正岡子規「仰臥漫録」@
日経新聞 2006.4.2 朝刊 『日記をのぞく』より
 明治34年(1901年)9月8日。35歳。 「午前十一時頃苦み泣く」 正岡子規が結核のため最初に喀血したのは23歳のときである。その後、文科大学(現在の東大)を中退し、新聞『日本』の記者になる。故郷松山から母・八重と妹・律を東京に呼び寄せ、根岸の借家で暮らす。

 30歳。結核菌が骨を溶かす脊椎カリエスへと症状が進行し、35歳のときには仰臥、つまりあおむけに寝たままの姿勢に追い込まれる。

 背中にはいくつも穴が開き、そこからうみが出る。
その痛みは激しさを増し、号泣するほどだった。

 10月13日には、絶望の淵に立たされ、「時々起こらうとする自殺熱はむらむらと起ってきた」と綴る。
 母も妹も外出している。脇の硯箱からは、小刀と錐が顔をのぞかせている。この凶器ではすぐに死ねない。隣の部屋にある剃刀なら、のどをかき切ってすぐに死ねる。なのにそこまで、はっても行けない…と嘆く。

 墨で描いた小刀と錐。その上に「古白日来」(こはくいわくきたれり)の文字も添えてある。古白とは、ピストルで自殺した従弟の文人、藤野古白のことで、自分をあの世に招いている、というのだ。

 が、十月十四日になると、死に対する考えが変わったことを示す表記が出てくる。「死に近き候今日に至りやうやう悟りかけ申候」 翌年の六月二日には、新聞『日本』の連載随筆『病牀六尺』に「悟りとは、平気で生きることだ」と善くまでに変容する。

 「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」

 絶望から悟りへ。死生観の変化は何によってもたらされたのか。『子規の一生』の著者である大阪成蹊短期大教授の和田克司さん35年9月19日、子規は36歳の生涯を閉じる。日記から明るさが漂うのは、そんな「生」へのエネルギーが込められているからなのだろう。
 ▼『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』 明治時代の新聞記者で、俳人・歌人でもある正岡子規(1867〜1902)が明治三十四年(一九〇一年)九月二日から翌年の死(九月十九日)の直前まで、病床で書いた日記。
新聞『日本』に発表した随筆『墨汁一滴』 『病牀(びょうしょう)六尺』とともに、晩年の心境を探る上で貴重な資料となっている。引用は岩波文庫から。正岡子規「仰臥漫録」

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