2018年6月12日(火)7日目
  Top 次ページ
  ------------------------予定---------------
8:30/ホテル出発
ポルトガルの首都・リスボン観光<約5時間>
(大航海時代を記念した記念碑
○発見のモニュメント、大航海時代の富をつぎ込んでつくられた
◎ジェロニモス修道院【世界遺産】
○ベレンの塔
○サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台よりリスボンの街並みを一望
17:00頃/ホテル到着
------------------------------------------
ホテルの朝食です。ちょっと珍しいものがありましたので紹介まで。

パステル・デ・ナタ Pastel de Nata
エッグ・タルト

マッサァン・アサーダMaca Assada
焼きリンゴ

ホテル正面
 今日は市内見物です。
今日はサンアントニオ祭の前夜祭で市内の交通網が制限されるとのことです。
やっぱりリスボンと言えばレトロな市電です 

Municipal square市立広場
モニュメントは18世紀に作られた

王冠を被った
らせん状モニュメント

サン・ロケ教会(Igreja de Sao Roque)
1584年の天正遣欧少年使節が1ヶ月滞在した教会

教会前の広場のモニュメント
Largo Trindade Coelho
イエズス会は1553年にサン・ロッケ礼拝堂を所有、すぐに小さな礼拝堂を大きな教会とすることを決めた。
現在の建物は1565年から1587年にかけ、簡素なマニエリスム様式で建造された。
1世紀の間、サン・ロッケ教会の内装は、マニエリスム様式、バロック様式、ロココ様式などの芸術で飾り立てられた。
ジョアン5世はローマ風のバロック様式を大変好み、植民地ブラジルで産出された金を惜しげもなく使い、1740年に礼拝堂全体をつくらせた。
イエズス会は、ジョゼ1世の宰相ポンバル侯により1758年にポルトガルから追放され、所有していた資産も国家に没収された。1768年、ジョゼ1世はサン・ロッケ教会とかつてのイエズス会の資産を、1498年創設のポルトガルの信仰慈善団体『ミゼリコリダ協会』へ与えた。
引用;Wikipediaより
聖ロケ(聖ロクス)
フランスの総督の子息として生まれたが、20歳のとき両親をなくしたのを機に全財産を貧者のために投げうってローマ巡礼の旅に出た。
ローマでは当時流行っていたペスト患者の看護にあたった。ロクスが患者の頭上に十字架の印をすると、患者はたちまち癒えたという。
ロクス自身もペストにかかったが、犬が食べ物を運んできたり、舐めてくれて、ロクスのペストを治してくれたという伝説がある。彼はスパイだと勘違いされ投獄され、そのまま獄死した。
絵画や肖像では、裂傷を負った脚を見せて立ち、傍らにはパンをくわえたイヌが描かれている。
引用;Wikipediaより 

サンロケ教会内部

聖ロケ、右足元に犬

ポルトガルのマリアは王冠を被っているのが特徴

マリア像とイエズス会の4聖人
この中の1人がフランシスコザビエル?

左下がF.ザビエルでその右がイグナチウス・ロヨラ
イグナチオ・デ・ロヨラ(1491- 1556)
カスティーリャ王国領バスク地方出身の修道士。カトリック教会の修道会であるイエズス会の創立者の1人にして初代総長。同会の会員は教皇への厳しい服従をモットーに世界各地で活躍し、現代に至っている。イグナチオは『霊操』の著者としても有名で、対抗改革の中で大きな役割を果たした。カトリック教会の聖人で記念日(聖名祝日)は7月31日である。 
引用;Wikipediaより

カモンイス広場

カモンイスの銅像
今年はジャカランダの花の咲きがかなり悪いようです。まともに咲いているところがありましたので撮りました。
ジャカランダはアルゼンチン原産、ノウゼンカズラ科の落葉高木でホウオウボク、カエンボクと並んで「世界三大花木」に数えられています。
神秘的で美しい花が特徴で釣鐘の形をした花が、ひとつの花房に50〜90個ほどつき、満開になれば青紫の花が木を覆う、それで「紫雲木(しうんぼく)」という別名がついている。また、花姿が桐の花と似ているので「キリモドキ(桐もどき)」とも言われる。
日本では宮崎県が有名ですが、大阪の一心寺でもみることが出来ます。  
 
