イタリア2010
2010年1月30日(土)
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ソレントの”グランド・ホテル・ラパーチェ”正面

ホテルのロビー
今日は映画『アマルフィ女神の報酬』で有名なったアマルフィに向かった。
アマルフィ海岸の道路は狭いため一回り小さい観光バスに乗り換えた。
確かにすれ違いに困る箇所がかなりある。
冬場の閑散期にこの調子だから夏は大変だろう。
途中にポジターノがあり、展望台から眺めた。
天気が悪かったが海の青さはかなりのものだ。
 

展望台からポジターノの町

展望台の土産物屋(香辛料が多い)

ポジターノからエメラルドの洞窟への車窓からポジターノ方向
天気は風が強くなったり、突然、雨が降り出したり、海を見ると白波が立っており、エメラルドの洞窟見物は無理だった。
この天気では明日のカプリ島の『青の洞窟』見物は絶望的。
カプリ島見物のオプションは出かけるときから予約しなかった。(冬場の島は閑散期でほとんど店も閉まっていると聞いていたので。)

波が高くてエメラルドの洞窟に入れず

ポジターノはロケ地としても有名らしい

エメラルドの洞窟に入れず。アマルフィの駐車場に入る時間が
決まっているので時間調整のため土産物屋で1時間待つことになった

駐車場に入る時間が書かれた文書が
バスのフロントガラスに貼ってあった。
この土産物屋はマヨルカ焼きの陶器を売っていたが、日本の焼き物と違って図柄がどうも品がない印象だった。
13〜14世紀にスペインから輸入の陶器がマヨルカ島で積み替えられ、イタリアに輸入されていた。
それでマヨルカ島で焼かれた陶器と勘違いされ、マヨルカ焼きと呼ばれるようになった。
その後、イタリア各地で作られるようになった。
マヨルカ焼きは、身近な動物や植物をデザインしたものが描かれていおり、グリーンの色調が特徴である。
かなり厚手の陶器で丈夫で壊れにくいのが特徴である。

アマルフィの駐車場に入ったが、天気は最悪、強風、雨。と思ったらまた晴れ間が出てくる。
あまり寒くはないがとんでもない天候だったが、見るべき物は見れた。

これがアマルフィのパノラマ写真

ヘラクレスは妖精アマルフィと愛し合い仲良く暮らしていた。
突然、彼女が死んでしまい、それを嘆いたヘラクレスはこの世でもっとも美しい土地に彼女を埋葬した。
その土地を切り開いて町が作られ、彼女の名アマルフィが付けられた。


『アマルフィ女神の報酬』のラストの場面に出てくる海岸

桟橋の先端から撮影すると景色が良い
あるホームページによると『アマルフィ女神の報酬』に出てきた海岸はアマルフィではなくポジターノの海岸という記載があったが・・・。
アマルフィ公国またはアマルフィ共和国は、南イタリアのアマルフィを中心に9世紀から12世紀にかけて存在した海洋都市国家。ピサ、ジェノバ、ヴェネツィアなど、北部の都市国家が台頭するまでは、イタリアの商業の中心地として地中海貿易を支配していた。地中海貿易の先駆的存在であり、初めて海商法を整備した国でもあったことから、アマルフィの海商法は国家としてのアマルフィが衰退した後も1570年頃まで使われ続けた。

アマルフィの町は339年に設置された交易所を起源としている。元々は、東ローマ帝国系のナポリ公国に支配されていた地域であった。838年にランゴバルド人に占領されるが、翌年にランゴバルド人を追放すると、知事を選出して自治共和国としての形を整え始める。958年には元首を選出して公国となり、間もなく最盛期を迎える。

しかし11世紀に入ると、政権は次第に不安定になっていき、サレルノ公国からの介入を許すようになる。その後、1073年、ノルマン人のロベルト・イル・グイスカルドによって征服されると、アマルフィ公の地位も彼の息子に奪われ、独立を失う。1096年に反乱が起きるが、1101年に鎮圧される。1130年に再度反乱が起きるが、逆に1131年、ルッジェーロ2世によってシチリア王国に併合されることになる。1135年および1137年にはピサの攻撃を受け、以後は都市としてのアマルフィも急速に衰退していくことになる。
    引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ドーモ広場に入るポルタ門

ドーモの階段から広場を見る

右の半島の先の建物がアマルフィの塔
昼食に町の通りを狭い道を上っていく。
細い路地を登っていった所にmaccusというレストランがあった。
インターネットの評判ではアマルフィでは11番目に評判のいいレストランに挙がっていた。

