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 2006年8月30日 
 
ベリンゾーナ→ミラノ走行図
 7時半に朝食を摂り、車で山のほうの城巡りに出かけた。
郵便局の前から駅を横切ると上り坂になる。小さな町なので朝は交通量も少なく、
山への道もすれ違ったのはゴミ収集車1台だけだった。
山の上は高級住宅街のようで1戸建ての庭付き住宅がところどころ見られた。 
 
ベリンゾーナ市内地図
 
宿泊したB&B San Giovannni
最初にモンテベッロ城の駐車場に車を止めた。城の入り口は開いており中に入れた。人気まったくなし。
ここも城壁がほとんどで内部は事務所にでもなっているのだろう。城壁に登って歩いてみた。
ベリンゾーナは谷間にあるので日が昇っているのだが周囲の山が明るいだけでまだ町の中には日の光が入っていない。 
 
モンテベッロ城よりカステルグランデを望む

ベリンゾーナの町並み

アンデルマット方向のベリンゾーナの町並み
 カステルグランデと同じように城壁の隙間には芝生が植えられ町の方に伸びている。内部には特に見るものはなかった。

モンテベッロ城の入り口のはね上げ橋

モンテベッロ城内部

はね上げ橋を通って内部に入った所

モンテベッロ城の塔
 モンテベッロ城はカステルグランデの建設から2世紀後の15世紀に造られた。
「カステル・グランデ:大城」にというがこちらは別名『カステル・ピッコロ(Castel Piccolo):小城』と言われる。

城の内部

城壁だけであまり大きな建造物はない
 駐車場にもどり、さらに上へ上がっていく。本に書いてあるように徒歩で登るのは止めた方がいいだろう。
コルバロ城の駐車城に着いた。もう一台後ろから車が来て駐車した。どうも城の係の人らしい。
城壁の中には入れたが、城の入り口はまだ開いていなかった。
この城は15世紀後半、ミラノ公によって6ヶ月で造られたのことである。

駐車場からコルバロ城を見る

コルバロ城の入り口、開館時間まだなので閉まっていた。

城の入り口の看板

城からマジョーレ湖方面を望む
 風が強く、寒くなってきたので車に引き返し、ホテルにもどった。
3つの城は2000年に世界文化遺産に登録されているが、見た印象では少し、スケールが小さいように思う。
ベリンゾーナについてミニ知識
ティチーノ州の州都で、世界遺産に指定されているカステル・グランデ城が有名。カステル・グランデのほかにカステッロ・モンテベッロとカステッロ・ディ・サッソ・コルバロという2つの城がある。
いずれも15世紀頃に建築され、一番小さな城のサッソ・コルバロはわずか6ヶ月で造られたと言われる。
この付近はアルプス交通の要衝サン・ゴッタルド峠への道で重要な地域だった。
14世紀半ばまでコモとティチーノ一帯のレヴェンティナ谷は独立を保っていたが、その後ミラノ公国に支配された。
1402年ミラノのヴィスコンティ家の当主が幼少の息子を残して死んだため、スイスの3つのカントン、ウーリ・シュヴィーツ・オプワルデンとレヴェンティーナの住民が同盟を結び、ミラノに対して反旗を翻し、ミラノの支配を排除した。その結果、レヴェンティナはドイツ語圏の中央スイス人に支配されることになった。
3カントンから派遣された役人が住んでいたのが、これらの三つの城であった。
当時のスイスはフランス国王に味方してミラノと戦っており、その恩賞としてティチーノをもらったという話もある。
19世紀になりティチーノはスイスのドイツ語圏諸カントンと対等な独立したカントンとなった。
各城にはそれぞれ美術館とレストランが併設されており、7月にはカステル・グランデで野外オペラが開催される。
※スイスの州は「カントン/Kanton」と呼ばれ、ドイツやオーストリアの州(Land) とは、違い、かなり規模が小さい。もっとも人口の多いチューリヒ州で人口100万人くらい。
城の見物を終わり、ホテルまでもどって車を置き、近くのCOOPのスーパーに行き
ミネラル・ウオーターとスナック菓子を買い込んでチェックアウトした。
表の通りに出たらロカルノの標識の方向に進む。ロカルノを過ぎると
道が1車線となり湖沿いの山が迫ったところはかなり細くなる。
しかし、快晴で空が真っ青で湖の青がさらに強調され絶景である。国境を越えると道路はS34になる。
国境にはなにもないのでどこで越えたのか分からない。 
 
