イタリア2010
2010年1月31日(日)
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今日はオプションのカプリ島観光の日だが早朝から雨が降って風が 強い。
最初から冬場のカプリ島観光は無理と思っていたので止めることにしていた。
終日、ソレント市内を観光することにしていた。
9時過ぎには雨も止み、晴れ間が見えてきた。
ホテルから歩いて市内に向かった。30分くらいかかった。
市内のホテルは休業中のところが多かった。やはり、シーズンオフなのだ。
しかし、その分観光客が少なくゆっくり観光できる。
外路にオレンジの木が植えられていて、オレンジの実の黄色がきれい。

ホテル屋上から海岸方向

ホテル屋上
イタリアではゆで卵を冷凍するのか?
 朝食でゆで卵が置いてあったのだが、このゆで卵を割ったら、水が出てきて卵の白身がしわしわで層状になっている。
他の人の卵も割ったらまったく同じ状態だった。
気持ちが悪いので食べるのを止めた。
どうも、このゆで卵はゆでた後、冷凍したのではないだろうか?
ちょっとこれはいただけない。

ホテル正面

街路樹のオレンジコルソ通り

ガソリンの値段は1L1.29〜1.39ユーロ(160円〜180円)、かなり日本より高い

広場の名前の由来のタッソの銅像

タッソというレストランの看板
トルクァート・タッソTorquato Tasso, 1544 - 1595)
イタリアの叙事詩人。
ソレントに生まれる。父ベルナルド(Bernardo Tasso, 1493年 - 1569年)も詩人であった。パドヴァ大学で法律を学んだがやがてこれを断念し、1562年に叙事詩『リナルド』(Rinardo )を出版。
フェラーラの枢機卿ルイジ・デステに仕え、1573年に牧歌劇『アミンタ』(Aminta )および叙事詩の傑作『解放されたエルサレム(La Gerusalemme liberata, 1575年)を書いた。ルイジに従い1571年にフランスに赴き、詩人ロンサールに会う。
帰国後エステ家のフェラーラ公アルフォンソ2世に仕え厚遇される。このころ大いに名声を博し、多くの模倣者を出した。公の妹レオノーラを恋し多くのソネットを捧げている。しかし『解放されたエルサレム』の内容が異端と見られることを恐れ、一部を書き改めたが、そのことを心痛し精神に異常を来し、公によって1577年に幽閉された。一度脱出したが再び聖アンナ病院に収容され、7年間を過ごした(1579年 - 1586年)。
退院後ゴンザーガ家のマントヴァ公ヴィンチェンツォのもとに赴いたが、さらに流浪を続け詩作した。
晩年、教皇クレメンス8世が彼を桂冠詩人に叙せんとしてローマに招聘したが、それに先だってローマの聖オノフリオ修道院で没する。その数奇な生涯はゲーテをはじめとして多くの作家の題材とされた

        引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


昼間のタッソ広場
聖アントニオは1195年ポルトガルのリスボンで生まれた。アシジの修道院に入っり、た。巡回説教師としてイタイア、フランスを巡った。1231年過労のため36才の若さで死去した。パドアの聖堂墓では多くの奇跡が起こったと言われる。婚姻の神様とされている。

聖アントニオ
アメリカの都市、サンアントニオはこの人の名前にちなんだものだろう

タッソ広場

昨夜乗ったのと同じタクシー(タッソ広場)

タッソ広場から海岸を望む

ソレントの港、海の向こうに見えるのがベスビオ山

テッラノーヴァ博物館(Museo Correale Terranova)
テッラノーヴァ博物館というのが本に書いてあったので行ってみた。
まだ、開館時間でないらしく扉が閉まっていた。
少し、時間をつぶして行ってみたら、門を開け始めていた。
誰も待っていない、貸し切り状態だ。
2階部分が改装中とのことで料金を半額にしてくれた。
古代ギリシャやローマの発掘品なども展示している。

