マルタ島7日間
2011年6月1日(水) 2日目
2日目 6月1日(水) 0:25/空路、空の5つ星カタール航空にてドーハで乗り継ぎ、アテネへ。

12:45/着後、アテネ観光
◎【世界遺産】アクロポリスの丘
○シンタグマ広場
△国会議事堂
△第1回オリンピック競技場
【宿泊地:アテネ泊】
CANDIA
カンディア
ドーハ国際空港は前回来たときより、かなり拡張されている。
しかし、ターミナル直づけでなく、バス移動というのがよく分からない、不便だろうに・・・。
3時間の待ち時間があるので免税店をうろつく。
ドバイをモデルにしているとのことだが、規模はまだまだドバイには遠く及ばない。
免税店の規模も小さいし、レストランやコーヒーショップも少ない。

ドーハ国際空港、なんでバス移動させるのか・・・。

アテネへはQR472便、8:20発

空港内にモスクがある。アラブへ来たことがよく分かる

大の男同士が手をつないで歩いている
中東でよく見かける光景
日本人的な感覚ではホモと間違える

空港内のWiFi、無料だが速度はかなり遅い

宝くじのような方法で車が当たるらしい
しかし、当たっても日本までの輸送料はどのくらい??

ドーハ国際空港の免税店(動画)
出発 08:20 Doha, カタール 便名 QR 472
到着 13:00 Athens, アテネ E. Venizelos 使用機材 Airbus Industrie A321
所要時間4時間40分
3時間くらいはあっという間に過ぎてアテネへのQR472便に乗り込む。
あまりお腹は空いていなかったが軽食が出た。

アテネ行きQR472便

Doha International airport ドーハ国際空港(動画)

ドーハ国際空港のターミナルビル、少し地味なデザイン

QR472便の軽食
パンケーキとのことだがどう見てもクレープのようだが・・・

QR-0472便機内

エアバスA300-200よりかなり狭くなり、エコノミーは3・3シートの配列
関空から乗り継ぎ時間をいれて19時間30分でアテネ到着。
着いたらすぐにアテネ市内観光に向かう。

パンティアナ競技場

ゲオルギオス・アベロフGEORGION AVEROFの像
この競技場はギリシャの大金持ちアベロフ氏の寄付で古代パンティアナ・スタジアムがあった場所に1895年に作られた。
ジョージ・アベロフ George M. Averoff(1815〜1899)
 ギリシャ語では ゲオルギオス・アベロフという。
ギリシャのメツォヴォで生まれだが、若い頃からエジプトのアレキサンドリアに移り住んでいた。
1896年の第1回夏のオリンピックのパンティアナ競技場建設のため多大の資金援助(100万ドラクマ)を行った。
これはギリシャのコンスタンチン皇太子の要請によるものであった。
スタジアム建設に当初58万5千ドラクマの予定であったが最終的には92万ドラクマかかった。
彼の貢献を記念してパンティアナ・スタジアムの正面に彼の彫像が置かれている。
また、ギリシャ海軍にも資金(250万ゴールドフラン)を提供しており、ギリシャ海軍の巡洋艦に彼の名前がつけられている。

衛兵さん、背が高くイケメン
衛兵の服装はギリシャ伝統の男の服装で
●帽子
●プカサというブラウス
●フスタネスというスカート
●タイツは片方ずつに分かれている
●膝の部分に靴下止め
●靴はツアルファと言い、先端に大きなぼんぼりが付いている

国会議事堂

衛兵さんと記念撮影(サービスがいい)
国会議事堂はもともとは1830年、オスマン帝国から独立時にバイエルンから国王を迎えた際の王宮として造られたものである。
シンタグマ広場
 シンタグマ広場(gr:Plateia Syntagmatos)は、ギリシアの首都アテネの中心部にある有名な広場。
1844年ギリシア王国の憲法がここで発布された。
 シンタグマ(現代ギリシャ語においては正しくは「シンダグマ」と発音する)は、ギリシア語で「憲法」のこと。
今も国会議事堂がこの広場に面し、またこの広場の東側には、無名戦士の碑がある。
他にも官公庁や商業施設が多数この広場の周囲に集まり、観光客もこの広場を含むプラカ地区には、昼夜問わず集まってくる。
アテネ観光の重要ポイントといってもいいだろう。                 
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初代ギリシャ王 オットー1世
 オソン1世(またはオトン1世、オットー1世、原名オットー・フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ヴィッテルスバッハ、ドイツ語: Otto Friedrich Ludwig von Wittelsbach、1815年6月1日 - 1867年7月26日)は初代ギリシャ国王(在位:1833年2月6日 - 1862年10月23日)。
1832年にイギリス、フランス、ロシア間で結ばれたロンドン条約に基づき即位した。          
引用:フリー百科事典Wikipedia【詳細

