フランス周遊10日間
12月13日(金) 8日目
 
 
12月13日(金) 朝:パリ観光。
(◎ルーブル美術館、○エッフェル塔、△凱旋門、△シャンゼリゼ通り)
午後:昼食後は自由行動
パリ泊
12月12日と同じ
午前中はパリの観光、はじめはキャンセルして自由行動のつもりだったが
昼食が中華料理だったので、ツアーの予定通りの行動にした。
ルーブル美術館見学をキャンセルしなくて良かった。
ガイドさんは日本で高校のフランス語教師をしていた人で、フランス人だが江戸っ子調のしゃべり方。
なかなかうまい説明で感心した。
 
 
地下1階のエントランス、へんてこな像(布に包んだ)が建っていた
ルーブル美術館の出来上がった経緯はWikipediaにて参照。
 

「アモールとプシケ」
キューピッド(アモール)のキスで眠りから覚めるプシュケー
アントニオ・カノバANTONIO CANOVA作
アモールはキューピッドなので羽が生えているというわけ。
アントニオ・カノーヴァ(Antonio Canova, 1757 - 1822)
イタリアの彫刻家。
裸体を表現した大理石像が有名で、過剰に演劇的になり過ぎたバロック美術から、古典主義の洗練さに回帰する、新古典主義の代表である。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》
プシケは絶世の美女であった。
それにエロス(アモール、クピド)の母親であるアフロディーテは嫉妬した。
母親はアモールにぶさいくな男を好きになるよう、プシケに向かって恋の矢を射るように命じた。
しかし、間違って自分を射てしまい、アモールがプシケに恋してしまうことになる。 
アモールは神なので姿をプシケに見せることは出来ない。それで夜の闇にまぎれて会いに行くことになる。
プシケはある夜、眠っているアモールの羽の生えた神の姿を見てしまった。
驚いたプシケは蝋燭のロウをアモールに落とし、彼の目を覚ましてしまった。
アモールは「愛と疑いはいっしょに暮らすことが出来ない」と言って姿を消してしまった。
アフロディーテはいやがらせのためプシケを捕らえ、黄泉の神ハデスの妻ペルセポネから美の箱をもらってくるようにと命じた。
プシケに同情したペルセポネは、決して開けないようにと言って美の箱を渡す。
地上に戻ったプシケが水に映った自分の顔がやつれて見る影も無いことに気づいた。
これではアモールに振られてしまうと不安になり、美の箱を開けてしう。
箱の中身は美ではなく永遠の眠りで、プシケは永遠の眠りについてしまう。
アモールが眠りについたプシケを見つけ、彼女の一途な思いが分かり、愛のキスでプシケを目覚めさせる。

ヘルメスHermes

ヘルメスの杖
この銅像は大阪天満橋のOMMビルの前にもある
ヘルメース(Hermes)
ギリシア神話に登場する青年神である。
長母音を省略してヘルメスとも表記される。
オリュンポス十二神の一柱。旅人、泥棒、商業、羊飼いの守護神であり、神々の伝令役を務める。
能弁、体育技能、眠り、夢の神とも言われる。
その聖鳥は朱鷺及び雄鶏。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
 ヘルメスの持っている蛇の巻き付いた杖はケーリュケイオン( Kerykeion)という。
ギリシア神話ではヘルメスは伝令の神でこのケーリュケイオンを伝令使の杖とも言う。
ヨーロッパではこの杖を商業の紋章として使われ、ちなみに一橋大学では校章としても用いられている。。
よく間違えられるのが各国の医療機関で用いられ「アスクレーピオスの杖」でこちらは巻き付いている蛇は1匹である。 

ケーリュケイオン
Wikipediaより引用

アスクレーピオスの杖
Wikipediaより引用
 
大阪天満橋のOMMビル前のヘルメス像

抵抗する奴隷 (左)瀕死の奴隷(右)
 ミケランジェロ作

esclave rebelle反抗的な奴隷
この2体の彫像は法王ユリウス2世の墓に置かれるものとして製作されたが、墓の設計変更で使われなかった。
モナリザがなぜこれほど注目されるのか・・・。
ガイドの説明ではこの頃の肖像画というのはほとんどが貴族や王様が対象で、一般の人を描くというのはあまりなかったからだそうだ。(本当か、どうか分からないが・・・)