ジャカランダの花(Wikipediaより引用)
 次はアルカンタラ展望台へ、途中にケーブルカーのグロリア線が見えます。

ケーブルカー、グロリア線

ケーブルカーが故障して止まっている
すぐに動きそうにないので乗るのは中止 
 
サン・ペドロ・アルカンタラ展望台からの眺め
※聖ペドロ=聖ペテロ、もと漁師でイエスの最初の弟子
ローマ皇帝ネロによって逆さ十字架にかけられて殉教した。

新聞配達少年の像とEduardo Coelhoの像
ホセ・エドゥアルド・コエーリョ Eduardo Coelho (1835 - 1889)
ポルトガル人の書体デザイナー、作家、ジャーナリストで、新聞「ディアリオ・デ・ノシシアス」(リスボン)を創設した。
展望台見学の後は ジェロニモス修道院の見学
 ジェロニモス修道院( Mosteiro dos Jeronimos)
ポルトガルの首都リスボンのベレン地区にある修道院であり、世界遺産「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」の構成資産のひとつである。マヌエル様式の最高傑作ともいわれ、大航海時代の富をつぎ込んで建築された。
2007年12月13日に、リスボン条約の調印式が行われた場所でもある。
ジェロニモスは聖ヒエロニムスのことで、ヒエロニムス会の修道院である。
王家の霊廟だったのはバターリャ修道院だが、ジェロニモス修道院が出来てからはそちらが王家の霊廟となった。
この結果、マヌエル1世もジェロニモス修道院に葬られている。著名人ではヴァスコ・ダ・ガマの棺も、この修道院に安置されている。
引用:wikipedia
ヒエロニムス(Eusebius Sophronius Hieronymus, 347年頃 - 420年)
キリスト教の聖職者・神学者。聖書のラテン語訳であるウルガータ訳の翻訳者として知られる。
四大ラテン教父のひとりであり、正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人とされる(カトリックでは教会博士)。
日本ハリストス正教会での呼称は克肖者イエロニムである。
引用:wikipedia
※余談ですが、インディアンのジェロニモはメキシコ人が勇猛なインディアン戦士に畏敬の念をもって守護聖人のジェロニモみたいだと言ったところからつけられた。ジェロニモは正式な名前ではない。
 
海洋博物館・考古博物館とジェロニモス修道院

海洋博物館・考古博物館

ジェロニモス修道院

西門(入り口・出口)

バスコ・ダ・ガマの墓

カモンイスの墓
 ジェロニモス修道院 内陣 360度画像
ジェロニモス修道院 内陣 リスボン ポルトガル 2018/06/12 Jeronimos Monastery Inner Lisbon Portugal June 12 2018 - Spherical Image - RICOH THETA
 ジェロニモス修道院 聖歌隊席360度画像
ジェロニモス修道院 聖歌隊席 リスボン ポルトガル 2018/06/12 Jeronimos Monastery Choir Seat Lisbon Portugal june 12 2018 - Spherical Image - RICOH THETA

イスラム的な印象です
 ジェロニモス修道院の中庭360度画像 
ジェロニモス修道院 リスボン ポルトガル 2018/0612 Mosteiro dos Jeronimos Lisbon Portugal June 06 2018 - Spherical Image - RICOH THETA
ジェロニモス修道院見学後、ベレンの塔へ
 
