国
(it:Marca di Torino) の領土となった。バローロ城の中心部が築かれたのもこの時期である。
1250年には、有力な銀行家一族であるファッレッティ家の人々が、
アルバからバローロに居を移した。1300年頃には、ピエモンテ地方の50ほどの町を勢力下に置いた。1461年にバローロはモンフェッリーノの領土となり、1631年にはサヴォイア家が領主となった。1730年、バローロは侯爵領となった。「バローロ」を名乗るワインは、イタリアのワイン法で品質保証付きの高級ワインを示すDenominazione
di Origine Controllata e Garantita (デノミナツィオーネ・ディ・オリジネ・コントロッラータ・エ・ガランティータ/DOCG)
として、生産地、葡萄品種から製造法に至るまで厳格に規定されている。
引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細 】
元の建物は1000年以上前にさかのぼる。城は防御を目的として建築された.
最も古い部分は北側の高い塔である.
100年後に、南部分に建物が拡張され、エレガントな住居になった。
2つの四角い塔と円錐形の塔が住居として特徴づけている。
印象的で質素で風格のあるレンガ造りの建物は、4つの面に沿って並んだアーチとノコギリ状の装飾でソフトな印象を与えている。
城はランゲの丘のブドウ畑を眺めるのに一番最適な位置にある
カミッロ・カヴール Camillo Cavourの銅像
カヴール伯爵カミッロ・ベンソ Camillo Benso, Conte di Cavour(1810-1861)
「カミッロ・カヴール」や「コンテ・ディ・カヴール(カヴール伯爵)」の通称で知られる、19世紀イタリアの政治家。サルデーニャ王国首相、イタリア王国首相(閣僚評議会議長・初代)、外務大臣(初代)を歴任。
ガリバルディ、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」と称される。
引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細 】
グリンツァーネ・カヴール城
ブドウ畑
1807 年、バローロ侯カルロ・タンクレーディ・ファッレッティがパリでフランスの貴族女性を妻にした。
彼女は太陽王ルイ14世の税務大臣のひ孫でジュリエット・コルベール・ディ・モレヴリエという女性だった。彼女が巧みな発酵技術で有名なバローロ産ワインを作り上げた。しかし、1864年、ジュリエットの死をもって栄誉あるファッレッティ家の家系は途絶えた。このエピソードは、あるもうひとつの家族のエピソードと重なり合う運命にありました。ピエートロ・アッボーナと子供のエルネスト、マリーナ、チェレスティーナ兄弟姉妹がバローロ農場を買い取ることに成功し、由緒あるマルケージ・ディ・バローロのワイン醸造および熟成用カンティーナを作り上げた。
当時の醸造用の大きな木樽は現在もバローロのカンティーナで見ることができる。アッボーナ家は2世紀以上前に始まった高級ワインの醸造を継続している。
Marchesi di Barolo マルケシ・バローロ
(マルケシは侯爵のこと)
試飲コーナー
窓からはワイン畑が見えます
マルケシ・バローロではレストランも経営しており、料理にグラスワイン3種出してくれます。
黒トリフのスパゲッティ、白トリフは高いので出てきません
仔牛の赤ワイン煮
一番高そうなワイン、約18万円
BAROLO RESERVA CASA 1990年
これも高い、4万円くらい
BAROLO DEL CMUNE
BAROLO 2012
39.5ユーロ
安いのは1000~1500円程度
バローロからジェノバへ
バローロからジェノバへ
ジェノヴァ (Genova )
イタリア共和国北西部にある都市で、その周辺地域を含む人口約58万人の基礎自治体(コムーネ)。リグーリア州の州都であり、ジェノヴァ県の県都である。
リグリア海に面した港湾都市で、中世には海洋国家(ジェノヴァ共和国)として栄え、商工業・金融業の中心地としての長い歴史を持つ。現代においてもミラノ、トリノなど北イタリアの産業都市を背後に持つジェノヴァ港はイタリア最大の貿易港であり、地中海有数のコンテナ取扱高を誇っている。コムーネ人口は全国6位(2011年現在)。
1100年頃より自治都市となり、その後はジェノヴァ共和国として発展する。
ヴェネツィア、ピサ、アマルフィなどの他の海洋都市国家と競いながら、軍事力、経済力の影響力を増した。特に商船、軍艦による通商・金融の分野でヨーロッパ全土に権威をふるい、黒海貿易を独占するなどした。
1797年、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍に侵攻され、その傀儡国家であるリグリア共和国となり、1805年にはフランスに併合、ナポレオン失脚後のウィーン会議後も共和国であったため回復させてもらえず、ウィーン議定書によりサルデーニャ王国へ編入され、ジェノヴァは独立を失った。その後リソルジメントでサルデーニャ王国がイタリア半島統一を成し、イタリアの有力な都市の一つとして発展した。
引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細 】
※ジェノバ人はベネチア人に比べ、団結力がないと言われる。戦争で負けそうになると内部分裂して、負けてしまう。
ジェノバ港の帆船、ガレオン船ネプチューン号
ガレオン船とは、16世紀半ば~18世紀ごろの帆船の一種である。単にガレオンまたはガリオンなどとも表記される。
引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細 】
ジェノバの町を一望できるルイージ・モンタルド展望台(Spianata castelleto)
VIDEO
SAN VINCENZO地区の1915-1918の戦死者達記念碑
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の騎馬像
