エジプト旅行 2008.1.27〜2008.2.3

2日目 1月28日(水) ルクソール
時差ぼけのためのためか5時頃に目が覚めてしまった。6時から朝食出来ると聞いていたので早い目に食事を済ませてナイル川の河岸を散歩することにした。このピラミサ・イシスホテルはかなり部屋数がある。中庭からナイル河岸に出られる。川の向こうにハトシェプスト葬祭殿のある山が見える。川岸にはクルーズ用のヨットがたくさん係留されている

ホテルの川岸よりルクソール西岸の王家の谷

川岸に停泊するファルーカ

ホテルの近くのモスクのミナレット

観光用馬車、客引きをするのでうるさい
ミナレット
モスクに付随し、礼拝時刻の告知(アザーン)を行うのに使われる塔である。ミナレットはトルコ語のミナレ(Minare)に由来する西欧諸言語による名称で、アラビア語ではマナールあるいはマナーラといい、光(ヌール)と同一語根の語であることから光塔と訳されることもある。南アジアではミーナールとも呼ばれる。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ピラミサ・イシス・ルクソールの朝食、抜粋

ピラミサ・イシスの食堂

朝食、ソーセージと野菜の煮込み
ファラフェル(ファラーフェル: Falafel)はヒヨコマメまたはソラマメから作ったコロッケ。ターメイヤはこの一種。
ジャガイモの煮込み

朝食をすませて午前中のルクソール神殿とカルナック神殿の見物に出かけた。快晴、朝は少し涼しかったが気温は次第に上昇、しかし乾燥しているのでブレザーを着ていても汗はかかない。

ルクソール神殿
参考)ルクソール神殿
 エジプト・ルクソール東岸にある古代エジプト時代の神殿。元々、カルナック神殿の中心を形成するアメン大神殿の付属神殿としてエジプト第18王朝ファラオ・アメンホテプ3世によって建立された。
 アメン大神殿とはスフィンクスの参道で結ばれていた。神殿入口にはラムセス2世の坐像、その手前にはオベリスクが1本立っている。 オベリスクは本来左右2本あったが、右側の1本はパリに運ばれ、現在コンコルド広場にある。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第一塔門、オベリスクとラムセス2世座像

オベリスクは見る位置で傾いて見える
右側にもオベリスクがあった。1830年、当時のエジプト総督ムハンマド・アリがそれをフランス王シャルル10世に贈った。現在、パリのコンコルド広場にある。その礼としてフランスはアリに時計台を贈った。

ラムセス2世像拡大

オベリスク拡大
オベリスクの左にあるラムセス2世の頭
トトメス3世礼拝堂
礼拝堂の向かいのイスラム寺院
下の神殿が砂に埋もれていて存在が分からず、神殿の上にモスクを建ててしまった。

ラムセス2世の座像、その奥に列柱室

アメンホテプ3世の中庭から列柱室を望む

パピルスの花の形をした列柱、柱はパピルスのたばを表す

この列柱はアメンホテプ3世(第18王朝)が作ったもの

スフィンクス参道

スフインクス拡大

ラムセス2世と妻ネフェルタリの像(第19王朝)

ツタンカーメンと妻アンケセナーメン(第12王朝)
ラムセス2世像もツタンカーメン像も台座に彫られたカルツーシュで誰の像か分かった

神殿は全部同時期に建てられたのではなく、神殿の奥が年代としては古い。

コプト教会

壁のしっくいがはがれると下からレリーフが現れる。
この教会はローマ支配時代に作られたものだが迫害されたキリスト教徒が教会として使っていた。そのため壁のレリーフの上にしっくいを塗ってその上にキリスト教の絵を描いた。

左のマークは木の枝を折り曲げて十字に結び付けた形をしている。このマークをアンク(生命の鍵)という。 

アンク (Ankh)
古代エジプトで用いられた象徴図像。エジプト十字とも呼ばれる。そもそも Ankh という古代エジプト語自体が生命を意味しており、生命の象徴とされる。ラテン十字の上部がループ状の楕円となった形状をしており、サンダルのひもをかたどったものと言われる。また、ヒエログリフにおいて、Ankh ないし Anx 音を表す文字としても用いられ、ツタンカーメンも Tut-ankh-amen の ankh の部分にこの文字が用いられている。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


ルクソール神殿の至聖所、アレキサンダー大王の間、壁のレリーフ
アレクサンドロス3世(Aleksandros III Megas、紀元前356年7月? - 紀元前323年6月10日、在位前336年 - 前323年)
 マケドニア王国のテメノス朝のバシレウス(国王)として即位、後にコリント同盟の盟主、エジプトのファラオを兼任した人物であり、アレクサンドロス大王とも称される。日本では英語読みのアレクサンダー大王、アレキサンダー大王の名で呼ばれることが多い。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
至聖所はアメンホテプ3世が作ったときは一つの部屋であった。その後の王が内部に部屋を増築したためいくつも部屋が出来てしまった。