ベレンの塔 Torre de Belem、思っていたより小さい
ベレンの塔(Tower of Belem)
正式名は「サン・ヴィセンテの塔」、建造は1515年から1521年にかけてのことで、指揮したのはフランシスコ・デ・アルダであった。ジェロニモス修道院と同じく、建設を命じたのはマヌエル1世である。ヴァスコ・ダ・ガマの業績をたたえる目的をこめた灯台だが、テージョ川河口を見張る要塞としての機能も備えていた[13]。当時のリスボンでは、英国やオランダの海賊に対する備えが必要だったのである。
1755年にリスボンを襲った大地震では多くの建物が被災したが、ジェロニモス修道院とベレンの塔があるベレン地区は難を逃れ、さして損壊を被らなかった。ただし、その地震で川の流れが変わったことで、ベレンの塔は中洲から川岸へと、位置関係を変えた。
航海に関する事物をモチーフとした装飾があしらわれたマヌエル様式建築の傑作のひとつで、作家司馬遼太郎はその優雅さを「テージョ川の貴婦人」と評した。
引用:wikipedia 

思ったよりでかい!!
モニュメント東側
発見のモニュメント Padrao dos Descobrimentos
 

モニュメント西側
52メートルの高さのコンクリート製で、キャラベル船の船首の曲線に似せてある。
建築家コッティネッリ・テルモと彫刻家レオポルド・デ・アルメイダが、ポルトガルで開催された1940年の国際博覧会の象徴として制作したものである。独裁者アントニオ・サラザール時代の典型的な、過去のポルトガル栄光の時代へのロマン思想を表しているとみられている。
最初に作られた記念碑はもろい素材で制作されたため、エンリケ航海王子没後500年の記念行事として1960年にコンクリートで再度制作された。彼は記念碑にある像の一つとなり、川を見つめている。エンリケの後方に、その他の同時代の探検家、芸術家・科学者・地図制作者・宣教師らの像が並ぶ。約30名のポルトガル人の像がある。
引用;Wikipediaより 

あれ? 1543年じゃなかったのか
 
サンタ・ジュスタのリフト、Google Earthで見るとこんな具合です
Elevador de Santa Justa

サンタ・ジェスタのエレベーター

古風なエレベーター、もっと乗れるはずだが?
古いので重量制限があるようです。

バイロアルトへの連絡橋、エレベーターの屋上は展望台(有料)

1日乗車券が使えます。屋上は別料金
サンタ・ジュスタのリフト (Elevador de Santa Justa)
 リスボンのカルモ通りにあるリフト(エレベーター)。通称「カルモのリフト」(Elevador do Carmo)。カルモ広場の登り坂で、バイシャ・ポンバリーナの通りとつなぐ。リスボンの観光名所の一つ。
設計したのは、フランス系でオポルト生まれのエンジニア、ラウル・メスニエル・デ・ポンサルドである。建設は1900年に始まり1902年に終わった。
リフトは高さ45メートルあり鉄製である。どの階も、異なるパターンのゴシック・リヴァイヴァル建築様式で装飾されている。最上階はらせん面体のはしご段で上る。テラスからはサン・ジョルジェ城、ロシオ広場、隣のバイシャ・ポンバリーナ地区の素晴らしい眺めが楽しめる。
2つのエレベーター・ブースがある。(※1つは修理中で動いてなかった) どちらも内装は木製で、1台におよそ24人が乗れる。
リスボンにある都市リフトの中で、サンタ・ジュスタは唯一縦型で垂直に立つ。他のものはリスボンの急勾配を上るためのケーブル式である。サンタ・ジュスタ・リフトの外観から、多くの人がギュスターヴ・エッフェルが建てたと勘違いしている。
引用;Wikipediaより
 
展望台からの眺め、左端はカルモ教会、1775年の地震で倒壊した
カルモ修道院(Convento da Ordem do Carmo)
ポルトガル・リスボンにある中世につくられた修道院。1755年のリスボン地震後、再建されず廃墟となった。
崩壊したゴシック様式の教会「カルモ教会」(Igreja do Carmo)は、大地震の爪痕である。
カルモ修道院は、ロシオ広場を眺める丘の上、シアード地区にある。サン・ジョルジェ城に面する。
前には静かなカルモ広場があり、サンタ・ジュスタのリフトと非常に近い。
現在、カルモ教会の廃墟はカルモ建築博物館として利用されている。 
引用;Wikipediaより

