6月26日(木) ビナロスとペニスコラ  2日目
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ビナロス→ペニスコラ→カステジョン
朝、ビナロスの町の中を散歩してみた。近くに市場があるので入ってみた。結構にぎやかで活気がある 。

スペイン語で『メルカート』が市場という意味

港がすぐそばで地中海の新鮮な魚介類が売られている

でかい穴子のような魚

祭り用の着ぐるみ人形

入り口に祭り用の大きな人形が置いてある。中に人が入って担ぐようになっている。相当な重量だ。


でかい赤ピーマン、これをオリーブオイルで炒めたのが食事に出た

アーティチョーク。これは日本でも最近見るようになった。サラダに出たがたけのこ?のようであまり味がない。

大きななすび、思ったより味はいい。

さすがに果物は豊富、ほぼ自給できるそうだ。ブラック・チェリーはアメリカンチェリーより少し小さく甘みが少し少ない。左中段にへらべったい桃、これは日本では見かけない。
海岸は砂浜が数キロにわたって続き、道路側にリゾートマンションが建っている。この海岸、20年前には石ころだらけでビーチとはいえないところだったが、石を取り除く人工的に砂浜にしたとのことだった。それに伴いリゾート地化し、フランスやイギリスから避暑に来る人でにぎわっているとのことだった。 今や別荘地と化している。

ビナロスの町

ビナロスの町

ビナロスのカトリック教会、螺旋型の円柱が特徴
La Mare de Deu

別荘の値段が30万ユーロ(約5000万円)
泊めてもらって分かったのだが、一般的にヨーロッパでは風呂の設備が貧弱、どうも風呂につかるという習慣がないようでシャワーを前提に風呂場を作っている。それとユニットバスが見られない(ホテルでも同じ)、水が溢れたら、すぐに部屋が水浸しになってしまう。英国のB&Bでは床が木のバスルームもあった。

ビナロスには有名な闘牛士がいるそうです

有名な闘牛士のポスター、Sebastian Sabater
レホネアドール(馬上から牛に槍rejonを突き刺す闘牛士)

20年前は石ころだらけの海岸がいまはリゾート地の砂浜になっている

海岸通りにはリゾートマンションが並んでいる

朝食は簡単でカスクートのようなものと紅茶とインスタントコーヒーだった。冷蔵庫からCHUFIというものを出してきて健康にいいから飲んでみてはと勧めてくれた。
コーヒー牛乳を薄くしたような色で味は甘酸っぱい感じだった。
ヨーグルトのように少しどろっとしているので水で薄めて飲んだ方がいいとのことだった。
スペインでは常番の飲み物だそうだ。
雑誌”るるぶ”によるとオルチャータHorchataというものらしい。

オルチャータ
カヤツリ草の根から作るとのこと。
スーパーでは”チュフィ”と言う名称で売られている。日本の豆乳ライクな飲料のようだ。

朝食を済ませ、車でペニスコラという町に出かけた。ここに中世の城があるということだった。海岸線は海水浴客で大にぎわい。海岸ではサンドアートのパフォーマンスをしていた。

この付近の地図
ペニスコラ城の案内書の裏面

サンドアート

お金を入れるかごが置いてあった

ペニスコラ城

少し近づいたところから

城から海岸を望む。これが地中海だ。

ペニスコラ城はもともとはイスラム教徒の要塞であった。13世紀にアラゴン=カタルーニャ連合王国のハイメ1世がこの城をイスラム教徒から取り戻した。(レコンキスタ)。その後、テンプル騎士団の所有となった。

現在のペニスコラ城は聖堂テンプル騎士団員による建築で、14世紀にモンテシアーノス団員が完成、その後、ルナ教皇によって修復が行われた。

半円アーチ形の正門は、両側に突き出た四角い塔に守られている。この塔には聖堂最初の騎士団長の紋章が刻まれた切り石が見られる。

この門を入ると、右手に城の最初の付属建築物がある。これらの一つに古い貯水槽がある。左手には長方形の大サロンがあり、わずかに尖塔形をした丸天井を持つ古い厩舎や他の部屋が奥の方にある。

城内部に、小さな広場または軍隊用中庭があり、これは広くゆったりしたものである。この右がベネディクト13世の邸宅であった宮殿で、一番高い部分にはぺドロ・デ・ルナの最初の書斎があり、その扉の上には軍の紋章が刻まれている。

軍隊用中庭の反対側には城の教会がある。礼拝堂は長方形で他の棟を有さず、天井は半円筒等窪になっており、古くは聖母マリアと三賢人が祀られていた半円形後陣を持つ。この後陣には非常に古い香部屋がある。