モナリザ

ケースの奥行きが狭く改良されている
Wikipediaより引用
モナリザの展示を見たが、人がそんなに多くなかったのでよく見えた。
しかし、前回見たときと違い、よく見える。
旅行後、、インターネットで調べたら、ガラスケースが改良されていることが分かった。
『モナ・リザ』(伊: La Gioconda、仏: La Joconde)
イタリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた油彩画。上半身のみが描かれた女性の肖像画で、「世界でもっとも知られた、もっとも見られた、もっとも書かれた、もっとも歌われた、もっともパロディ作品が作られた美術作品」といわれている。
『モナ・リザ』のモデルは、フィレンツェの富裕な商人で、行政官も務めたフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザ・デル・ジョコンドだとされている。
ポプラ板に油彩で描かれた板絵で、1503年から1506年に制作されたと考えられている。
もともとはフランス王フランソワ1世が購入した作品だが、現在はフランスの国有財産であり、パリのルーヴル美術館が常設展示をしている。
しばしば「謎」と表現される画題の不確かさ、スケールの大きな画面構成、立体描写の繊細さ、だまし絵めいた雰囲気など、さまざまな点において斬新であったこの作品は、現在に至るまで人々を魅了し続け、研究の対象となってきた。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細

もともとは両側に柱が描かれていたらしい

一方の手は男性、他方はと女性の手だという説もある
輪郭を描くのではなく「主に口角と眼周辺を表現する (Gombrich)」スフマートの技法で描かれている.。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 
スフマート(イタリア語:Sfumato)
深み、ボリュームや形状の認識を造り出すため、色彩の透明な層を上塗りする絵画の技法。
特に、色彩の移り変わりが認識できない程に僅かな色の混合を指す。
レオナルド・ダ・ヴィンチほか16世紀の画家が創始したとされる
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細

アイルワースのモナリザ

ラファエロの模写
2012年にスイスにあるアイルワース(ロンドンの西部にある町)のモナリザ がダビンチの作品ではないかということで話題になった。
ラファエロの模写に柱が描かれていたことを根拠にしている。
以前からダビンチは2枚のモナリザを描いたという話がある。
模写であるという説もあり、真贋は現在も結論がついていない。
 
《7月28日-民衆を導く自由の女神》 1831年のサロン出品
ウジェーヌ・ドラクロワ(シャラントン=サン=モーリス、1798年-パリ、1863年)
民衆を導く自由の女神( La Liberte guidant le peuple)
ウジェーヌ・ドラクロワによって描かれた絵画。
1830年に起きたフランス7月革命を主題としている。
絵の中心に描かれている民衆を導く果敢な女性は、フランスのシンボルである、マリアンヌ(Marianne)の代表的な例の1つである。
絵画としてのスタイル、フランス7月革命というテーマから、絵画におけるロマン主義の代表作と言える。
原題から分かるように、女性は自由を、乳房は母性すなわち祖国を、という具合に、ドラクロワはこの絵を様々な理念を比喩(アレゴリー)で表現している。
一方で彼女がかぶるフリギア帽は、フランス革命の間に自由を象徴するようになった。
女性の隣に立つ、マスケット銃を手にしたシルクハットの男性はドラクロワ自身であると説明される事が多い。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
ナポレオン関係の絵について解説してくれた。
録音していないので詳細は覚えていない。

ジャファでペスト患者を慰問するナポレオン(1799年3月)
アントワーヌ=ジャン・グロ1804年

一部拡大、ボナパルトは、キリストのように、
ペスト患者の胸に手を置いて激励している。
この絵は、1799年3月、シリア遠征の祭にジャファで病院(モスク)でペスト患者を慰問しているナポレオンを描いている。
ナポレオンが、上半身裸のペスト患者に手袋を脱いで手を触れている。
そばで医師は触らせるのをやめさせようとしている。
またナポレオンの後の将校はハンケチで鼻を塞いでいる。
ナポレオンの勇気とこの戦争を正当化することを示している。グロは、宗教画のキリストのハンセン病患者に触れる場面をナポレオンに重ねるように表現している。
 
