6月30日(月)バルセロナ 6日目 
バルセロナは1日だけの観光なのでサグラダ・ファミリア、グエル公園、カサ・ミラを見ることにした。

泊まったホテル『グラビーナ』、日本のビジネスホテルクラス

ホテルでの無線LAN、暗号化無し、各階にアクセスポイントがある。(iPodタッチの画面です。)

朝食を摂ったホテル近くのカフェ

コーヒー 1.15ユーロ、カッフェイン抜き1.25ユーロ、コルタード(ミルク少量入)1.30ユーロ、ミルク入りコーヒー(カフェ・コン.ラチェ)1.45ユーロ、クロワッサン2.5ユーロ、Bocadillo manana:朝マリンサンド(フランスパンにハム・ソーセージ)3.10ユーロ
日本のコ−ヒーチェーンからすると少し高い??(スタバを除く)

カフェ内部

これがスペイン名物『スペイン風オムレツ』、給食でこれと似たものを食べた思い出があります。

また出ました。スペイン常番飲み物『オルチャタ』


アントニ・ガウディ
 カタルーニャ語:Antoni Placid Guillem Gaudi i Cornet(1852 - 1926)は、スペイン、カタルーニャ出身の建築家。19世紀から20世紀にかけてモデルニスモ(アール・ヌーヴォー)期のバルセロナを中心に活動した。サグラダ・ファミリアをはじめとしたその作品はアントニ・ガウディの作品群としてユネスコの世界遺産に登録されている。スペイン語(カスティーリャ語)表記では、アントニオ・ガウディ(Antonio Placido Guillermo Gaudi y Cornet)。

ガウディは後半生を熱心なカトリック教徒として過した。1914年以降、彼は宗教関連以外の依頼を断り、サグラダ・ファミリアの建設に全精力を注いだ。

しかし、親族や友人の相次ぐ死によるガウディの仕事の停滞とバルセロナ市が財政危機に見舞われたことによってサグラダ・ファミリアの建設は進まず、同時に進めていたコロニア・グエル教会堂の建設工事は未完のまま中止されてしまう。さらに1918年、パトロンのグエルが死去した。

この頃の不幸の連続がガウディを変えたと言われている。彼は取材を受けたり写真を撮られたりするのを嫌うようになり、サグラダ・ファミリアの作業に集中するようになった。

1926年6月7日、ガウディはミサに向かう途中、路面電車に轢かれた。晩年身なりに気をつかわなかったため、浮浪者と間違われて手当てが遅れ、事故の3日後に73歳で息を引き取った。サグラダ・ファミリアは未完成で、現在も工事が続けられている。
引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



残念ながらエレベータに長蛇の列で上れなかった

完成予想図

受難のファザード

受難のファザードの拡大
写真に撮ってくるのを忘れたが、『生誕のファザード』の修復に日本人彫刻家の外尾悦郎さんが活躍したとのことである。
外尾 悦郎(そとお えつろう)
1953年 生まれ、福岡県出身の彫刻家。福岡県立福岡高等学校、京都市立芸術大学美術学部彫刻科卒業。スペイン、バルセロナのサグラダ・ファミリアで主任彫刻家をつとめる。

非常勤講師として勤務したのち、1978年、バルセロナに渡る。彫刻家として認められ、アントニ・ガウディの建築、サグラダ・ファミリアの彫刻に携わる。2000年に完成させた「生誕の門」が、2005年、アントニ・ガウディの作品群としてユネスコの世界遺産に登録される。リヤドロ・アートスピリッツ賞、福岡県文化賞(2002年、交流部門)受賞。日本とスペインとの文化交流の促進の功績により、2008年度外務大臣表彰受賞。

2001年、ネスレ日本社のテレビCMに出演したことでも知られる。 妻はピアニストの比石妃佐子(ひせき ひさこ)。
引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

内部ではまだ工事中
スペインの人は気が長い。大阪人にはまねが出来ない。
サグラダ・ファミリア
カタルーニャ語:Sagrada Familiaはスペイン、バルセロナに建設中の教会。