向こうに見えるのはテージョ川

サン・ジョルジェ城
 サン・ジョルジェ城(Castelo de Sao Jorge)
丘の上の最初の要塞化は紀元前2世紀頃であるということだけ知られているが、考古学調査から、少なくとも紀元前6世紀までには、フェニキア人・古代ギリシャ人・カルタゴ人の影響を受け、土着のケルト人とイベリア人が占領していたとわかった。
のち、古代ローマ帝国、スエビ族、西ゴート王国、ムーア人と支配者が変わった。 
レコンキスタが南下してくると、城とリスボンの町はポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケス(のちの初代ポルトガル王アフォンソ1世)により、ムーア人から取り戻された。
引用;Wikipediaより

サン・ジョルジェ=聖ジョージ
ゲオルギオス(Georgios)とも言う。キリスト教の聖人の一人。古代ローマ末期の殉教者。ドラゴン退治の伝説でも有名である。
引用;Wikipediaより

ロシオ広場も一望に

展望台から360度画像
サンタ・ジュスタのエレベーターの展望台 2018/06/12 Santa Justa Elevator Observatory June 06 2018 - Spherical Image - RICOH THETA
聖ジュスタと聖ルフィナ(3世紀の聖人)
 伝説ではジュスタとルフィナ姉妹は敬虔なキリスト教徒でスペインのセビリアに住み、陶器を作って売って生計を立てていた。ルフィナは西暦268年にジュスタは西暦270年に生まれたとされている。異教徒の祝祭のための陶器を売るように言われたが、それを拒んだ。この地の行政長官ジオジオニアヌスは、彼女らを投獄して拷問し、キリスト教からの改宗を迫った。しかし、この姉妹はかたくなにそれを拒否した。そのため、シエラ・モレナ山脈を水も食料も与えられず素足で歩かされた。そのため妹のジュスタが最初に亡くなった。彼女の遺体は、井戸に投げ込まれたが、後に司教のサビヌスによって遺体は回収された。
それでも姉のルフィナは信仰を捨てることを拒否した。円形劇場のライオンのいるところに投げこまれた。しかし、ライオンは飼い猫のように彼女の前でおとなしくなってしまった。怒り狂ったディオゲニウスは、ルフィナを絞め殺し、斬首し、焼いてしまった。彼女の遺体はサビヌスによって回収され、287年に彼女の姉と一緒に葬られた。のちに2人は聖人となった。
引用;Wikipediaより
 
Saints Justa and Rufina, by Murillo
引用;Wikipediaより
 
 今日の昼食はカタプラーナ鍋料理
レストラン シスターナA Cisternaで昼食

どうも盛り付けが大雑把

カタプラーナ(cataplana)鍋料理
「カタプラーナ」は、ポルトガルの伝統的な鍋料理でスペイン料理でパエリヤ専用の鍋がある様に、ポルトガル料理ではカタプラーナ鍋がある 。
 
 
 フィゲイラ広場Pr. da Figueira

ジョアン1世騎馬像

フィゲイラ広場の
Statue of King John I
 アウグスタ通りを少し散歩
・・・ちょっと撮影した順番を忘れてしまった・・・順番が狂ってるかも・・・