神への貢ぎ物の牛

船のレリーフ
両方の舳先は羊の頭で飾ってある
エジプトの中王国から新王国時代の都はテーベ(ルクソール)で、ラーはこの町の神アモンとが重なってアモン・ラーと言われるようになった。その姿は雄ひつじの姿であった。

神への貢ぎ物

船の舳先には羊の頭、アモンラー神のもう一つの姿はひつじ

カルナック神殿
参考)カルナック神殿
 エジプトのテーベ近郊、ルクソール神殿より北東へ約3キロメートル、カルナックにある「イプト・イスウト」(最も選ばれた場所)として知られる古代エジプト最大の神殿である。
 中王国より(特に第18王朝初めより)2000年にもわたって、トトメス1世、トトメス2世、トトメス3世、ハトシェプスト、アメンヘテプ3世、ラムセス1世、ラムセス2世、ラムセス3世、プトレマイオス2世、プトレマイオス3世、ティベリウスに至るまで、拡張、取り壊し、修復を繰り返してきた。日乾煉瓦の周壁に囲まれた3つの神域に分けることができる。
 中央の最大で保存状態のよいアメン大神殿群とこれをはさんで北側にメンチュ神殿群、南側にムート神殿群がある。アメン大神殿境内には主神殿のほかにコンス神殿、オペト神殿、プタハ神殿、ラムセス3世神殿、トトメス3世祝祭殿、アメンヘテプ2世祝祭殿等があり、その大多柱室は壮大な規模によって有名である。建築様式や美術的な意味だけではなく、トトメス3世年代記、州名表、王名表等価値ある歴史的資料も数多く保存されている。これらの神殿群は運河によってナイル川と結ばれており、かつアメン大神殿とムート神殿はアメンの聖獣羊頭のスフィンクス参道で、またルクソール神殿とは人頭のスフィンクス参道で結ばれていた。テーベに王都を持つファラオの出現により莫大な富がこれらの神殿に集中し、特に新王国期におけるテーベ神殿群の力は絶大であり、ラムセス3世の寄進した所領についてみても全神殿のそれに対し約80パーセントにも及んだことが知られている。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ひつじの形をしたスフィンクス

スフィンクスの前のラムセス2世の像
アメン(Amen)とアンモナイト
 古代エジプトの太陽神。 アモン(Ammon)、アムン(Amun)と表記されることもある。
 アンモナイトは「Ammon (アモン神) + -ites (…石)」から来ており、「アモンの石」の意。
 殻の形態から、この“石”を古代ローマの博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは、古代エジプトの太陽神アモン(Ammon、アメン)が持つ螺旋(らせん)状に巻いた牡羊様の角を連想し、「ammonis cornua (アムモニス・コルヌア。=horns of Ammon、アモンの角)」と呼んだ。
引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アモン神の象徴である聖獣クリュオスピンクスの像。エジプトはテーベ近郊にあるカルナック神殿のアメン大神殿、主神殿への参道に居並ぶスピンクス群の一つ。
引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アメン神、テーベの守護神

第一塔門

第二塔門とパネジェ
ム像(左)とラムセス2世像(右)
造りかけの壁(上左)を見ると、石をどのようにして積み上げたか分かる
。土を盛って斜面を水で濡らし、銅製の皿に石を載せ滑らせて持ち上げて積んでいく、積み上がったら上からレリーフを刻んでいく。
当時の盛り土がそのまま残っている。日本のように雨が多いところではこんなものは残らないだろう。

アラバスター石の貢ぎ物台(右上画像の真ん中にある)

第2塔門の一部にはまだ彩色が残っている。
この塔門はラムセス2世とセティ1世が造ったもの
この門を抜けると大列柱室

当時の彩色が一部残っている

神殿の明かり取りの窓、柱を一段低くしている

トトメス1世のオベリスク

ハトシェプスト女王のオベリスク
ハトシェプスト女王のオベリスクのオベリスクは上部と下部では色が違っている。トトメス3世が自分をないがしろにしたハトシェプストを恨んで見えないように囲いをした。そのため下部が日に当たらず色が違ってしまったそうだ。オベリスクは神聖な物なのでいくら憎んでいても破壊できなかったようだ。
 ガイドはハトシェプストはトトメス3世の姉と説明したがそれは間違っているようだ。下の家系図を見ると叔母であって義母ということになる。どちらにしてもトトメス3世が後継の王であるのにハトシェプストが政治の実権を握っていたため2人の仲は悪かったということらしい。
倒れたハトシェプスト女王のオベリスク