皇帝ナポレオンの戴冠式1805-07年 ジャック=ルイ・ダヴィッドJacques-Louis David
   
左上の女性はナポレオンの母親
しかし、ジョセフィーヌが嫌いなナポレオンの母親は当日出席していなかった。
従ってこの絵はうそということになる。ダヴィットはナポレオンの要望で描き込んだのだ。 
この絵はナポレオンの戴冠式というが、実際はジョセフィーヌの戴冠式である。
ローマ教皇を招いたが、自分でオリーブの冠を被り、妃ジョゼフィーヌに冠を被せた。
それで後ろでないがしろにされたローマ教皇はぶすっとしているのだ。
戴冠式の場所はノートルダム寺院。
当初、ダヴィットはナポレオンが自分で冠を被す下絵にしたが、途中で変更したためこの題名が残ってしまった。 
  ナポレオンの戴冠式のジョセフィーヌの衣装は当時としてもかなりの超豪華版であり、ダイヤモンドのティアラと髪飾り、イヤリングを着けている。
当時、パリではカメオが大流行し、ジョセフィーヌの右腕にもカメオのブレスレットが描かれている。(矢印)
 
ジョセフィーヌ乗せようとしている王冠
この王冠はパリのショーメCHAUMET宝飾店が作ったもの
 
田崎真珠が作った、左の王冠のレプリカ
引用ページ
ショーメCHAUME
1780年にフランスのパリに創業した宝飾店で、フランスの「グランサンク(5大宝飾店)」の一つとして有名。
店主のマリ・エティエンヌ・ニトがナポレオンの乗った馬の暴走を止めたことから皇帝ご用達になったという話。
1805年、パリのヴァンドーム広場に店を構えた。
現在もヴァンドーム広場のホテルリッツの向かい側に店がある。
 
ショーメCHAUMET宝飾店 引用:Google Earth

メデュース号の筏、テオドール・ジェリコー1818年-1819年
1818年、フランス海軍のフリゲート艦メデューズ号がモーリタニア沖で難破した際に起きた事件を表している。
少なくとも147人の人々が、急ごしらえの筏で漂流しなければならなかった。
そのほとんどが救出までの13日間で死亡し、生き残った15人も、飢餓、脱水、食人、狂気にさらされることになった。
事件は国際的スキャンダルとなり、フランス復古王政の当局指揮下にあったフランス軍指揮官の、無能が遠因になったとされた。
ジェリコーは、依頼を受けてからこの絵を描いたのではない。
最近起きたばかりの有名な悲劇的事件を、意識的に主題に選んだことで、この絵は世間の関心を大いに呼び、ジェリコーの名も世に知られるようになった。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 

着物の彫りが荒い
上下の間のつなぎ目が見える
ミロのビーナス 紀元前130~100年頃の作品 
ミロのビーナスがなぜこれほど有名なのかは理由がある。
彫像の多くはギリシャ時代の物は少なく、ほとんどはローマ時代に作られたギリシャ時代のコピーである。
その点、このミロのミーナスは正真正銘ギリシャ時代のものだからである。
しかし、このミロのビーナスも同時代のコピーの可能性がある。
ビーナスの後ろ部分はなりいい加減に彫られており、この像が壁のくぼみに置くようになっていたことが分かる。
また、後ろから見ると上下2つの大理石をくっつけたものであることも分かる 
ミロのヴィーナス
ミロのヴィーナスはギリシア神話におけるアプロディーテーの像と考えられている。
高さは203cm。材質は大理石。発見時は碑文が刻まれた台座があったが、ルーヴル美術館に持ち込まれた際に紛失している。
「ミロ」は発見地ミロス島のロマンス語形で、「ヴィーナス」はアプロディーテーのラテン語名ウェヌス(Venus)の英語読みである。
ただし英語では通常ルーヴルで表示しているフランス語式綴りをとって 「Venus de Milo」と表記し、これを英語式に「ヴィーナス・デ・マイロ」に近い発音をする。
作者は紀元前130年頃に活動していた彫刻家、アンティオキアのアレクサンドロスと考えられているが、彼の生涯については殆ど分かってない。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細

