2025年7月23日(水) 4日目
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午前、古都インスブルック観光。(約2時間30分)
◎王宮、
◎宮廷教会、
◎「黄金の小屋根」
午後、自由行動。
 マリア・テレジアとインスブルックの関係は、ハプスブルク家の繁栄と深く結びついています。
マリア・テレジアはインスブルックを愛した女帝として知られ、都市の発展に大きく貢献した。
彼女は王宮の改修や凱旋門の建設など、現在も残る重要な建築物を整備した。
凱旋門は息子レオポルト2世の結婚を祝して建設されましたが、建設中に夫フランツ1世が急逝したため、
門の南面には「生と幸福」、北面には「死と悲しみ」のモチーフが刻まれています。
インスブルックの中心通り「マリア・テレジア通り」は、彼女の名を冠した象徴的な場所で、
旧市街とともに観光名所となっている。

Liberation Monument
朝のインスブルック市内 
 Liberation Monument(Befreiungsdenkmal)は、第二次世界大戦後の自由と抵抗を讃える記念碑で、
- 建立年:1946〜1948年
- 設計者:フランス人建築家ジャン・パスコー(Jean Pascaud)
- 目的:ナチス政権下で抵抗した地元住民と、
オーストリア解放のために命を落とした連合軍兵士を追悼するため
🏗 建築と象徴
- 様式:新古典主義風の凱旋門型モニュメント(高さ約20m)
- 中央の銘文:「PRO LIBERTATE AUSTRIAE MORTUIS(オーストリアの自由のために死した者たちへ)

南面

北面

南面は「祝福」

北面は「哀悼」
 
門の向こうにオリンピックで作られたジャンプ台
 インスブルックの凱旋門(Triumphpforte)は、ただの記念碑ではありません。
そこにはハプスブルク家の栄光と悲哀が刻まれた、歴史のドラマが凝縮されています。
🎭 喜びと悲しみが同居する門
- 建設年:1765年
- ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアが、息子レオポルト2世とスペイン王女ルドヴィガの結婚を祝して建てたものです。
🕊️ 南面は「祝福」、北面は「哀悼」
この門の最大の特徴は、南面と北面で彫刻のテーマが異なること。
- 南面(街の外側):結婚を祝う「幸福の象徴」
- 花や天使、祝祭のモチーフが彫られています。
- 北面(旧市街側):フランツ1世の死を悼む「悲しみの象徴」
- マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンが結婚式の滞在中に急逝したため、
哀悼の意が込められました。
このように、一つの建造物に「人生の両面」が刻まれているのは非常に珍しく、
まさに「喜びと悲しみの門」と呼ぶにふさわしい存在です。
 
マリア・テレジア (Maria Theresia, 1717年5月13日 - 1780年11月29日)
 数あるヨーロッパの王家の中でもひときわ輝くハプスブルク家。
13世紀から700年にわたり、広大な帝国を支配した皇帝の家系の中で唯一の女帝でした。
そして、オーストリアの「国の母」とたたえられる偉大な君主でした。
 マリア・テレジアが16人の子供を産んだことはよく知られている。
 末娘はやがて、フランス王妃マリー・アントワネットとなりました。
しかし1765年8月、フランツが急死したのです。 「夫であり友人であって、私の愛情のただ一つの対象」を喪い茫然自失のテレジアは髪を切り、生涯喪服に身を包みます。
建築家ザハ・ハディド設計の斬新なデザインで生まれた駅がケーブルカーの「ノルドパーク駅」であり、市の中心部と高度 2,256 m の山頂駅を結んでいる。2024/12/13
 インスブルック王宮(Hofburg Innsbruck)
オーストリア・チロル地方の歴史とハプスブルク家の栄光を物語る壮麗な宮殿です。
特に女帝マリア・テレジアとの関係は深く、彼女の美意識と政治的意図が色濃く反映されています。

○インスブルック王宮の歴史
- 創建:1460年、チロル大公ジークムント(富裕公)によって後期ゴシック様式で建設されました。
- 拡張期:神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世やフェルディナント1世によって増改築され、王宮としての機能が強化されました。
- 改装期:1754〜1773年、マリア・テレジアの命によりロココ様式へと大改装され、現在の華麗な姿に生まれ変わりました。
 