教会と司教宮殿の間にはゴシック様式の広いサロンがあり、丸天井と細工を施した切り石造りの壁が見られる。半円アーチ形を持つ扉には、騎士団長カンフォナの紋章が刻まれており、三つの幅広い大窓と中庭に面した二つの二重窓から差し込む光に照らし出されている。正面には小さな扉があり、ここから宮殿へとつながっている。

軍隊用中庭に面した礼拝堂の扉の所から、急勾配の階段が広い大広間まで降りており、小さな銃眼や天井の採光窓から照らし出されている。大広間の一方には砦の古い地下牢への扉がある。

城の外には、岩を切って作られた目も眩むような階段が残っており、海岸に面した天然の桟橋まで降りている。

軍隊用中庭、地中海が見渡せる

城の入り口、見学は有料です

軍隊用中庭
売り場で係の人が『ジャパニーズ』と聞いたので、『シー』と答えたら、日本語の案内書を渡された。旅行書にもあまり書いてないところで日本語の案内書を渡されたのには少し意外だった。

城の屋上から地中海を望む

城から見た教会

灯台の前は地中海真っ青な海が続いている。そこを走る遊覧船。

灯台

城の屋上

屋上から教会の屋根を通して海岸を望む

博物館内部、十字軍の兵士像は少しグロテスク

アザミ(Cardo)の紋章(左)は、要塞建築に貢献したテンプル騎士団のベレンゲール・デ・カルドーナの紋章、三日月の紋章(右)はベネディクト13世のもの。

城の地下部分が博物館になっている

城の中の教会

牢獄
中世の拷問道具、観光客が記念撮影中(人形ではありません)

会議室

ベネディクト13世の部屋の窓

教会

教会内部

【ペニスコラ城とルナ教皇】
1377年、教皇庁がアヴィニョンからローマに戻ったが、イタリア人ウルバヌス6世が教会改革を行ったため教皇庁内部でフランス勢力が反発し、アヴィニョンでフランス人クレメンス7世を教皇に選出した。そのためローマのウルバヌス6世との間で教皇権が分裂することになった。

サラゴサ出身の教皇ベネディクト13世(ルナ教皇、貴族ルナ家の出身)は、クレメンス7世死後にアヴィニョンで教皇に選出さた。しかし、アヴィニョン側が支持をやめ教皇権再統一に向け動き出した。
ルナは、支援者であったマルティン1世の治めるアラゴンへ逃れた。
マルティン1世が亡くなり、彼に世継ぎがいないためアラゴン王位継承問題が勃発した。その際、フェルナンド1世(カスティーリャ王族)の即位に肩入れし、その結果、フェルナンド1世の後ろ盾を得ることになった。

1409年、ピサ公会議で、2人の教皇を廃止し、新教皇ヨハネス23世を選出し、教皇権を再統一しようとした。しかし意見の一致が得られず、最終的に教皇が3人になってしまった。

フェルナンド1世はペニスコラ城のルナ教皇に教皇の座を渡すよう説得するが聞き入れず。
その後、1417年になり、コンスタンツ公会議で3人の教皇を解消することで決着がつき、マルティヌス5世が教皇に就任した。
しかし、ルナ教皇は1423年、90歳で亡くなるまでペニスコラ城で教皇を名乗っていた。
彼の死後、ペニスコラ城はアラゴン王家に戻った。

テンプル騎士団のペニスコラの要塞をルナ教皇がさらに宮殿要塞として改築したのが現在の城として残っているものである。

【参考】
テンプル騎士団
中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち(ラテン語:Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici)」であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。

十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(構成員たちが武器を持って戦闘にも従事するタイプの修道会)が誕生したが、テンプル騎士団はその中でももっとも有名なものである。創設は1096年の第1回十字軍の終了後であり、ヨーロッパ人に
よって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立された。

テンプル騎士団の最大の特徴は、構成員が修道士であると同時に戦士であったという点にある。同騎士団の団員たちは数次にわたって行われた十字軍活動の中で大きな役割を果たした。さらに特筆すべきは、テンプル騎士団が王族や貴族たちの財産を預かる中で独自の金融システムを発達させ、国際銀行の元祖ともいうべき役割を果たしていたことである。ヨーロッパ全域に広がったテンプル騎士団は聖地がイスラム教徒の手に奪い返されて本来の目的を失った後も活動し続けたが、1300年代初頭にフランス王フィリップ4世の陰謀によって壊滅させられ、以後活動禁止となった。
引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