アンティークの寄せ木細工
テッラノーヴァ博物館

メドゥーサ?
テッラノーヴァ博物館
これといって目玉になるものはないようだった。

博物館の中

カフェで食べた昼食(安かった)ケーキ2つ、ピザ、カプチーノ2杯

ソレントで見かけたネコ

カフェ内部
帰れソレントへ(ナポリ語:Torna a Surriento)
ソレントに捧げられた代表的なナポリ民謡(カンツォーネ)の1つである。
この曲は1902年9月15日にソレントを訪れた、時の首相ジュゼッペ・ザナルデッリのために作曲された。
市長は賓客のための曲を、ジャンバッティスタ・デ・クルティス(作詞)とエルネスト・デ・クルティス(作曲)の兄弟に要請した。 この曲後に(1961年)エルヴィス・プレスリーが「サレンダー」と言うタイトルで英詩で歌ってアメリカでもNo1を獲得するヒットとなった。
なお、その他に「サンタ・ルチア」が「カンツォーネ」として挙げられている。
「サンタ・ルチア」とは、ナポリの船乗りたちの守護聖女を表しており、港の名前にも指定されている。
      フリー引用:百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ソレント駅
駅前にジャン・バッティスタ・クルティス像

ジャンバッティスタ・デ・クルティスの像
『帰れソレントへ』の作詞者

セディル・ドミノーヴァSedil Dominova

セディル・ドミノーヴァSedil Dominovaの壁画

夜のセディル・ドミノーヴァSedil Dominova
セディル・ドミノーヴァSedil Dominovaはアンジュー王朝以来、町を管轄していた機関で、14〜15世紀に建てられた。正方形の開廊、クーポラには18世紀のフレスコ画が描かれている。

日曜日のコルソ通り

コルソ通り(日曜は歩行者天国)

ソレントのドーモ

教会の壁は寄せ木細工で作られている
ソレントは寄せ木細工で有名である。
イタリア語ではインタルシオ(intarsio)と言う。、象嵌や寄木細工技法である。これは楓、梨などの木材を、薄く桂剥きして切り刻み、木目や色違いを使っててモザイク風に貼りあわたものを違った木材にはめ込む技法。
日本でも箱根のみやげで有名、箱根での製作過程を見ると飾り寿司のように模様の違う木を束ねてデザインし接着する。
それをカンナで薄く剥いでいってそれを違う木に貼り付けていた。
少し、象眼とは違うようだ。
石を使ってやる象眼細工はピエトラ・デュラ(Pietra-dura)と言われ、別名フローレンス・モザイクとも言われ、フィレンツェにこの博物館がある。
インド・アグラのタージマハルなどでも見ることが出来る。

教会の鐘楼

町の家の壁のレリーフ

コルソ通り
午後2時にタッソ広場に集合してバスに乗り込みローマに向かった。
やはり、カプリ島オプショナルツアーは海が荒れていて中止でポンペイの近くの遺跡見学になったとのこと。
午後なら観光可能とのことだった。
やはり、青の洞窟は2日間くらいの余裕をもたないとだめなようだ。

ソレントからローマへの車窓から

ローマへ向かう途中に立ち寄った土産物屋

ここでもワインの『キリストの涙』が並べられていた
La'crymaはラテン語で涙を意味するlachrymaからきており、La'cryma Christi="キリストの涙"である(ただし、正確にはラテン語で涙を表す単語はlacrymae、すなわち複数形しか持たない語であり、lachrymaという語形は存在しない)。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
大昔、大天使サターンは神によって天国から追放された。
その時、天国の土地を一部持ち去ったが、途中で盗んだ土地を落としてしまった。
その場所にナポリの街ができた。
しかし、その後、ナポリの住民は悪徳の限りを尽くしたため、ナポリは悲惨な状態になった。
天上からそれを眺めていたキリストは、あまりの悲惨さに涙を流した。
その涙が落ちたところからぶどうの木が生えて、そのぶどうから素晴らしいワインが生まれた。
この伝説が、「ラクリマクリスティ」の名前の由来となっている。
19世紀にナポリに来たゲーテは「ラクリマクリスティ」を飲み、なぜキリストはドイツで涙を流さなかったのかと嘆いた。
ローマへバスが到着したらもう8時くらいで暗くなっていた。
ホテルに向かう前に市内で夕食となった。

GATTOはイタリア語でネコという意味

肉とジャガイモの煮込み(日本の肉じゃが風)

『ネコとキツネの庭(Al Giardino del Gatto E La volpe)』というレストラン

何か分からないデザート
ネコとキツネとピノキオは有名な童話。
しかし、ネコがノキオをだます悪役はかわいそう。

シェラトンホテルにいたネコ

自動扉の前に立って開けてもらうのを待っていた
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