聖なる泉
昔はナイル川の水を引き込んでおり、神官達がここで身を清めた。

スカラベ(糞転がし)の石像

パネジェムの巨像(第二塔門)左はもとはラムセス2世が作ったものだが、パネジェム1世(第21王朝)が自分の名前に書き換えてしまった。
スカラベ(scarab)
 甲虫類のコガネムシ科に属する甲虫。タマオシコガネやフンコロガシとも呼ばれる。糞を転がして運び、地中に埋めて食料とする。
ファーブルが、自身の著書『昆虫記』の中で研究した虫としても有名である。
 古代エジプトでは、創造神ケプリの象徴とされ、太陽神と同一視された聖甲虫である。再生、復活の象徴として崇拝され、スカラベをかたどった石や印章などが作られた。
引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


遺跡の前に防弾盾を置いた警察車両、以前のルクソール事件の影響がまだ残っているようだ。

1日目のルクソールでの昼食

昼食を摂ったレストラン『クレオパトラ レストラン』

レストラン内部

タヒーナ(ゴマのペースト)とスープ
タヒーナは少し塩味があり、パンにつけて食べる。必ず食事に出てくる。これは私の舌には合っていた。

ピザが入っている、いったいどこの料理か分からない。ライスは日本米に近い。肉は赤身(スパイスにくせあり)で固い。

デザート、ムースかと思ったらチョコレートの溶けたようなもの。市販品がそのまま出てくるのにはおどろいた。

アラビアコーヒー以外にネスカフェというのがあり注文したらインスタントコーヒーのスティックと湯が出てきた(!!)。トルコと同じだったのにはおどろいた。

午後から西岸観光に向かった。王家の墓は有名だがあまり被写体になるものがない。ツタンカーメンの墓はビデオ持ち込み禁止で入り口で預けなければならない。その他の墳墓もカメラ、ビデオの持ち込みはいいが撮影は禁止とのことであった。まあ、無理に撮影するほどのことはないものだ。

入り口、手荷物検査はあるが、金属探知機が鳴ってもボディチェックなし、極めていいかげん。

王家の谷の模型

入り口から墓のあるところまでは電気自動車で行く

ここに墓がなければただの砂山

ツタンカーメンの墓だった思うが?

土産物屋、例によって『みんな1ドル・・・』

 最近の話題では、2007年6月に1903年にハワード・カーターらが王家の谷の小さな墓で発見したミイラをハトシェプスト女王と決定した。 ハトシェプストのカノプス壺に入っていた臼歯とミイラの抜けた歯の穴をCTスキャンで一致しこと、ハトシェプストの親族のミイラとの間のDNAの類似性があることで、このミイラをハトシェプストと断定した。
 エジプト考古学者ザヒ・ハワース博士が「王家の谷」で2008年11月からネフェルティティ王妃と思われる墓の発掘にとりかかっている。ツタンカーメンの墓、実母キヤの墓の間に位置し、イクナテン王の正妻ネフェルティティの墓の可能性が高いということである。
ネフェルティティ(Nefertiti)
紀元前14世紀中葉)エジプト新王国時代の第18王朝のファラオであったアクエンアテン(aKH-eN-aToN, イクナートン、旧名アメンホテプ4世の正妃であり、ファラオ、トゥト・アンク・アメン(TuT-aNKH-aMeN, トゥタンカ-メンの義母である。
ネフェルティティの胸像(ベルリンの国立博物館所蔵)彼女の名の大意は、NeFeR-T-(美しい・者)iTi(訪れた)。ネフェルティティはまた、謎を秘めた未完成の美しい胸像で著名であり、古代エジプトの美女の一人と考えられている。
引用 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王家の谷の見学後、ハトシェプスト葬祭殿に向かった。ここもあまり見るべき物はない。修復作業をしていた。
ハトシェプスト女王葬祭殿
エジプト・ルクソール西岸にある古代エジプト唯一人の女性ファラオ、ハトシェプストが造営した葬祭殿。ハトシェプストの側近で建築家センムトが設計を行った。後にトトメス3世によって壁画や銘文が削られるなど一部破壊を受けた。手前にはメンチュヘテプ2世の王墓があり、あわせて、デル・エル・バハリ(Deir el-Bahri(アラビア語で「北の修道院」の意味。後にコプト正教会の教会として使われていたため)とも呼ばれている。 1997年11月、ルクソール事件の現場となり外国人58人を含む62人が亡くなる事件が発生し、その中には多くの日本人新婚旅行者も含まれた。
引用 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


   

壁画に描かれていた木が実際に掘り出された

ハトシェプスト葬祭殿

トトメス3世の葬祭殿は地震で崩れてしまった。天罰か?