左方向がシンタグマ広場、デモ隊のテント群があり、異様な光景だった

国立歴史博物館、英雄コロコトロニスの像
コロコトロニスはトルコからのギリシャ独立戦争で活躍した人物。
アクロポリスの丘
 アクロポリスとは、古代ギリシアのポリスのシンボルとなった小高い丘のこと。
アクロポリスは「高いところ、城市」を意味し、防壁で固められた自然の丘に神殿や砦が築かれているのが普通である。
 アテナイのアクロポリスは世界でもっともよく知られているアクロポリス(ギリシャ語:akros, akron+ polis,)である。
ギリシャには多数のアクロポリスがあるが、アテナイのアクロポリスは一般的に「アクロポリス」で通じる点に意義がある。
2007年3月26日、アクロポリスは正式にヨーロッパの文化遺産リストに卓越した遺産として発表された。
このアクロポリスはアテネの海抜150 m (490 ft)の平らな岩の上に立っており、3ヘクタールの面積がある。最初のアテナイの王ケクロプスにちなんだCecropiaという名でも知られていた。                
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Acropolis of Athens Greece Jun 1 ,2011

イロド・アティコス音楽堂
イロド・アティコス音楽堂Odeon of Heroides Atticus
  161年にローマのギリシャ系貴族のイロド=アティコスが彼の妻の思い出として建造し、アテネに寄贈した。

プロピレア(前門)

アクロポリスとは『丘の上の都市』という意味

@アグリッパの台座、Aピナコテク(絵画館)、Bプロピレア(前門)、Cアテナ・ニケ神殿
@アグリッパの台座
 この上に、アグリッパが戦車競技に優勝したのを記念して馬車に乗った自分の像を置いた。そのためこれをアグリッパの台座という。しかし、この台座はアグリッパが造ったものではなく、ペルガモン王エウメネス二世(BC2世紀)が自分の像を置くために造ったものである。
マルクス・ウィプサニウス・アグリッパMarcus Vipsanius Agrippa
 古代ローマの軍人、政治家でローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの腹心。
のちにアウグストゥスの娘婿となる。
ガイウス・ユリウス・カエサルに見出され、軍略の弱いアウグストゥスの補佐的役割を果たした。
また、パンテオンやポン・デュ・ガールなど多数の建築物を建造した。
引用:フリー百科事典Wikipedia【詳細
Aピナコテク(絵画館)
 トロイ戦争を主題とする絵などが飾られていたとのことである。休憩室として使われていたようである。
Bプロピレア(前門
 中央正面に6本のドーリア式円柱、左右に3本のイオニア式の柱が立てられている。オスマン・トルコ支配時代に軍が弾薬庫として使用し、1645年の落雷で大爆発をおこしたり、その後ヴェネツィアとの戦闘で破壊されてしまった。その後、20世紀の初めに現在の形に復元された。
Cアテナ・ニケ神殿
 ペルシア戦争での勝利を記念して建てられた。別名を翼無きニケ女神(ニケ・アプテロス)という。ニケは勝利の女神で、勝利をいつまでも残すため翼のあるニケの翼を取った像を祀った。
(※ニケはナイキと同じ)

パルテノン神殿(Parthenon)、こっちが正面

ドリア式石柱、柱は内側に少し傾けている
柱はよく見ると1本の石柱ではなく、何個かに分割したものをくっつけてある。
また柱は真ん中が少しふくらんでいる。これをエンタシス(entasis)という。
下から見ると柱が細く見えず、安定してまっすぐに見える。
日本の法隆寺にも使われている手法である。
神殿の東側(これが神殿の正面)の破風(左の画像)にはアテナ神誕生に関する神達の像があった。
しかし、18世紀末にイギリス人のエルギンがはがして持ち出した。
エルギンは当時の支配者トルコが許可したと言っている。
そのため破片しか現在は残っていない。本物は大英博物館にある。
※、破風(はふ)とは屋根下の三角形の部分を言う