アポロンのギャラリー

ルイ14世のために1660年ル・ブランが装飾の製作に着手
ルイ14世( Louis XIV、1638 - 1715)
ブルボン朝第3代のフランス国王(在位:1643年5月14日 - 1715年9月1日)。
ナバラ国王としてはルイス3世(バスク語: Luis III.a)。
ルイ13世の長子。
妃はスペイン国王フェリペ4世の娘マリー・テレーズ・ドートリッシュ(マリア・テレサ)。
ブルボン朝最盛期の王で太陽王(Roi-Soleil)と呼ばれた。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
シャルル・ルブラン(Charles Le Brun, 1619 - 1690)
フランスの画家 、室内装飾家、美術理論家。
ルイ14世の第一画家としてヴェルサイユ宮殿、ルーヴル宮殿等の内装を担当。
王立絵画・彫刻アカデミー(後の芸術アカデミー)やゴブラン工場(w:Gobelins Manufactory)の設立運営にも関わり、17世紀フランス工芸・美術界に強い影響を与えた。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細

ルイ15世の王冠
全体に真珠と宝石をちりばめている

ナポレオンの王冠
カメオがたくさん使われている
ナポレオンとカメオ
ナポレオンがイタリア遠征で持ち帰ったカメオがフランスで大流行した。
ナポレオンもカメオが大好きで王冠にも多くのカメオがあしらわれている。
また、イタリアから職人を招いてパリに宝飾学校を開設している。
ルイ15世(1710 - 1774)
ブルボン朝第4代のフランス国王(在位:1715 - 1774)。
曾祖父ルイ14世の死によりわずか5歳で即位.
ポーランド継承戦争に参戦して領土を得たが、続くオーストリア継承戦争では得るものはなく、戦争により財政を逼迫させた。
七年戦争ではアメリカ大陸の権益を失い、フランスの衰退を招いた。
政治には無関心で、国民の不満が高まった。
多くの愛人を持ち私生活は奔放で、最愛王(Bien-Aimé)と呼ばれた。
特にポンパドゥール夫人とデュ・バリー夫人はルイ15世の治世に大きな影響を与えている。
1774年に天然痘により64歳で崩御した。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
美術館ではWifiで美術館の解説ソフトの販売画面が出てくる 

ルーブルの館内にアップルのアンテアナショップ
 サモトラケのニケは修復中で見学できず
 
ルーブル名物逆さピラミッド
ルーブル・逆ピラミッド (仏:La Pyramide Inversee)
フランスのルーブル美術館前にあるショッピングセンター、ルーブル・ド・カルーゼルに設置された採光窓である。
逆ピラミッドは、有名なルーブル・ピラミッドの上下を逆さまにして、サイズを小さくしたような形状をしており、ピラミッドの底部は上側になっているため、外から簡単に目にすることができる。
ガラスのピラミッドの直下の床には、高さおよそ1メートルの小さな石のピラミッドが設置されていて、上部にあるより大きなピラミッドを映しているかのように見える。
逆ピラミッドは、設計事務所Pei Cobb Freed & Partners社により設計され、ルーブル美術館の第二期リノベーション時に設置された。
完成は1993年である。 1
995年にはベネディクトス賞の受賞候補となった 。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
ダン・ブラウンの小説『ダビンチコード』のラストで小ピラミッドの中に聖杯があるような(?)あいまいな書き方で終わっている。
トムハンクs主演の映画では小ピラミッドの地下にマグダラのマリアの遺体が納められているという場面で終わっていた。
小説のほうでは聖杯は女性の象徴でマグダラのマリアのことなのだという事になっている。
見学を終わる頃にはかなりの人出となっていた。
早く来たのは正解のようだった。
ルーブル美術館の見学を終えたが、昼食時間には少し早いので、シャイヨー宮に寄り道してエッフェル塔を見ることになった。
昨日と違って少し天気が悪くなっており、エッフェル塔がすっきりと見えない。