アウグスタ通り、歩行者天国になっている

勝利のアーチ、その向こうに
ドン・ジョゼ1世の騎馬像
ジョゼ1世( 1714 - 1777)
ポルトガル王国ブラガンサ王朝の国王(在位:1750年 - 1777年)。「改革王」(Reformador)と呼ばれる。
ジョアン5世とその王妃マリア・アナ(神聖ローマ皇帝レオポルト1世の皇女)の息子。 
引用;Wikipediaより
 ロシオ広場に戻って夕食のレストランを確認して一度自由解散
 ロシオ広場
ロシオ広場 (Praca de Rossio)
通称ペドロ4世広場(Praca de D. Pedro IV)の名前が広く知られている。バイシャ・ポンバリーナ地区にあり、
中世からの歴史を持つ。かつては民衆の反乱や祝祭、闘牛、公開処刑が行われた。
現在は、リスボン市民や観光客の好んで指定する待合い場所となっている。
広場の通称は、ポルトガル王ペドロ4世であり、のちブラジル初代皇帝となったペドロ1世にちなんでいる。 
『ロシオ』とは、古ポルトガル語で『所有者のいない草原』という意味である。
引用;Wikipediaより

ロシオ広場の噴水

ペドロ4世の像

マリア2世国立劇場
 マリア2世国立劇場
 
マリア2世国立劇場
 
ロシオ広場
 
東南アジアでよく見る三輪タクシー(トゥク・トゥク))

ロシオ駅、馬蹄形の入り口が特徴

馬蹄形の入り口
 ロシオ広場でクラッシクカーになった新婚さん、おそらくパフォーマンスでしょう
ロシオ広場360度画像 
ロシオ広場 リスボン ポルトガル 2018/06/12 Plaza Rossio Lisbon Portuga June 12 2018 - Spherical Image - RICOH THETA
夕食は添乗員さんおすすめのシーフード料理)
トリップアドバイザーで調べて自分でさがしてもよかったが、歩き疲れたのでやめた。
 

ジョアン ド ガラオンと発音する

内部

ビンではなく、珍しく生ビールあり

バカリャウ(棒だら)とポテトを玉子で和えた料理
Bacalhau na Brasa

あさりをもう一皿注文
 夕食後もまだ明るいので歩行者天国のアウグスタ通りを散歩してコメルシオ広場へ

オロはスペイン語でも、イタリア語でも金
コンプロは買う、スペイン語、イタリア語も同じ

薬局

サン・ジョルジェ城

カルモ教会
 
アウグスタ通り
 
   
レスタウラドーレス広場(Praca dos Restauradores) 
レスタウラドーレスの記念碑は、高さ30のオベリスクで、 1886年 4月28日に作られた。 1640年 の12月1日の スペインからの独立を祝うものである。台座の青銅像は、 手に壊れた鎖を持っている、これは独立を意味している。
カルモ修道院の横にある建物 

ポルトガル共和国国家警備隊Republican National Guard ( GNR )

衛兵が立っていました
ポルトガル共和国国家警備隊(Guarda Nacional Republicana、GNR)
ポルトガルにおける国家憲兵組織。
公共治安警察 ( PSP) と並ぶポルトガルの警察組織であり、重要施設の警備や地方部における警察業務、儀仗活動などを行っている。
引用;Wikipediaより 
 
カルモ修道院

カルモ広場 カルモの噴水
コメルシオ広場(Praca do Comercio)
ポルトガル・リスボンにある広場。『貿易広場』という意味である。
テージョ川近くにあり、いまだに元の名前テレイロ・ド・パソ(Terreiro do Paco、宮殿広場の意味)が有名である。
これは、1755年のリスボン地震で崩壊したリベイラ宮殿があった場所のためである。
地震後、広場はポンバル侯の命令によりポンバル街の再建の一部として完全に改修された。
引用;Wikipediaより

勝利のアーチ (凱旋門)