 ストレーサに近づくにつれ、道路に沿って高級ホテルが並ぶようになる。
ストレーサの駐車場に車を止めたら、帽子をかぶった係員らしき人が近寄ってきてどれくらい止めるのかと聞き、
親切にパーキングチケットの所まで案内してくれる。
彼らは連絡船の切符売りで駐車場の整理員ではなかった。
わからないままベッラ島への連絡船の切符を買い、船に乗り込んだ。
連絡船は数社あるようで、桟橋から出るのは大型で料金が安い。
まあ、船は小さいが借り切りのようで空いてきれいなので料金のぼったくりではないだろう。
湖にはベッラ(Isora Berra)、マードレ(Isora Madre)、ペスカトーリ(Isora dei Pescatori)の3つの島があり、
そこを連絡船が回っている。
全部を見るには1日かかるのでベッラ島だけにした。
ベッラ島にボロッメオ伯爵(Conte Vitaliano Borromeo)は1670年に不朽の
バロック建築の宮殿(Piazzao e Giardino Borromeo)の建築を開始した。
広大で眺めのよい豪華な庭がある。宮殿内にはタペストリーや家具・絵画など
巨匠達の貴重な傑作が飾られ、庭園には温室もあり
多くの植物や珍しい花が植えられ、クジャクが放し飼いにされている。
 マジョーレ湖は面積212平方キロ、南北の長さが64Km、最大深度は372m。
スイスアルプスの氷河に源を発したティチーノ川が膨れあがって湖の形になり、
再び湖の南端からティチーノ川になって流れ出している。

船を走らせながら携帯電話をしている船長

 ボロメオ宮殿の見学では豪華な部屋とは対照的な石灰岩と貝殻の壁で飾られた地下室「グロッタ」(人工洞窟)がある。
住人の豪華さだけではしんどくなって遊び心も必要になってくるのだろう。
この部屋は夏には風が通って涼しいとの説明だった。
さらにこの宮殿には、1800年にイタリアに攻め込み、自らイタリア国王になった
ナポレオンが夫人のジョセフィーヌと宿泊したり、ムッソリーニも宿泊したというエピソードが残っている。
なお、宮殿には現在も子孫が住んでいるとの説明だった。

庭の橋にある彫像群

庭から対岸のストレーサの町を望む

上の写真を後ろから見た

マードレ島が見える

この馬の像はユニコーン(一角獣)

この庭園はテラス式イタリア庭園と
呼ばれるそうだ。
 以下ユニコーンについて(Wikipediaより引用)
語源は「単一の」を示す接頭詞の“uni-”に角(“corn”)をくっつけたもの。
別名はモノケロス(Monoceros)ともいう。
ヨーロッパでは神聖な力と純潔の象徴とされ、処女の前にだけその姿を現すという。
馬の額に長い角を持ち、ヤギのひげと割れたひづめを持つ獣の姿で描かれることが多い。
ユニコーンは美化されているが、獰猛で好色。更には野菜畑を踏み荒らし、
作物を貪りながら、糞を落とすという下品な面もある。
ユニコーンの原型は旧約聖書に登場し、
またアリストテレスの著書『動物誌』、プリニウスの『博物誌』、
紀元前5世紀の歴史家クテシアスの『ペルシア誌』などの中にも書かれている。
 快晴で空には雲はほとんどなくまっ青、しかし暑くはなくカラッとしている。
ストレーサは1世紀前半までヴィスコンティ家とボッローメイ家に支配されていた。
その後、作家などの有名人が滞在して有名になった。
20世紀初頭にセンピオーネ鉄道が引かれ世界中にその名を知られるようになった。
マッジョーレ湖が一望出来る見晴らしの良い位置にあり、別荘がたくさん建てられている。
 
窓からマジョーレ湖
ムラノガラスで造られたシャンデリア
ボロッメオ家は17世紀に金融で財産を築き上げたそうだ。

天井

天井の高いレセプションルーム
島の中の土産物屋を見た後(特に珍しいものはなかった)、また桟橋から乗船券と同じ業者の船に乗った。
同じ船に乗り合わせた外人、日本語がうまい。
彼は英国人で奥さんは日本人、娘を連れていた。親切に私たち夫婦の写真を撮ってくれた。
船を下りて、ストレーサの市内をぶらぶらしたが意外と人通りが少ない。
バカンスも終わりなためだろうか?
あまり町の中には見所がないので駐車場に引き返し、
ストレーサから元来た方向に引き返し、ミラノに向け高速道路に入った。

