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ホテルの朝食はブッフェスタイルでなくコンチネンタルスタイルであった。パンとコーヒー、それにジュースかくだものという構成。日本のホテルの方がはるかに朝食はまし。(値段に比して) 外人(我々から見て)は白いヨーグルトをシリアルにかけて食べていた。 まねをして食べてみたが、ヨーグルトがまったく酸っぱくない。 正直おいしくない、牛乳をかけた方がましだ。 カフェオレは好きだ。コーヒーと温めたミルクがポットにいれて自分で適当に混ぜるのがいい。 チーズがテーブルにあった。マークが見たことがある。『笑う牛』だ、帰国して家の冷蔵庫で確認したら同じものだった。 ひっくり返して見ると、made in franceと書いてある。 近所のスーパーで買ったものだ、以外とフランス産が輸入されているものだ。 チェックアウトしてもう一度モンサンミッシェルに向け、走らせた。まだ8時頃なのにもう観光バスが走ってくる。 さすがに有名なところだと感心する。路側に車を止め、モンサンミッシェルを眺め、Uターンしてアンジェに向かう。 今度は間違いなくアンジェに到着した |
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アンジェはアンジェ公国の首都で13世紀に建設された17つの塔をもつアンジェ城がある。 聖ルイ(ルイ9世:1226−1270)が20年かかって築いた城である。 ブルタニュー公国に対抗するためにこの城が建設され、軍事目的がある城だった。 14世紀アンジェ公ルイ1世が権力を誇示するため、世界最大のタペストリーを注文して作らせた。 1373年フランス国王シャルル5世がアンジェ公シャルル1世にフランス語で書かれたヨハネの黙示録の写本を貸したことが制作のきっかけと言われている。 |
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川沿いに2車線の道を進んだら、右手に城が見えた。道路のすぐ近くで想像したより町の中にあるので意外だった。右手に曲がったが繁華街に入ってしまって城に近づけず(案の定一方通行にじゃまされて)。 | |||||||||
アンボワーズ城の全景 amb3-1 |
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それでまずはホテルにチェックインすることにした。 今日は豪華にマナハウス(Manoir des Pres du Roy)発音が分からない・・・・。 とにかく『貴族の館』ということらしいが、英国のプチホテルのような感じだった。 日本なら織田信長の重臣の家ということになる。 内部はきれいに整備されている、古いながらもりっぱな建物である。 チェックイン後、徒歩で城まで歩いた。10分か15分くらいで着いた。 城の上からマナハウスが見えている。 城は片方が丘になっていて城壁は川側だけである。 城の前の道路の繁華街よりに有名なチョコレートの店(ビゴーBigot)がある。 サロンドテということだから店は紅茶などでケーキなどを食べることも出来る。たくさん客が入っていた。 |
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アンボワーズはフランスで最初にイタリア・ルネサンス芸術が入ってきたところでもある。 アンボワーズ城は15〜16世紀にかけフランス王たちがもっとも気に入った居城の一つである。 1516年フランソワ1世はレオナルド・ダビンチをここに招き、クロ・リュセの館を与えた。 |
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フランソワ2世時代の1560年新教徒が王を奪うために進入した新教徒を旧教徒がこの城で虐殺した事件が有名。 別の本にはフランソワ二世※を暗殺するためと書かれ、城でもらった説明書には新教徒擁護派のコンデ公王子を引き渡さなかったので新教徒が虐殺されたとある・・・よくわからない??。 フランソワ二世はスコットランド女王メアリと結婚した人物(映画ブレイ・ブハートに登場したはず)。 城の中には聖ユベールは8世紀のベルギー人、森の守護聖人となっている。 ※)1544〜60(1559〜60在位)フランス王。アンリ(Henri)2世の長男で、母はカトリーヌ=ド=メディチ。フランソワ2世はスコットランド王ジェームズ5世の王女メアリー=ステュアートと結婚(1558)。 フランソワ二世は即位したが若く病弱なため外威のギーズ公フランソワ=ド=ロレーヌ(ギーズ公フランソワ)とその弟シャルルが実権を握っていた。 コンデ公ルイはギーズ派の暗殺を計画し,新教徒の指導者ラ=ルノーディと組み宮廷のあったアンボアーズ城周辺に兵を集めたが発覚し城内で多数の人が処刑された(アンボワーズ陰謀事件,1560年3月15日)。 コンデ公ルイは再度陰謀を計画したがまたしても発覚し,オルレアンで捕えられた(1560年10月31日)が、フランソワ2世が急死したためにコンデ公は処刑をまぬがれた。 その後フランソワ2世の弟シャルル9世が即位したが、その実権は母親のカトリーヌ=ド=メディチが握っていた。 プロテスタントがシャルル9世の追放を企んでいるとの噂で母親のカトリーヌ=ド=メディチ(カソリック)はプロテスタント派貴族の虐殺を命令した。(サン・バルテルミーの大虐殺1572年8月24日) |
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