クロアチア

スロベニア

ボスニアヘルツェゴビナ
クロアチア・スロベニア・ボスニアヘルツェゴビナ 3カ国周遊10日間
2011年11月12日(土) 5日目 
5日目 11月12日(土) 8:30/中世の面影が残る「アドリア海の真珠」【世界遺産ドブロヴニク観光】<約4時間>
ロマネスク様式の回廊が今なお残る
○フランシスコ会修道院
○スポンザ宮殿
○ピレ門
○オノフリオ小噴水
○旧総督邸
☆★☆絶景ポイント☆★☆
旧市街が見渡せる展望スポットへご案内します!!
午後/自由行動。
城壁ウォークなど、旧市街にて思い思いの時間をお過ごし下さい。
【宿泊地:ドブロヴニク泊】
GRAND VILLA ARGENTINA
ホテルから旧市街へは徒歩で10分〜15分くらいで行ける。
ホテルからはプロチェ門側から入場することになる。

宿泊したARGENTINAホテル

ホテルからみたドブロブニク、海に突きだしている部分が聖イヴァン要塞

プロチェ門、右側がレヴェリン要塞

聖ブラホ像が壁に

プロチェ門

ドブロクニク旧市街地図
@フランシスコ会修道院 J聖母被昇天大聖堂
Aスポンザ宮殿 K聖イグナチオ教会
Bピレ門 L民族学博物館
Cオノフリオ大噴水 M聖ルカ要塞
D旧総督邸 Nポンテ門
Eドミニコ会修道院 Oオノフリオ小噴水
Fレヴェリン要塞 P聖ヴラホ教会
G聖イヴァン要塞 Qマリン・ドルジッチの家
Hボカール要塞 Rセルビア正教会
Iミンチェタ要塞

ミンチェタ要塞

ピレ門(B)

聖ブラホ
門の上に聖ブラホの像が飾ってある。聖ブラホは316年に殉教した司教で町の守護聖人になっている。像の手には町の模型を乗せている。

オノフリオの大噴水(1438年製作)
16面の顔のレリーフから水が出る
ドブロブニクには十分な水が供給できなかったので
ナポリのオノフリオ・デッラ・カッヴァを招き水道設備を作り上げた。

オノフリオの大噴水

フランシスコ修道院(1498年頃建設)

フランシスコ修道院の鐘楼

フランシスコ修道院の入り口
ピエタのレリーフの両脇に聖ヒエロニムスと洗礼者聖ヨハネ、その上に創造主が立っている
ヒエロニムス(340〜420)はダルマチア生まれ、キリスト教の聖職者で神学者。聖書のラテン語訳を行った。

スポンザ宮殿

スポンザ宮殿内部

聖ブラホ教会

ファザードの上に聖ブラホの像

時計台(下にデジタルで時刻が表示されている)

オルランド(ローラン)の柱
オルランド像の右腕の肘から手のつけねまでの長さが物差し代わりに使う長さの単位であった。
「オルランドの肘」と言う。
オルランドは8世紀にカール大帝に仕えた騎士と言われており、
1418年に自由の象徴としてここに建てられた。
オルランドはローランドとも言い、ブルターニュ地方を統治していたされる。
叙事詩ではイスラム軍と戦って戦死したことになっている。
伝説上の人物と思われる。

ルジャ広場

オノフリオの小噴水(右)
イタリアのピエトロ・ディ・マルティーノ・ダ・ミラノ作
1440年から2年間かけて作られた

グンドリッチ広場の青空市場

イヴァン・グンドリッチの像 1892年製作
イヴァン・グンドリッチはドブロブニク生まれのクロアチアでは有名な詩人で50クーナのお札の肖像にも使われている。

50クーナ札

大通りから外れて歩いてみました

旧総督邸
総督邸の柱の柱頭の彫刻

ギリシャの医学の神
アスクレピオス

大聖堂

ドミニコ修道院
一通り観光が済んだ後、自由行動となった。
城壁ウオークとスルジ山に登ることにした。
ドブロクニクの歴史
 614年西ローマ帝国が崩壊し、
異民族が侵入し、エピダウルス(現ツァヴダト)の住人がそれらから逃れるためこの地に移り住んだ。
ここをラテン語でラグーサ、スラブ語でドブロブニクと称した。
ローマ人がすでにラグーサ共和国を作っており、そこにスラブ人が入ってきた。
スラブ人が旧市街の北側、ローマ人は南側に住み、間に水路が走っていた。
その後、水路は埋められ、現在のプラツァ通りになっている。
 ラグーサ共和国はヴェネチアなどに対抗するためビザンツ帝国に貢納金を支払い、
名目上その支配されることで自治を維持していた。
しかし、1203年第4次十字軍がベネチア艦隊とともにコンスタンチノープルを攻め、陥落させた。
その後、ラグーサ共和国はベネチアの支配を受けることになった。
 1358年ザダル条約でハンガリー王国の宗主権下に置かれ、自治を回復した。
1402年ベネチア共和国はダルマチアをハンガリー王国から買うが、
ラグーサ共和国は含まれていなかった。
 1389年オスマン帝国がドブロブニクの周辺地域を征服したため、
ラグーサ共和国はオスマン朝に貢納金を支払い、交易を認めてもらった。
これによってオスマントルコの物品がラグーサ共和国を経由してヨーロッパ地域に運ばれ、
共和国は繁栄することになった。
 しかし、1667年大地震で町が大きく破壊された。
その騒ぎに乗じてベネチアが侵攻するのを警戒した共和国は自国領の一部をオスマントルコに割譲し、
防波堤とした。これが現在もボスニア・ヘルツケゴビナが一部食い込んでいる形で残っている。
この地震を契機に次第にラグーサ共和国は衰退し、
1808年ナポレオンのフランス帝国に支配され、消滅した。
 さらに、オーストリアに支配が移り、1918年にはユーゴスラビアに入ってしまった。
城壁ウォーク入り口は3カ所あるが、おすすめはピレ門の方だというのでここから入ることにした。