フェルディナン・フォッシュ

ちょっと靄かかっていている
フェルディナン・フォッシュ(Ferdinand Foch, 1851年10月2日 - 1929年3月20日)はフランスの陸軍軍人。
ヴェルサイユ条約の事を指して「これは平和などではない。たかだか20年の停戦だ」 名言を残している。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
 シャイヨー宮の間にある銅像
シャゼリゼ大通りから、少し横に入ったビルの地下の幸福城酒樓 Elysees Bonheurで昼食となった。
店内はかなり人が入っており、にぎやかだった。

幸福城酒樓 Elysees Bonheur
まあ、中華料理はどこで食べてもあまり外れがない。
春巻きが出なかったのが心残りだ。
食品素材については安心できないが・・・ 
※Bonheurはフランス語で幸福という意味、大阪に『帝塚山ボネール』というレストランがある。
   
昼食後は自由行動となったので、プランタンで買い物をし、ギュスターヴ・モロー美術館に行くことにした 
 
幸福城酒楼からプランタンまで歩きました 2Km30分くらい

サント・ギュスタン教会Eglise Saint-Augustin
サン・トギュスタン教会Eglise Saint-Augustin
1860~1871年の第二帝政時代(1852~1870年)のオスマン知事によるパリ改造の時代に出来たものである。
建築家ヴィクトル・バルタールVictor Baltardによる設計である。
ロマネスク建築とビザンティン建築の折衷建築物である。
フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂Basilica di Santa Maria del Fioreも参考にしている。
初めて金属製の骨組みも使ってた石造建築でもある、当時としては最先端のものであった。
この教会には神学者のアウグスティヌス(354~430)(フランス語ではサン・トギュスタン)が祭られている。
※ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン(Georges-Eugene Haussmann、1809 - 1891)
19世紀フランスの政治家。
1853年から1870年までセーヌ県知事の地位にあり、その在任中に皇帝ナポレオン3世とともにパリ市街の改造計画を推進した。
この都市改造はフランスの近代化に大きく貢献し、現在のパリ市街の原型ともなっている。
引用【フリー百科事典Wikipedia】【詳細
※アウレリウス・アウグスティヌス(ラテン語: Aurelius Augustinus、354 - 430)
古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者、ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。
古代キリスト教世界のラテン語圏において最大の影響力をもつ理論家。
カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会・非カルケドン派で聖人。
母モニカも聖人である。
日本ハリストス正教会では福アウグスティンと呼ばれる。
なお、イングランドの初代カンタベリー大司教も同名のアウグスティヌスであるため、ヒッポのアウグスティヌスと呼ばれる。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細

オ・プランタン

プランタンのミウミウ店
 プラダは、ミラノに本社を置くイタリアの高級ファッションブランドで、メインブランドのほか、レディース用の姉妹ブランドのmiu miu(ミュウミュウ)を展開している。
プランタンのクリスマスツリー 
オ・プランタン
マガザン・デュ・プランタン(フランス語:Magasins du Printemps)は、フランスのパリに本店を置く百貨店。
プランタンはフランス語で春の意。
オ・プランタンはギャルリ・ラファイエットのように、他の百貨店を備えたパリ9区のオースマン大通りに本店がある。
また、支店としてはフランスのいたる所や、海外にもアンドラと日本の東京(プランタン銀座)、サウジアラビアのジッダにもある。
かつてはアメリカ合衆国のデンバーにも店舗があったが、閉鎖された(現在はクエスト・ダイアグノスティックスのオフィスになっている)。
かつてはグッチの親会社であるピノー・プランタン・ルドゥート社 (PPR)に運営されていたが、2006年、高級ブランドに集中するPPRの戦略から独REEFFと伊Borlettiグループのコンソーシアムに売却された。 
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 

プランタンからギュスターヴ・モロー美術館へ歩いて行った。
3km、35分くらい 

プランタンを出て歩いていたら、ネコを連れたホームレスに出くわした。
1ユーロあげて写真を撮らせてもらった。
 サントリニテ教会を見学しようとしたら、工事中で閉鎖・・・
美術館に着いたら、悪い予感、来年1月まで工事中で休館・・・・
せっかく、歩いて来たのに・・・