入場券がかなり大きく、絵はがきになっていた。なかなかいいアイデアだ。絵柄には何パターンかあるようだ。


ベネディクト13世像

昼食は地元の人がよく行く、セルフサービスの店に入った。城の近くのレストランは観光客用でエクスペンシブだそうだ。
この店はリーズナブルな値段でうまいものが食べられるそうだ。
見回すと電気工事をしている男達が作業服のまま食事をしていた。
皿に料理を入れて出してくれる、いわゆるタパスというものだ。バルで出すのはもっと小さな皿だがレストランでは皿が大きく量が多くなっている。

店の建物上の字は”HOGAR DEL JUBLADO”
辞典で引くとHOGARは家族、家庭(house)、JUBILADOは年金生活者となっている。
これは店の名前ではなく2階の事務所の名前のようだ。

ケースの中の料理を指させば1人前を適当に盛ってくれる。セルフなのでチップはいらない。

日本の紋甲いかのような唐揚げ

トマトをすり込んだフランスパン、ガーリックパンというのがったと思うが、これもシンプルでうまい。しかし毎食、食べるならやはり食パンだろう。
イカのリングフライが意外とうまかった。これは日本人に合う料理だ。
大きななすなので大味かと思ったが、このなすびのフライもうまい、
パエリヤは冷えていたので味はもう一つだった。冷えたオムライスを食べた感じだった。
海鮮サラダ(ポテト、エビ、その他?)は日本のと変わらず、全部食べてしまった。

料金は忘れたがレストランで食べるよりはかなり安くてうまかったと思う。
ペニスコラを見物した後、カステジョン(castellon)、正式にはカステジョン・デ・プラナという、プラナは平たいという意味だそうです。”平地のカステジョン”ということになります。
カステジョンに着いたのは午後7時を過ぎていたがまだ明るかったので公園を歩いてみた。かなり大きな公園で木がジャングルで見るような高い木が多く、少し日本の公園とは違った感じであった。
以下にカステジョン市内の写真を掲載します。旧市街には古い建築物がたくさん残っています。

リバルタ(Rivalta)公園内の遊歩道
この町は治安はいいようで不振な輩は見かけなかった。

タイルで装飾したベンチ、カステジョンはタイル生産で有名な町です。

この碑は1837年7月のACONIECIDA DUPANTI の戦い(スペインの人でないと、どんな戦いか分からない)で市を守った記念に建立された。1939年のスペイン内戦で破壊された。その後、1982年に再建された。

野外音楽堂

カステジョン旧市街の大通り

ソグエロス(Sogueros)公園 huerto:果樹園と題するモニュメント
Juan Ripolles作

左写真のモニュメント横にある。

カステジョンのカジノ、これも古い建物です。

友達のお母さんの家の入り口、1階を店(子供用品)にレンタルして2階から上を自分の住居にしている。京都の町屋のように細長い構造になっている。夕食のお世話をしてもらいました。

郵便局、古い建物です

旧市街の豪邸、金があればこの豪邸に住みたい人が多い
家の前の広場が独立広場(Independencia)、広場の右にガス灯

夕食に出たスペイン風オムレツ、日本の厚焼き卵のような感じだが、少し砂糖が多い。
レストランやカフェで見ていると砂糖をかなりたくさん入れている。
付いてくるシュガーも大体2袋、時には3袋付いてくる。ちょっと砂糖の摂りすぎではないかと思う。

夕食を済ませて町の中を歩いたら、大騒ぎだった。というのはサッカーのヨーロッパ選手権でスペインがロシアを破って決勝戦に進出したからだった。
スペインチームの旗をまとって若者が走り回っていた。しかし、特に危険な様子はなかった。
今夜も歓声がすごかったが疲れていたのでぐっすり眠ってしまった。

夜の大聖堂のFadriの塔

夜の市庁舎
前が市庁舎広場

夜のサンタ・マリア大聖堂(カテドラル)

市場の横の広場のモニュメント

広場の木にスペインチームのフラッグが縛り付けてあった。
午後11時頃なのに広場のカフェは開いていて人が多かった。

大きな歓声が聞こえるので、泊めてもらったフラットの窓から下を見たら、路地の奥にバル(一杯飲み屋)があるようで午前3時頃まで騒いでいた。
ロシアに勝って祝杯を上げるサポーター、大声で歓声を上げるのでやかましい。まるで阪神ファンのようだ。

『たすけた』?という名前のレストラン

夜間は車が入れず、歩行者天国になります。
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