サグラダ・ファミリアとは「聖家族」を意味する。正式名称はEl Temple Expiatori de la Sagrada Familia(聖家族贖罪教会)。

日本語では聖家族教会または神聖家族聖堂などと呼ばれる。

民間カトリック団体「サン・ホセ協会」が、貧しい人々のために聖家族に捧げる贖罪教会として建設を計画したものである。

初代建築家フランシスコ・ビリャールが無償で設計を引き受け、1882年3月19日に着工したが意見の対立から翌年に辞任。

その後を引き継いで2代目建築家に任命されたのが、当時は未だ無名だったアントニ・ガウディである。以降、ガウディは設計を一から練り直し、1926年に亡くなるまでライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・建築に取り組んだ。

ガウディは仔細な設計図を残しておらず、大型模型や、紐と錘を用いた実験道具を使って、構造を検討したとされる。それらを含め、弟子たちがガウディの構想に基づき作成した資料などは大部分がスペイン内戦などで消失してしまっている(模型も破片になってしまった)。

この為、ガウディの死後、もはや忠実にガウディの構想通りとはならないこの建築物の建造を続けるべきかという議論があったが、職人による伝承や大まかな外観のデッサンなど残されたわずかな資料を元に、時代毎の建築家がガウディの設計構想を推測するといった形で現在も建設が行われている。
引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


グエル公園
カタルーニャ語:Parc Guell, 英語:Park Guellは、スペインのバルセロナにある公園で、バルセロナの街が一望できる。1984年にユネスコの世界遺産に登録された。アントニ・ガウディの作品群の1つである。

もともとはアントニ・ガウディの設計した分譲住宅で、1900年から1914年の間に建造された。

広場、道路などのインフラが作られ60軒が計画されていたが買い手がつかず、結局売れたのは2軒で、買い手はガウディ本人と発注者のエウセビオ・グエル伯爵だけであったという。

グエル伯爵の没後に工事は中断し、市の公園として寄付される。現在はガウディが一時住んだこともある家がガウディ記念館として公開されている。
引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



破砕タイル手法が目立つ外観

待合室(なんの?)

広場の下部分、ギリシア神殿をモチーフにしている。

ちょっと雑な感じもするがガウディだから許さされるのだろう

中央広場

待合室と門衛館

ガウディの家

ガウディの家、現在は博物館

ガウディの家


カサ・ミラ(Casa Mila)
バルセロナのグラシア通りにあるガウディが設計した建築物の一つである。
1905年から1907年にかけてRoger Segimon de Milaの邸宅として建設された。
1984年にユネスコの世界遺産に登録された。

カサ・ミラは直線部分をまったくもたない建造物になっていて、壮麗で非常に印象的な建物である。
あたかも砂丘か溶岩の波のような雰囲気をもっており、一般的な現代建築の様式とは、隔絶した建築となっている。
特にその屋上には、独特の加工をされた煙突や階段室が立ち並び、月面か夢の中の風景にもたとえられる。

この建築物は通常の建築物というよりむしろ彫刻であると見做すことができる。
実用性に欠けるという批判もあるが、圧倒的な芸術性を持つことは否定できない。

皮肉にも建設当時のバルセロナ市民はカサ・ミラを醜悪な建物と考え、「石切場」というニックネームをつけたが、今日ではバルセロナを代表する歴史的建造物となっている。
引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



カサ・ミラ正面

玄関、りっぱだが日本的な感覚からするとどうかな?

ガウディの胸像

吹き抜け、建物は筒状になっている

バスルーム、この時代にセントラル・ヒーティングを設備していた。

吹き抜けに面した通路、明るい・・・

窓から外を眺める

Tercer:third、3階? 実際にここはまだ住居として使われているとのことだった。

カサ・ミラの屋上デザインはダリが自分のデザインの参考にしたことでも有名だそうです。日本人としてはガンダムを連想させるデザインでした。当時としてはかなり奇抜だったろうと思われます。