ドン・ジョゼ1世の騎馬像
像は、リスボンで初めて王へ献上された記念像で、彫刻家ジョアキン・マシャド・デ・カストロの作品 

コメルシオ広場
 
4月25日橋Ponte 25 de Abril
リスボンとテージョ川対岸のアルマダとを結ぶ、長さ2,277 mの吊り橋。
1966年8月6日に開通した。開通した当初は、当時のポルトガルの独裁者アントニオ・サラザールにちなみ、サラザール橋と呼ばれていたが、1974年4月25日のカーネーション革命のすぐ後、革命が起こった日から名前をとって改称された。
長さは2,277 mで、上段が6車線の道路、下段が複線の鉄道となっている。鉄道部は当初建設した時から構想はあったが、経費削減のため実行されず、最終的に完成したのは1999年。
引用;Wikipediaより
 コメルシオ広場 360度画像
コメルシオ広場 ポルトガル リスボン 2018/06/12 Pr. do Comercio Portugal Lisbon June 12 2018 - Spherical Image - RICOH THETA
 スーパーで買い物も残っているので地下鉄のバイシャ・シアード(Baixa Chiado)に引き返し
ブル−ラインに乗り、マルケス・デ・ボンバルでイエローラインに乗り換え、カンポ・ペケーノで下車

リスボンの地下鉄のロゴ

地下鉄路線図 色で区別されている 
ちょっとしょぼいお土産ですが・・・ イワシの缶詰に西暦が書いてあるだけ。
スーパーでは安いので1.5ユーロ、この土産屋では4〜7ユーロ
中身は変わらない、スーパーでも洒落たデザインの缶詰を売ってました。 

リスボンの地下鉄

いぼころりの広告
 
闘牛はポルトガルでもやっています。
牛は観衆の前では殺さない、闘牛士8人(フォルカード)で素手で押さえ込んでしまう。
スペインの闘牛とは少し違うようです。
カンポ・ペケーノ駅のホームの壁の装飾タイル、きれいなので撮影しました 

ホテルの近くの地下鉄の駅CAMPO PEQUINOカンポ・ペケーノ
闘牛場があり、地下はフードコートとスーパーになっている
1892年ポルトガルの建築家ジョゼ・ディアス・ダ・シルヴァの設計で建てられた。レンガ造りのアラブ風が特徴。
 
聖アントニオ祭り(6月13日)の前夜祭で夜中でも大音響の音楽、午前3時頃まで続いていた。
明日は午前4時起きなので寝不足になってしまう。
リスボンの守護聖人“聖アントニオ”を讃える祭り「聖アントニオ祭(Santo Antonio de Lisboa)」が毎年6月12日(前夜祭)と13日(聖アントニオ祭当日)に行われる。
イワシを炭で焼いて食べることから、聖アントニオ祭は、別名“イワシ祭り”と呼ばれている。
聖アントニオは、縁結びの聖人として有名。、イワシを食べ、愛の告白をする日。
現地のガイドさんに言わせると外国人にはもの珍しいが、私らにはイワシを焼いて食って馬鹿騒ぎ、テレビで見ている方がましとのこと。

聖パドヴァのアントニオ(195年 - 1231)
パドアのアントニオは、カトリック教会で、失せ物、結婚、縁結び、花嫁、不妊症に悩む人々、愛、老人、動物の聖人とされている。
リスボンで貴族の子として生まれた。そのため、リスボンのアントニオとも呼ばれる。アッシジのフランチェスコに共感し、彼の創設したフランシスコ会に入会。イタリアや南フランスといった地域を巡り、精力的に活動するも、パドヴァ近郊で病没した。
説法に優れ、生前から民衆にも大変人気のある人物であったという。彼が死んだとき、天使たちが舞い降りて町中の教会の鐘をひとりでに鳴らしたとも言われている。彼の絵画や肖像では、幼子のキリストを抱き、本とユリの花、パンがともに描かれている。
祝日は6月13日。パドヴァ、ポルトガル、ブラジルの守護聖人。
引用;Wikipediaより

6月13日はイワシ漁の解禁日でもある。聖アントニオがイタリアのリミニで説教を行ったが人々は彼の説教を聞きに来ない。浜辺で説教をしていたら、海の魚が説教を聞きに現れたという伝説。(聖フランシスコの説教を小鳥が聞きに来たという伝説とよく似ている)この話とも関連してイワシを焼いて食べるらしい。
 
聖アントニオ祭 リスボン
  Top 次ページ