昼食のレストランmarcus

パンが袋に入って出てきた。なにか意味があるのだろうか?
聞くのを忘れた。
リゾット(子供の時病気をしたとき食べさせられた
”おじや”思い出すので個人的にはあまり好きではない。)
メカジキのフライ

またまた出ましたオレンジケーキ

ドーモ

ドーモ上部拡大

下のブロンズ扉は1065年に取り付けられた
コンスタンチノープルで鋳造された

聖アンドレアはもと漁師だったので魚が描かれている

Pietro Capruano枢機卿(どんな人か分かりませんが)
聖アンドレアはイエスの弟子で洗礼者ヨハネの弟子でもある。
英語ではアンドリュー、フランス語でアンドレという
キリストの死後、小アジア、マケドニア、ロシアなどへの伝道を行い、最後はギリシャのパトラスで X型の十字架にかけられ殉教した。
それでX型の十字架(アンドレア十字)と漁師をしていたので魚が表象になっている。
漁師の守護聖人となっている。
スコットランドには有名なゴルフ場のセント・アンドリューズもこの聖人の名前を使っている。

ドーモ前から上の方に伸びる通り

アマルフィの守護聖人聖アンドレア
(Sant'Andrea Apostolo).

鐘楼

聖アンドレア

酒屋さん

天気が悪く、カフェに客なし

駐車場にある記念碑

記念碑の文章
ちょっと天気が悪かったのが残念だったが、今回の旅行の主目的のアマルフィが見物できた。
しかし、映画の撮影のうまいのには感心する。
やはり、プロはプロだ。
ソレントに向けバスを走らせた。
ソレントは『帰れソレント』で有名な港町だ。

ソレントのタッソ広場、晴れたりヒョウが降ったりと
目まぐるしく天気が変化した

寄せ木細工の店

レント名物、寄せ木細工
この店の職人さんで御主人はNHKのイタリア語講座で紹介されていました。
NHKのテキスト(ジローラモさんが出ていた頃)を見せてくれました


昨日夕食に行こうとして分からなかったレストラン『il Buco』
今日は市内のスーパーでパンと生ハムを買ってホテルにもどって食べることにした。
『STANDA』というスーパーがあった。このスーパーはチェーン店らしく他の所でもみかけた。

スーパー『STANDA』

ソレントの守護聖人サンアントニオ(夜のタッソ広場

リモンチェッロ
リモンチェッロ (Limoncello)
 イタリアを起源とするレモンを用いたリキュール。リモンチーノ(Limoncino) などとも呼ばれる。
カンパーニア州のナポリ湾周辺(島嶼部含む)のカプリ島、ソレント半島、アマルフィ海岸の一帯が産地として有名。糖度の高い果実酒。レモンの果皮を純アルコールに浸漬した後取り出し、砂糖水を加えて1週間?1ヶ月ほど置く製法が一般的である。
 もともとはソレントを中心とした地域で、各家庭ごとに庭で生ったレモンを使って作られ愛飲されてきた食後酒だったが、当地をバカンスで訪れる観光客によってイタリア全土からヨーロッパに広められ、現在では世界的に知られるイタリアの名産品のひとつとなった。最近では日本での入手も容易である。レモンの香りが印象的で口当たりはよいが、度数は30%以上ある。冷蔵庫や冷凍庫(凍結はしない)などでよく冷やし、食後酒としてストレートで飲むのが一般的な飲み方。
 現在でもレモンを生産する南イタリアの多くの地域で作られ、カンパーニア産以外では特にシチリア産が知られるが、品質的には芳醇な香りが特長のカンパーニア産のレモンを使ったものが最高とされる。
 乳成分の入った、クレーマ・ディ・リモンチェッロ (Crema di Limoncello) もある。こちらは一般的なリモンチェッロに比べ、アルコール度数が若干低い。
    引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スーパーでナポリ周辺で有名な酒、リモンチェッロを売っていたので土産に買って帰った。

映画館ではアバターを上映していた

ソレントのタクシーにはカーナビがあった
帰りは暗くなってしまったのでタクシーで帰ったが、ホテルまで18ユーロだった。買い込んだ食料費より高くなってしまった。
ソレントのタクシー代はかなり高い。
6〜7人乗れるのでその人数くらいで乗らないとかなり割高だ。
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