ガウディ建築の特徴で表面を破砕タイルで被っている。

どう見ても『機動戦士ガンダム』をイメージさせる。

どう考えてもガウディのデザインはもともではない

ちょっと『カッパドキア』風

屋上からサグラダ・ファミリアが見えました。

向かいのマンションで植木の剪定しているおじさんが落ちそうで気になりました。

赤ルートでペドラルベス修道院で途中下車してみた。しかし、残念ながら月曜日は閉館日で中に入れなかった。我々と同じで2〜3人の外人観光客も来ていたが入れなかった。

ペドラルベス修道院

ペドラルベス修道院の入り口、月曜は休館日だった。

残りの市内スポットを効率よく見るためブルーラインに乗りかえた。行程の長いこと、途中下車したかったが帰る交通手段がはっきり分からないので最後まで乗って、カタールニャ広場まで戻ってきた。日差しが強く少し疲れた。イングレス・デパートの地下のスーパーに入ってみた

キャット・フード 『フリスキー』のスペインバージョン

スペイン版、猫砂
スペインも犬のマナーは悪く、道路で糞をさせてもそのまま。

盆栽を売っていた。

か犬か? 買うときは猫と思って買ったのだが・・・
このデザインは破砕タイルという手法

以下は、撮影したデジカメ画像です。適当にならべています。正確にバルセロナのどのあたりか分かりません。

建物のバルコニーは本来風入りではなく大きな物の出し入れに使われていたそうだ。

ラ・ロトンダ(La Rotonda)病院
rotonda:円形の建物

これはエビか?

カタルーニャ美術館

コロンブスの塔、指している方向は新大陸ではない、間違っているとのことでした。

文化センター
Josep Puig i Cadafalch(プッチ・イ・カダファル)によって1912年に設計されたレンガ作りのモデルニスモ建築。この建物は繊維工場(FABRICA CASARAMONA)でもとの形で2002年に文化センターとして開館した。
モデルニスモ(Modernismo)
スペイン語およびポルトガル語で芸術様式のモダニズム(あるいはアール・ヌーヴォー)、カトリック教会の近代主義(Modernism (Roman Catholicism))のこと
アール・ヌーボーなどの新しい芸術様式がヨーロッパで盛んだった頃、スペインでは他のヨーロッパ諸国に先駆けて産業革命を終え、カタルーニャ地方のバルセロナでモデルニスモが流行する。

曲線の使用や華やかな装飾性などアール・ヌーボーの特徴を持つことからカタルーニャ版アール・ヌーボーと呼ばれることもある。
さらに、カタルーニャの19世紀における繁栄は、隆盛を極めた中世の復興によるものであると、文芸復興運動カタルーニャ・ラナシェンサ(=ルネサンス)が起きる。
そしてこの地の民族主義的な伝統に対する関心の高まりと共にモデニスモは独自の展開を見せる。

建築においてもラナシャンサの表現として中世主義建築が現れ、新たな表現の建築様式を求めてモデルニスモの建築が登場する。
アントニ・ガウディ(1852-1926)やルイス・ドメニク・イ・モンタネール(1849-1922)等カタルーニャの建築家達はアール・ヌ−ボーからの強い影響を受けながら、南フランス及び北アフリカのイスラム建築を研究し、伝統的なムデハル様式を加えた独特なスタイルを築いていった。
引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

カタルーニャ・タワー

サンツ駅

Hotel Arts 、5星の高級ホテル

ポール・ベイ港

スペイン・テレコムのアンテナ(サンティアゴカラトラヴァSantiago Calatrava 作)

“バルセロナ・ヘッド”(ロイ・リキテンスタイン作)

ミロ美術館

ロープウエィ乗り場

今日で旅行は最終日、やはり夕食は中華料理だろう。輸入食品は危ないが店で食べるものは大丈夫だろう。
どこでもいいから中華料理と考えて近くに店がないかと探したら、ホテルへもどる道路沿いにあった。
たくさん客が入っているのでまあ大丈夫だろうと思って入った。
コースで食べた、ただ酢豚(?)がブタ肉ではなく鶏肉だったのが少し違和感があった、おおむね日本で食べる中華と変わりなかった。

レストランCHINO、孔夫子飯店(CONFUCIO U)
どっちが店の名前か分からない
CONFUCIO:孔子
寝るにはまだ早いのでランブラス通りをブラブラしてみた。道路でスプレーで絵を描いて売っている人、動かないでじっとしているパーフォーマンスをやってる人、意外とおもしろい。
コーラをばら売りしている人がいる。どうも盗んできたのを売っているようだ。近づかない方が無難。
散歩の後ホテルに戻った。

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