参考)ハトシェプスト女王(Hatshepsut)
 古代エジプト第18王朝5代目のファラオ。在位は、紀元前1479年頃 - 紀元前1458年頃。
 父はトトメス1世、母はイアフメス。夫はトトメス2世、娘はネフゥルウラー
 夫であるトトメス2世は妾腹の息子トトメス3世を次の王にせよと遺言したが、トトメス3世は幼かったため、以後22年間にわたり共治王を務めた。
 実際には在位中、彼女が絶対的権力を保有していた。公的な場では男装し、あごに付け髭をつけていたと伝えられる。
 ハトシェプストの意味は「最も高貴なる女性」である。即位名はマアトカラー、意味は「真実とラー神の魂」である。
 即位については、トトメス3世を無視してプロパガンダを用いファラオの地位まで登りつめるほどの野心家であったと見るか、夫の遺言を守るために幼い息子が成人するまでの「つなぎ」を果たそうとしたと見るか、諸説ある。
 治世は穏健で、戦争を好まずに平和外交によってエジプトを繁栄させた。しかし、それは同時にエジプトの国威の低下を招くことになるのだが、トトメスの軍事的功績の基盤を作り上げたという見方もある。
 死後、その事跡はトトメス3世によって抹消されたという解釈が一般的だが、ザヒ・ハワースによると、ハトシェプストとトトメス3世の仲は良好で、事跡を抹消したのは女性であるハトシェプスト女王がファラオとして君臨したことを快く思わない者たちではないかと発言している。
 お旧約聖書「出エジプト記」でモーセをナイル川で拾って育てた義母は彼女とも言われている。
引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ホテルに戻る前にメムノンの巨像に立ち寄った。この像の後ろにはアメンホテプ3世の葬祭殿があったが、後のファラオが石材として破壊してしまったためなくなってしまった。

メムノンの巨像はアメンホテプ3世の像
メムノンの巨像
 エジプト・ルクソールのナイル川西岸にある2体のアメンホテプ3世の像。呼び名はギリシアの伝説、メムノン王に由来。高さ約18m。
元々は、背後に葬祭殿が控えており、その入口の部分であった。葬祭殿は第18王朝ファラオ・メルエンプタハが自身の葬祭殿の石材調達のため破壊した。
 像は紀元27年の地震によりヒビが入り、夜明けになると、おそらく温度差や朝露の蒸発のせいで、うめき声や口笛のような音を発していたが、修復後の現在、その音はしなくなった
引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

一度、ホテルに戻り、今夜の夕食のヌビア料理のレストランに向かう。少し町のはずれにあるのかバスで向かった。

夕食はヌビア料理レストラン

左のウエイターの服装がヌビア人の民族衣装、この帽子が特徴。

ショルバト・リサン・アスフール
麦状のパスタが入ったチキンスープ、あまり美味とは言えなかった。

 右がバーバガヌーグ(焼きナスのペースト)、タヒーナ(ごまのペースト)のほうが口に合う。色がナスのようでないので給仕に尋ねたが間違いなく日本語で『なす』と答えた。
 BS放送の『大使館の食卓』でスーダン大使館の紹介でナスのペーストを作っていた。水で濡らしたパンを混ぜて粘りけを出していた。おそらく、これも同じようにして作っているはず。

左が常番のタヒーナ、必ず出てくる
右はナスのオリーブオイルいため

エジプト産ビールのステラ
色が薄くて、苦みが少なく水っぽい。日本の発泡酒の方がうまいのではないか(個人的感想)

どこがヌビア風料理なのかよく分からなかった。それにしてもエジプト旅行の食事はあまりバリエーションがなく期待できないようだ。(もっと費用をかければましなのが出るのかもしれないが・・・・)

ホテルに戻って見たら昨日消えていた廊下の電気が点いており、板壁がきれいになっている。昼間の間にニスを塗り直したようだ。

【宿泊:イシス・ルクソール】

ホテルの無線LANによるインターネット接続の画面、有料なので接続は止めた。

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地球の歩き方欄外に『インシャアッラー』(神がのぞみ給うならば)という言葉がアラブ世界ではよく使われると書いてあった。店の客引きがあまりにひつこいので『I'll come back later.』と言って『インシャアッラー』と付け加えたら相手は苦笑いしていた。少し、強引な客引きには少し有効かもしれません。