駐車場から見たマジョーレ湖

ストレーサの通り

家の表札

あまり町中には見るものはない
 
レストラン
 再度ミラノへ向けて車を走らせる。
 
 順調に高速道路A26に入る、イタリア側の高速には料金所がある。
行きにイタリアの高速の料金所でクレジットカードが作動せず(VISAもJCBもだめ、機械の方の動作不良)、
立ち往生し、係員が来て現金払いで通してくれた。
それに懲りて現金支払いのブースに入った。
とにかくヨーロッパではカードが正常に動作する保証がないので用心した方がいい。
ミラノ市内に入るところまでは順調だったが、
チェントロ(ミラノではドゥオーモ、大阪なら大阪駅だろう)と書いた標識が出なくなってしまい、
段々、どこを走っているか分からなくなってきた。
道路の脇に車を止め、通りの名称を確かめて地図で探したが見つからない。
最後の手段で警官に地図を見せて聞いてみた。今度は正確に教えてくれた。
前方にどこかで見た建物が見えてきた。
サンタ・マリア・デッレグラッツエ教会だった。これで方向が分かり、リパブリカまで順調にたどり着いた。
パリにしても同じだが、なんで道路を放射状に作るのか、碁盤目状に作ってくれれば走りやすいのだが・・・
 
市内走行図、どう走ったのか分からないがグラツィエ教会へ出てきた
 ホテルに一旦車を止めてチェックインし、荷物を置き、中央駅のハーツの営業所に車を戻した。
午後3時半頃だったのでブレラ美術館に行くことにした。
美術館では日本語のガイド・レシーバーを借りて解説を聞きながら回った。
フィレンツェのウフィッツィは作品の数が多すぎてとても1日では見切れなかった。
ブレラの作品数くらいが気楽に見れる限界だろう。
作品の保存状態がかなりいいのには驚きだった。特にイコン絵画の写実性にはおどろきだった。
ただ、レシーバーの説明がどの作品かよく分からずに困った。少し分かりやすく表示すべきだろう。
作家の名前で聞き覚えがあるのがティントレット、カラバッジオ、ラファフェロ、ティチアーノ、ブルーゲルくらい。
絵は新聞の美術批評欄で見たようなのも少しはあったが、解説を聞かないとよさが分からない。

レラ美術館

ブレラ美術館入り口
 
美術館中庭

入り口への階段にある彫刻

中庭からテラスを望む
 ブレラ美術館を出たのが午後5時過ぎだった。
ホテルにもどるのも中途半端な時間だった。
今回の旅行も最終日となり、さすがに和食が食べたくなった。
しかし、和食は高くつくし、どんなものを出されるか分からない。
無難な選択として中華料理を選ぶことにした。
どこに中華料理屋があるか分からないのでドーモの近くに行けば一軒くらい見つかるだろうと思って行ってみた。
地下鉄を降りてスフォルツェスコ城に向け大通り(ダンテ通り)を歩いていると『萬珍楼』という看板が見えた。
大通りから細い通りに入ったホテルの前にあった。
覗いてみると10人くらい人が入っていたので入ることにした。
メニューも日本語で書いてあった。
片言のイタリア語で注文したら、英語か日本語で言ってくれと言う。
せっかく日本で注文の仕方のイタリア語を書いてきたのに役に立たなかった。
 
 帰ってから『地球の歩き方のポッケット版』を見たら、
イタリアレストラン誌も絶賛する上海料理屋と書いてあった。
しかし、これはちとよいしょしすぎだろう。
私のつたない舌ではよいとも悪いとも言えない印象だった。
ただ、特製チャーハンはお勧めではない。
具はたくさん入っているのだが、まるで『リゾット』のようで、
とても日本人にはチャーハンとは思えない。
こんなべたべたではチャーハンとしては失格だろう。
しかし、米とバラエティに富んだ献立に舌の方も満足した。
どうもイタリア料理、スイス料理もバラエティがないとうのが私の個人的な印象である。

市電、新しいタイプも走っている

古い型の市電

スフォルツェスコ城
この裏にセンピオーネ公園がある

スフォルツェスコ城
スフォルツェスコ城は1450年にミラノ公爵フランチェスコ・スフォルツァが、
14世紀のミラノ領主ヴィスコンティ家の城跡を改築し、
1466年に完成したた宮殿兼城塞。 

ダンテ通り
 食事を終わって外に出てドーモに向かうと、ライトアップされていた。
しかし、工事の枠がじゃまで少し興をそぐ。

夜のガレリア

ドーモ広場前のマック

ホテルの玄関

ホテルの朝食
  携帯電話、デジカメの電源がなくなり、これ以上の撮影は出来なかった
海外旅行の際は念のためデジカメは2台もっていったほうがいいでしょう。
これで終わりです。
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