サン・トリニテ教会
サントトリニテ教会(Eglise de la Sainte-Trinite de Paris)
パリ9区にある教会。エスティエンヌ・ドルヴ広場、ブランシュ通りの始点、サンラザール通りとショセ=ダンタン通り(オペラ界隈から教会が見渡せる)に面する。
サントトリニテ(Sainte-Trinite)とは聖三位一体を意味する。
三位一体とはキリスト教において「父」と「子」と「聖霊(聖神)が「一体(唯一の神)」であるとする教え。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細

ギュスターヴ・モロー美術館(普通の家です)

工事中の表示
ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau, 1826年4月6日?1898年4月18日)
フランスの象徴主義の画家である。
パリに生まれパリで亡くなった。
聖書や神話に題材をとった幻想的な作風で知られる。
印象派の画家たちとほぼ同時代に活動したモローは、聖書やギリシャ神話をおもな題材とし、想像と幻想の世界をもっぱら描いた。
彼の作品は19世紀末のいわゆる『世紀末』の画家や文学者に多大な影響を与え、象徴主義の先駆者とされている。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 

サロメ 

左の絵を見たかったのに・・ 残念だ。
 シャンリゼ大通りのクリスマスマーケットを見るため、トリニテ駅から地下鉄に乗り、コンコルド駅で下車した。
 
コンコルド広場の大観覧車
 

地下鉄のコンコルド駅
以前にパリの地下鉄で夜に駅名を間違えて困ったことを思い出した。
ノートルダムの付く駅名が2つあるのだ、ノートルダム・デ・シャンとノートルダム・ド・ロレットだ。
間違えて降りて引き返し、ホテルに帰るのにかなり時間がかかった。
駅名を確かめないととんでもない目に遭うことになる。  
 
引用 Google Map
フランスに行ったらムール貝を食べるつもりだったので、レオンド・ブリュッセルというレストランに行くことした。
以前にサンマロのレストランで食べたムール貝が大変おいしかったのを思い出したからだ。

マドレーヌ寺院
寺院内でクリスマスの飾りをしているとインターネットに書かれていたが、なにもなかった。ちょっと残念。
マドレーヌ教会、通称マドレーヌ寺院 (フランス語:Eglise de la Madeleine)
フランスの首都・パリ8区にある聖女マグダラのマリアを守護聖人とするカトリック教会。
ブルボン朝末期に建設が開始され、フランス革命により中断。
後に建設が再開されるとナポレオン1世の命令でフランス軍戦没将兵顕彰に造営目的が変更され、1842年に完成。
このときにはナポレオンが失脚したあとなので、ルイ18世によってカトリック教会に用途が変更された。
このためその外観は、キリスト教の教会としてはかなり異例であるといえる。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
 
プチ・パレPetit ppalais(パリ市立美術館)
コンコルド広場からシャンリゼ通りのクリスマスマーケットを見ながら、凱旋門方向にぶらぶら歩く。

グラン・パレGrand Plais

グラン・パレGrand Plais
グラン・パレ(フランス語:Grand Palais)
フランスのパリ8区にある大規模な展覧会場・美術館。
1900年のパリ万博万国博覧会のために建てられた。
プティ・パレやアレクサンドル3世橋と同時期に建てられており、4人の建築家が設計に関わった。
正面のファサードはアンリ・ドゥグラン(Henri Deglane)、反対側のファサードはアルベール・トマ(Albert-Felix-Theophile Thomas)、内装と残りの二面はアルベール・ルヴェ(Albert Louvet)、そして全体の総監督としてシャルル・ジロー(Charles Girault)の4人である(4人とも「ローマ賞」を受賞している)。
この建築のファサードは初期のボザール建築の典型例とされ、メインの屋根は鉄とガラスで覆われている。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細

レンタル自転車
 シャンゼリゼ通りのクリスマスマーケット

マロン・シューmarron chaud 暖かい栗(焼き栗)

シュークルートchoucroute(ザウアークラウト)
   