コルヴェット広場
ガリバルディ通りは、ユネスコ世界遺産に登録されたストラーデ・ヌォーヴェの中でも、一般公開されている建物がなどが立ち並ぶ通りである。
16世紀、ジェノヴァ共和国が経済的に関係のある国の要職者を迎え、もてなすためにジェノバ貴族の豪奢な私邸を使った。彼らの邸宅のある通りをを「ストラーデ・ヌオーヴェ」という。それらの邸宅を「ロッリの邸宅群(パラッツィ・デイ・ロッリ)」と呼ぶ。
Rolli(ロッリ)とは、Rottoli(ロットリ/筒状に巻かれたド記録から由来し、要人のおもてなしの命を受けた貴族の私邸宅について記録されていたので、「パラッツィ・デイ・ロッリ(ロッリの邸宅群)」と呼ばれる。
白の宮殿 Palazzo Bianco
現在はドイツ銀行
エントランスのフレスコ画。
イタリア人画家、フラマン人画家の絵画が
展示されている美術館
ドーリア・トゥルシ宮殿 Palazzo Doria Tursi
現在は市庁舎
ジェノヴァ出身のヴァイオリン奏者
パガニーニのヴァイオリンが展示されている。
コロンブスの生家 18世紀に復元
ソプラーナ門 Porta Soprana
サンタンドレア修道院の回廊の遺構
この門はサンタンドレア門(Porta Sant'andrea)と呼ばれていた。
この門の近くにサンタンドレア修道院があったから。
フェッラーリ広場 Google Eathより
ラファエレ・デ・フェラーリ、ガルリエーラ公爵 (1803~1876)
ジェノバで生まれの貴族で、サルデーニャ王国の上院議員でもあった。彼は1875年にジェノバ港の拡張のために多額の寄付をした。それに感謝してこの広場をフェラーリ広場と命名された。自動車会社のフェラリーとは関係ないらしい。
フェッラーリ広場( Piazza De Ferrari)
オフィスビル、銀行、保険会社などが集まっており、ジェノヴァの金融、ビジネスの中心となる地区。
ジェノヴァ人はここを「シティ」と呼ぶ。
クレディトイタリアーノ銀行 1893年に設立されたイタリア銀行の支社
Accademia ligustica di belle arti 左の建物
リグスティカ(ligustica)美術アカデミー : 1751年に' ジェノヴァに設立された芸術教育学校の機能を融合した博物館 。 リグスティカ(ligustica)はリグーリア州の名前に由来し、ligusticaはその形容詞
である。
卒業生としては画家のチェーザレViazzi(1857~1943 )、写真家のフレデリック・クラーク、アーティストのチェーザレヴィエル ( 1964
~)などが有名である 。引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細 】
Galleria San Lorenzo al Ducale 宮殿の一部がギャラリーに
ギャラリーの中
ドゥカーレ宮 Palazzo Ducale
ドゥカーレ宮殿 Palazzo Ducale
ドゥカーレは「総督」を意味し、ドゥカーレ宮殿 は都市国家ジェノバ共和国の総督公邸であった。要塞として使われていたが16世紀後半にマニエリズムの様式の建物に変化していった。1797年、ジェノヴァ共和国が終わり、ドゥカーレ宮は自治体の行政本部、その後、裁判所となり、文化財保存のため修復された。現在、議会、展覧会、講演会などが行われ、資料館、図書室、レストラン、ショップなどの多目的文化会場として使用されている。また、2001年にはGサミット/先進国首脳会議がここで開催されている。引用【詳細 】
カルロ・フェリーチェ劇場
カルロ・フェリーチェ劇場とガリバルディ騎馬像
カルロフェリーチェ劇場は、ジェノヴァの最も有名なメインシアターの一つ
カルロ・フェリーチェ (Carlo Felice Giuseppe Maria di Savoia、1765- 1831)は、サルデーニャ王国の第6代国王(在位:1821-
1831)。
第3代国王ヴィットーリオ・アメデーオ3世の五男。母はスペイン王フェリペ5世の娘マリーア・アントニエッタ。兄にはカルロ・エマヌエーレ4世やヴィットーリオ・エマヌエーレ1世らがいる。
カルロ・エマヌエーレに子供が出来ず、ヴィットーリオ・エマヌエーレの子供は娘ばかりだった(女子には王位継承権がない)。1821年ヴィットーリオ・エマヌエーレが退位し、すでに50歳を過ぎていたカルロ・フェリーチェが王位を受け継ぐこととなった。引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細 】
La statua del Genio dell'Armonia ,ハーモニーの天才の彫像
カルロフェリーチェ劇場のジュゼッペGaggini( ジェノヴァ生まれ 1791~1867 )作の彫像
ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi, 1807 - 1882)
イタリア統一運動を推進し、イタリア王国成立に貢献した軍事家である。
イタリア統一を進めるため、多くの軍事行動を個人的に率いた。ヨーロッパと南米での功績から「二つの世界の英雄」とも呼ばれ、カヴール、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の一人とされる。
引用;フリー百科事典Wikipedia【詳細 】
イタリアはどの町にいってもガリバルディの銅像か、ガリバルディ通りがあるようだ。
この銅像は1800年末に建立された
イタリア語でホテルは「hotel(オテル)」、「albergo(アルベルゴ)」などと呼ばれる。
プレジデント・ジェノバ
一応4つ星でした
今夜は1階(0階)でパーティがあるようで音楽をガンガン鳴らすので泊まっていた2階まで響いていた。しかし、疲れていたのですぐに寝てしまった。
ちょっと遅くにホテルに着いたので、ホテルで夕食になりました。
ミネストローネ
タイのソテー
メニューです
ミネストローネはパスタや米が入っているイタリア料理の野菜スープ
タルトとカプチーノ
夕食後、町を散歩するつもりでしたが、疲れたので寝ることにしました。