城壁ウオークの入場券70クーナ(1050円)

城壁からプラツァ通りを望む

左がボカール要塞、海を挟んで右側がロヴリイェナツ要塞

見えている島はロクルム島

クルーズ船が停泊している

旧港、右側に聖イヴァン要塞、左上の山がスルジ山

ミンチェッタ要塞

城壁ウオークの動画
城壁を一周してまたピレ門に戻り、フランシスコ修道院のマラ・プラチャ薬局に行ってみた。

修道院の入り口、左側にマラ・プラチャ薬局

フランシスコ会修道院の回廊

薬局入り口

古い薬瓶が棚に並んでいるが、実際に使っているのか?
世界で3番目に古い薬局だがバイエルのアスピリンなど新しい薬がほとんど。バラ水が有名とのことなので土産に買って帰った。
城壁ウォークで少し疲れたのでスルジ山に行く前に軽く昼食を摂ることにした。
市庁舎の向かい、プラツァ通りの”Cele”というカフェで食事を摂った。
ピッツアとコーヒーで軽く済ませた。

Cele

Cele”のテラス席で昼食
昼食を済ませて、スルジ山(412m)のロープウェイ乗り場に向かった。
このロープウエィも内戦で破壊され、2010年夏に再建され、完成した。

ロープウェイの乗り場に行くまでの階段

ロープウエイ乗り場

スルジ山へのロープウェィ(登り)

スルジ山ロープウェイの山頂駅

ナポレオンから送られた十字架
独立戦争後に立て直されたもの

内戦時の破壊された時の写真

左に十字架、海の真ん中にロクルム島、左下にドブロブニク
海にはクルーズ船とテンダーボート

山から見るドブロブニクの町、絶景です!!
スルジ山を降りて一度ホテルに戻りました。
その途中での風景です。

レースの刺繍をして売っている、民族衣装の女性

民族衣装を着たお姉さん、何かパーティがあるようです
夕食までに時間があるのでもう一度ドブロブニクに向かった。

牧神(パン)とニンフの像
ピレ門前の広場にある噴水ですが、特に有名ではないのか旅行書には説明が載っていない。パンは上半身が人間、下半身が羊の神。

聖イグナチオ教会

セルビア正教会(1877年建造)
今日の夕食も自由食、添乗員さんおすすめの旧港にある”ロカンダ ペスカリヤ”でシーフード料理を食べに行った。
この店は『地球の歩き方』などでも紹介されている。
ドブロクニクは有名な観光地なのでおいしくもないのにぼったくる店もあるようだ。
待ち合わせの時間に少し早く行ってしまった。
日が暮れて寒くなって来たので時間をつぶすため、
市庁舎の1階の”グラツカ・カヴァナGradska Kavana”に入って
コーヒーを飲んで暖をとった。
なかなか雰囲気がいいカフェだった。

グラツカ・カヴァナGradska Kavana

内部はしゃれた感じでした

カプチーノ

カプチーノの大

34クーナ(510円))
コーヒーについていちゃもんをつけるわけではないが、
クロアチアではコーヒーはエスプレッソかカプチーノ(泡立て牛乳のせ)、
アメリカンやカフェラテ(牛乳コーヒー)はなかった。
普通のコーヒーは大きいカプチーノで注文するとよいらしい。
コーヒーについてはイタリアほどバリエーションがない。

ロカンダ・ペスカリヤ

店の内部

たこのサラダ

2人前だが結構ボリュームがある
一品ずつとるのは邪魔くさいのでシーフード盛り合わせを頼んだ。大きな鍋で出てきた。
えび、ムール貝、いか、たこ、魚etc。
たこはイイダコのようで小さい。
イカもリングではなく、ホタルイカのように小さなもの、
それらをあっさりとオリーブオイルで炒めてある。日本人向きなメニューである。

3人で食べてワインとビールで
286クーナ(4290円)
夜のドブロブニク、夜間はライトアップされていて情緒がありました。

夜の旧港

ピレ門前でのコーラス(ドブロクニクの夜)

ホテルの部屋、窓を開けるとアドリア海が見える
バスタブも大きくて快適
しかし、シャワーの湯が外に出ないようにするガラスの幅が狭すぎて外に出る。カーテンのほうがいい。