ザワークラウト(Sauerkraut、ザウアークラウト、ザオアークラオトとも)
ドイツにおけるキャベツの漬物。
原義は「すっぱいキャベツ」。
この酸味は乳酸発酵によるもので、酢に漬け込むのではない。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細

大きな火で焼くバーベキュー

警戒中の警官、自動小銃を持っている

移動トイレ、助かります
 
ヴィン・シューVin chaud ホット・ワイン
 
 
シャンゼリゼのクリスマスマーケット動画
やっとレオンド・ブリュッセルのシャンゼリゼ店に着いた。
かなり歩いたので、少し足がだるくなった。
 
レオンド・ブリュッセルのシャンゼリゼ店 
ムール貝の料理で有名な ベルギー発祥のチェーン店で、パリ市内には9店舗あり。 

パン(注文しなくて付いてくる)とワイン注文したもの
 
パエリア風の鍋とフレンチフライ
横のアベック客の食べているのを見ておどろいた。
男性はパエリア用風の鍋料理、女性はワイン蒸しを食べて、さらに女性はステーキ、男性はさらに同じムール貝の入ったワイン蒸しを食べていた。
おそろしいほどよく食べる。
こっちは二人で鍋1つ+付け合わせのプレッチェルン、パン、フレンチポテト、デザートのアイスクリ-ムを食べて、おなかいっぱいだったのに・・・・・ 

付け出しのプレッチェルと貝殻入れの入れ物

食後のカプチーノ
プレッツェル(正しくはブレーツェル、ドイツ語 Brezel)
独特な結び目の形に作られているドイツ発祥の焼き菓子のひとつ。
小麦粉とイーストを原料とし、焼く前に数秒間水酸化ナトリウム水溶液(3-5%)につける。
焼ける間に空気中の二酸化炭素と反応して炭酸ナトリウムと水に変化し、表面が特徴的な茶色になる。
稀に炭酸水素ナトリウム水溶液にくぐらせることもある。
ドイツ語圏ではアルカリ溶液を意味する Lauge を付け加えて、Laugenbrezel ラウゲン・ブレーツェルとも呼ばれる。
焼き上げる前には岩塩の粒をまぶす。 
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
※『無印』のプレッチェルが塩味が効いておいしいです。
   
二人で24.7ユーロ
シャンゼリゼ通り(Les Champs-Elysees)
なお、"Les Champs-Elysees"とは、ギリシャ神話において有徳の人が死後に住む極楽浄土を意味するエリュシオン(英: the Elysium, the Elysian Fields)のことである。
そのため、シャンゼリゼ通りは、日本風に言うと「極楽浄土通り」または「極楽通り」ということになる。
引用【フリー百科事典Wikipedia】【詳細】 
 
引用 Google Map
レストランを出た頃から、雨が降り出した。
天気がずっとよかったが最終日で悪くなってきた。 
地下鉄のフランクリン・ルーズベルト駅から地下鉄に乗った。

ホームで待っていた男性が私がバッグを背中にしょっているのを見て胸の方にかけるようジェスチャーで注意してくれた。
それで、リュックを胸の方にかけて地下鉄に乗り込んだ。

地下鉄はかなりの混雑で、案の定スリがいて妻のバッグに手を突っ込んできた。
スリはまだ若い女で手をたたかれても素知らぬ顔で次の駅で降りていった。
乗客のおばさんが目配せをして注意するように合図してくれた。
こんなにスリが多いとは驚いた。

地下鉄切符売り場

自動改札
地下鉄の切符の自販機で切符を買おうとしたが、何人かがもたもたしているので買えない。
私たちと同じ、観光客らしい。
この自販機操作がしにくい、切符の種類を選ぶのに自販機正面のローラーを回転させて操作するが、初めてでは操作がしにくい。
私たちも断念し、売り場で買うことになった。
 
地下鉄の切符
モンパルナス駅で降りて地上に出たら、ホテルからかなり離れた出口に出てしまった。
雨が降っていて天気が悪くなってしまった。
最終日で天気が悪くなったが、この時期でこれだけ晴天が続いてラッキーだった。