インスブルックの宮廷教会(ホーフキルヒェ)
 主に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の霊廟として建てられたゴシック様式の教会で、ハプスブルク家の歴史を象徴する場所です。 �
フランツ・ヨーゼフ1世との直接的な関係は薄いものの、彼はハプスブルク家の皇帝としてこの教会の歴史的・文化的価値を継承する立場にありました。彼の治世下では、オーストリア帝国の文化遺産の保護が進められ、宮廷教会もその一環として重要視されていたと考えられます。 �

教会内には28体のブロンズ像が並び、ハプスブルク家の親族や縁者、さらにはアーサー王なども含まれており、フランツ・ヨーゼフもこの系譜の一部として象徴的に位置づけられている。

フランツ・ヨーゼフ1世は保守的な君主でありながら、帝国の文化的アイデンティティを守ることに強い関心を持っていました。 彼の治世では、ウィーンの都市改造(リングシュトラーセ建設)や、博物館・劇場・オペラ座の整備などが進められ、芸術と建築が黄金期を迎えました。 宮廷教会(ホーフキルヒェ)も、ハプスブルク家の歴史的象徴として文化遺産として保護の対象となり、帝国の精神的支柱として位置づけられていました。

シシィとの関係と晩年の孤独 妻エリザベートは、自由を愛する性格で宮廷生活に馴染めず、旅を繰り返す“彷徨の皇妃”となりました。 フランツ・ヨーゼフは彼女を深く愛していましたが、政治と儀礼に縛られた生活の中で、すれ違いが続きました。 シシィは晩年、喪服を着続け、宮廷から距離を置いた生活を送りました。1898年、ジュネーヴで無政府主義者により暗殺され、皇帝は深い悲しみに沈みました。 🕊️皇帝の晩年と文化の継承 シシィの死後、フランツ・ヨーゼフは彼女を偲び、記念碑や彫像をウィーン各地に建立しました。 宮廷教会をはじめとするハプスブルク家の文化遺産は、彼の治世下で帝国の象徴として再定義され、後世に残されました。 この物語には、帝国の栄光と個人の孤独が交錯しています。もっと知りたいテーマがあれば、例えばシシィの旅先や詩作、ルドルフ皇太子との関係なども掘り下げられますよ。どれに興味がありますか?📚
○ガイドさんの宮廷教会に葬られなかったのは借金説は根拠なし
 ハプスブルク家は「戦争は他国に任せておけ、幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」という格言に象徴されるように、政略結婚によって領土を拡大してきた。 しかし、19世紀後半から20世紀初頭にかけては、民族問題や戦争による支出が増加し、帝国の財政は逼迫していた。 特に第一次世界大戦では、軍事費と物資の不足が深刻化し、国民生活にも影響を及ぼした。
 つまり、フランツ・ヨーゼフ1世が「自らの霊廟に葬られなかった」という説は、事実ではなく象徴的な解釈であり、借金が直接関係しているという証拠はない。むしろ、彼は伝統に則った埋葬を受けたと考えるのが妥当。
建築家ザハ・ハディド設計の斬新なデザインで生まれた駅がケーブルカーの「ノルドパーク駅」であり、市の中心部と高度 2,256 m の山頂駅を結んでいる。
2020年の東京オリンピックの競技場の設計者としても有名な人だが、予算の関係で採用されなかったことで有名。
ハプスブルク家は、スイスを起源とし、オーストリアを中心に中欧を支配したヨーロッパの有力な王家です。
特にオーストリア=ハンガリー帝国を統治した。
13世紀から1918年まで、神聖ローマ帝国皇帝やオーストリア皇帝としてヨーロッパに君臨.
 インスブルックの宮廷教会にある銅像
 神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の霊廟を守るように配置された、等身大以上の黒いブロンズ像です。
これらの銅像は、マクシミリアン1世の親族や英雄たちを表しており、教会の内部に28体安置されています。
宮廷教会は、マクシミリアン1世の霊廟があることで知られています。
教会内部には、皇帝の棺を囲むように、これらの銅像が配置されており、教会の荘厳さを際立たせています。
これらの銅像は、ドイツ・ルネサンスの最高傑作と称されることもあり、教会の見どころの一つとなっています。

神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世:霊廟の中心に位置し、皇帝自身を表しています。
マクシミリアン1世の親族:家族や縁戚関係にある人物の銅像が、霊廟を守るように配置されています。
英雄:マクシミリアン1世の時代に活躍した英雄たちの銅像も含まれています。
 
 
 



 
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