復元図

ドリア式石柱(拡大)
パルテノン神殿Parthenon
 パルテノン神殿は、古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスの上にアテナイの守護神アテーナーを祀るため建設された。
紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完成した。
この神殿はギリシア古代建築であるドーリア式建造物で、装飾彫刻もギリシア美術の傑作である。
神殿はもともとアテーナーの神殿があり、紀元前480年のペルシア戦争にて破壊された後に再建された。
6世紀にはキリスト教の生神女マリヤ聖堂となり、オスマン帝国の占領後の1460年代初頭にはモスクになっていた。
1687年9月26日、オスマン帝国によって火薬庫として使用され、ヴェネツィア共和国の攻撃で爆発炎上し、神殿建築や彫刻などはひどい損傷を受けた。
1806年、オスマン帝国の了承を得て英国のエルギンが彫刻類を取り外して持ち去り、1816年にロンドンの大英博物館に売却した。
ギリシア政府はこれら彫刻の返却を求めている。
引用:フリー百科事典Wikipedia【詳細

アクロポリス遺跡

Parthenon in Athens Jun 1,2011
ドリア式柱(Doric)
柱頭に鉢形装飾
柱に溝があるだけのシンプル
イオニア式柱(Ionic)
柱頭に渦巻き飾り
コリント式Corinthian)
柱頭にアカンサスの葉飾りと渦巻き模様

アカンザス
アカンザスはアザミに似た形の葉で古代ギリシャ以来、建築物やその内装などの装飾のモチーフとして使われている

エレクティオン(Erectheion)

エレクティオンの少女像(カリアティアス)
エレクティオン(Erectheion)
 紀元前421年〜 紀元前407年頃に完成したと考えられる。
ギリシア神話の英雄エリクトニオスに捧げられたことからこの名がある。
アテナイの王エリクトニオス王を記念して名付けられたという説もある。
神殿は紀元前480年にペルシア戦争で破壊された後、再建されたものであるされている。
神殿はペンテリ山 (Penteli) から切り出された純白の大理石 (ペンテリコン、Pentelikon) が使われている。
 南側には「少女の玄関 (Porch of the Maidens)」があり、6体の少女の姿の柱像(カリアティード)がある。
彫像が玄関の屋根の重さを支えるように設計されている。
6体の像はすべて複製で1体は大英博物館、残り5体はアクロポリス博物館にある。
 引用:フリー百科事典Wikipedia【詳細

エレクティオン(Erectheion)

イオニア式石柱

リカビドスの丘

古代アゴラ、ここに見える神殿が一番保存状態が良い
夏時間の影響もあって午後5時近くでもかなり明るい。
例によってガイドお勧めの土産物屋に連れて行かれた。
口のうまい、日本人の女性店員がいて、買いそうな客にしっかりとくっついていた。(かなりのベテラン)
私には特に買うようなものなし。

連れて行かれた土産の屋
ちょっと時差ぼけ気味で眠たくなってきたが、夕食のレストランに向かう。
住宅街のど真ん中にある。
”ARESNIS”と看板にある、インターネットで検索したら出て来た。

スプラギ(串焼き)
日本の焼き鳥のほうがおいしい

サラダはオリーブオイルだけの味付け
野菜の切り方がニワトリのえさ様
せめてバルサミコ酢でもあればいいのが
塩と胡椒しか置いていない
日本からドレッシングを持参した方がいい。

夕食のタベルナ”ARSENIS”
ツアーでよく使われるタベルナのようです
タベルナはレストランより少し格が落ちるようです

ギリシャのビールミソス

ギリシャワイン
2009Cabernet
Sauvignon Syrah

これがギリシャの焼酎『ウゾOUZO』水を加えると白く濁る。トルコの”ラキ”とよく似ている。
向かいの人が飲んでいたお酒
Cabernet Sauvignon Syrahはカベルネ・ソーヴィニヨン種とシラー種からつくられたワインで比較的ポピュラーなワインなのだろう
ウゾはギリシャの大衆酒で日本の焼酎のようなもの。
ブドウを原料とした蒸留酒でアニスで香り付け、場合によってはウイキョウなども使われる。
アルコール度は40度〜50度とかなり高い。
エソプレッソ以外のコーヒーはまず飲まないほうがいいだろう。
かなりまずい、飲んでみると日本のコーヒーチェーン店のほうがかなり味がよいのが分かる
夕食が済んだ後、今夜のホテルに向かう。
ホテルは地下鉄赤ラインのメタクソギオ(Metaxourghio),シンタグマから2駅で市内中心部からは近い。
3つ星ホテル、まあ設備や部屋の状態からこの程度だろう。
きれいさでは日本のビジネスホテルのほうがはるかに上(部屋の広さを除けば)。

ホテル『カンディアCANDIA

メタクソギオ(Metaxourghio)
地下鉄駅の看板
このホテルのWiFiは無料だった。この点はサービスがよい。