6月25日(水)バルセロナへ 1日目
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関空→スキポール空港
 関空からKLMでアムステルダム経由でバルセロナに向かう。
KLM機はボーイング 3列・4列・3列で3列席は移動に困る。
乗る前にアナウンスがありビデオシステムが不調で一部動かないということだった。
搭乗したら全席ビデオ・システム、ライト、アテンダント呼び出し、すべて動かない。これはきつい。
こういうことも予想してパソコンに(FMLOOXT50S、予備バッテリー装着)ビデオ2本をCD革命で保存しておいた。
これを見ることにした。

隣の日本人乗客も手持ちぶさたで話しかけてきた。
彼は外国人向けの日本語教師でエジンバラの日本語学校の入学式に行くということだった。

英国ではロンドン、マンチェスター、米国ではニューヨークの学校の日本語教師をしたそうだ。
ニューヨークでは少し物騒な学校で勤務していて少し怖かったなど話をしてくれた。
これで少しは退屈さがしのげた。
 
機内の朝食、変わった形の容器に入っていた。
パスタ、サラダ、お菓子(画像の上、パンではなく
、ゴーフルのようなお菓子)
エコと重量軽減のためかトレイがかなり簡素化されている。

アムステルダムからバルセロナ向けの機体、
主翼の先端が上に曲がっているのが特徴
 

スキポール空港の免税店で売っていたしょぼいカーナビ、まだカーナビは大したことはないようだ。

iPodタッチをスキポール空港でWiFiを起動してみた。パソコンでやるより速い。FreeでコネクトOK。iPodタッチはインターネット閲覧だけならすぐれもの。

SONYよりかなり安いカーナビ
後で調べたら、TomTomというのはヨーロッパでは有名なメーカーだった。ヨーロッパでは盗難に遭う心配もあって取り外しがきく簡単なタイプに人気があるようだ。
 
スキポール空港→バルセロナ空港
 スキポール空港で降りたら、お詫びということでクーポン券が配られた。
マイル、食事、機内での買い物券のどれかに使え、3000円相当だった。

アムステルダムでバルセロナ行きに乗り換え、定刻の午後7時半にでバルセロナ空港に到着した。思ったより暑い。
迎えに来てくれた友人のレンタカーに乗り込み、空港の駐車場を出ようとして精算機にカードを入れたが動かない。
違う精算機に入れてもだめ、仕方がないので事務所まで出向いて精算してもらう。
以前にもそうだったが、クレジットカードなどの読み取り装置の動作不良がとにかく目立つ、日本ではこれほどでないと思う。

今夜の宿泊地のビナロス(Vinaros)に向かう。
高速道路が渋滞している、原因は料金所が日本のようにこまぎれになっているからで、そこで渋滞しているのだった。
 
ビナロスはバレンシア州であるがカタールニャ州の境界近くにある
 
バルセロナからビナロスへ
 ビナロスに着いたのは午後11時近くになっていた。
道路がイルミネーションされていた。
ルミナリエのミニ版のようだった。
ここ2週間くらいがキリスト教の祭りとのことだった。
名前は忘れたがキリスト教の聖人を祭るものだった。

人通りは少ないが町の治安は良いとのことだった
 
ミニ版のルミナリエ
 知り合いのフラット(日本のマンションかアパート)に泊めてもらったが、寝ようとしたら突然、大きな音で歌が流れてきた。
日本の盆踊りのようだった。これが午前3時くらいまで続いていた。
疲れていたので眠ってしまった。

明くる日聞いたらこれが例年の祭りの行事でだれも文句は言わないそうだ。
日本では騒音問題になりそうだ。

【雑学:ビナロスとスペイン市民戦争】
 1936年7月、スペイン領モロッコでフランコが叛乱を起こした。
共和国政府支持の市民がフランコ勢力に反抗し戦闘となった。
これがスペイン内戦(市民戦争)である。

マドリードやバルセロナではフランコ側が劣勢であった。
しかし、フランコ側にドイツ・イタリアが支援したため、一転してフランコ側が優勢となった。

1938年4月15日、地中海岸の港町ビナロスが陥落した後は共和国支配地域は
首都のバルセロナと北東部のカタルニア地方と南部のバレンシア地方になってしまった。

1939年にフランコ側の勝利となり、内戦は終了し、フランコ独裁政権となった。

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