イタリア2010
2010年2月1日(月)
前へ Top 次へ
今日はバチカンのツアー、オプションではないので参加した。
さすがに時間がないので超特急の見学、ゆっくり見れるのはシスティーナ礼拝堂くらい
大聖堂はもう3回くらい見たので足早にパス
『天使と悪魔では』この大聖堂が出てくるがセットのとのこと。

シェラトン・ゴルフ・パルコディ・メディチ(名前が長すぎる)

朝食、相変わらず同じスタイル(旅行代金の差がここに出る?)

松ぼっくり(ピーニャ)(ロマ時代の噴水)

ピーニャの中庭の地球儀?、回すと動く

バチカン博物館の前で交通整理中の警官

大聖堂のクーポラミケランジェロのデザイン

バチカンの衛兵スイス人)、『悪魔と天使』で殺される警備隊長もスイス人

1975年に撮影したシスティーナ礼拝堂の『最後の審判』
まだ汚れを取っていない時期なので薄汚れていて室内の照明も暗かった

システィーナ礼拝堂のポスター『最後の審判』

天蓋(バルダッキーノ)ベルニーニ作

バチカン美術館



ケランジェロの
ピエタ像
ベルニーニの作品と比べ動きがないと言われる

オベリスク(サンピエトロ広場)
37年にエジプトから持ってきた物でカリグラ帝が競技場に建てていた。
それを16世紀末にここに移設した。

オベリスクの下にプレセビオが展示されていた。
クリスマスが終わっても2月末まで展示されるそうだ

この位置からは柱は2本ずつ見えるが・・・→

この位置から見ると柱は1本に見える柱の上には140体の聖人像
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini,1598-1680)
バロックの時期を代表するイタリアの彫刻家、建築家、画家。「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛されたバロック芸術の巨匠である。古代遺跡が残る古き都ローマは彼の手によって、壮大なスケール、絢爛豪華な装飾にあふれる美の都に変貌していった。人々は彼の作品を「芸術の奇跡」と絶賛した。
      引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

回廊の4本の柱が1本に見える場所

サンピエトロ大聖堂

ファザードの建造を指揮したパウルス5世の名が刻まれている
建築家マデルノが建造した
カルロ・マデルノ(1556 - 1629)
イタリアの建築家。叔父のドメニコ・フォンタナのもとで修業した後,サンタ・スザンナ教会(ローマ)のファサード制作で有名になった。サン・ピエトロ大聖堂の造営主任となり,ファサードを完成させた。
彼は既存の建築物の改造が主であったが、唯一彼が設計し完成させたのはサンタマリア・デッラ・ビットリア教会である。

バチカンの警官

かっこのいい白バイ警官
イタリア人の男性は着こなし上手、ブランドものでもなくてもダンディに見える。
バスの運転手さんもマフラーを粋に巻いていてなかなかダンディ。
イタリア人はパンツまでアイロンをかけてピシシッと決めるそうだ。

サンタンジェロ城は歌劇『トスカ』でも有名
『アマルフィ女神の報酬』でも登場する

サンタンジェロ橋

サンタンジェロ橋

トスカ
1899年のピアノスコアにつけられた
アドルフ・ホーヘンシュタインによる挿絵)
引用;Wikipediaより

サンタンジェロ(聖天使)

ベルニーニ作の天使の像
オリジナルはS.アンドレア・デル・フラッテ教会にある

マルコ・ミンゲッティの銅像
Marco Minghetti ( 1818 –, 1886)
イタリアはイタリアの経済学者で政治家

ベルサリエーリ(狙撃兵師団)
狙撃兵連隊はサルディニア王国の軽歩兵連隊を起源としている。
第一次世界大戦時に活躍し、第二次世界大戦開戦時に は
12個連隊が編成された。

帽子やヘルメットに取り付けられた羽根が部隊の特徴。
午後からはスペイン広場、トレビの泉見学なのでパスすることにし、自由行動にしてもらった。
ただし、昼食は中華料理なので食べてから行くことにした。
中華料理にはずれはない、野菜が多いので助かる。

昼食の中華料理店

酢豚

野菜炒め

トマトのスープ、これははじめて

エビチリソース
午後からはトレステベレ地区のサンフランシスコ・ア・リーパ(S.Francesco a Ripa)教会に向かった。
バスでアルゼンチナまで行ってトラムに乗れということだったが分からず、バスから降りて徒歩で向かった。
この教会にはベルルーニの傑作、ルドヴィーカ・アルベルトーニ像の『恍惚』というのがある。
『天使と悪魔で』で登場したので見に行くとこにしていた。

アベックの観光客が待っていた

トレステベレ地区
教会の前に着いたが開館時間になっても開く気配がない。
観光客の男女が待っていた。
教会の前で女性がひざまづいてお祈りしていた。
近づくとすごい剣幕で大声をあげる。
先に待っていた人と慌てて少し離れたところで待つことにした。
1台の車が停車し、買い物袋を持った男性が現れ、教会横の建物に入っていった。
開館時間になっても扉が開かない。
ほどなく、教会のドアが開いて先ほどの男性が現れた。
教会の牧師さんだった。買い物に行って遅れて帰ってきたので開館が遅れたのだ。

福者ルドビカ・アルベルトーニ(Blessed Ludovica Albertoni)
ちょっとエロチック、これが原因でバチカンから外されたとのこと。
ルドビカ アルベルトーニ
キリスト教では神から祝福された人物とされており、彼女の祭日は1月31日である。
彼女はまたルイザ・アルベルトーニとしても知られている。
彼女は裕福で有名な一族の生まれでジャコモ・チタラと結婚した。
3人の子の母親であったが、1506年未亡人となった。
第三期フランシスコ修道会の一員として貧者救済のために彼女の生涯をささげた。
宗教的エクスタシーで有名にり、空中浮遊の才能持っていて奇跡の人として知られるようになった。
彼女は1533年1月31日に亡くなり、1671年1月28日法王クレメント10世によって福者に加えられた。
ローマのサンフランシスコ・ア・リーパ教会に置かれている彼女の彫刻がベルニーニの一番の傑作として知られている。
横たわった彼女の彫像は死の苦悶の中に神に祝福されたルドビカを表現したものである。
宗教的エクスタシーの輝きに耐えているだけではなく、彼女が神との合体を待ち受けている状態を表現している。
ベルニーニの作品の中で描かれているように彼女がキリストとの合体(結婚)を経験したと信じられている。
                      引用:英語版 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この『福者ルドビカ・アルベルトーニ』の彫刻は『天使と悪魔』の映画でも登場したが,映画では偽物丸わかりだった
トレステベレはBC2世紀頃ローマの戦争捕虜として連れ来られたユダヤ人が住んだところで当時は湿地帯で居住環境の悪いところだった。
さらに70年にローマのエルサレム攻略でさらに多数のユダヤ人がこの地域に捕虜として連れてこられた。
この地域は古代ローマのユダヤ人のゲットーのような地域だった。
ローマのユダヤ人が解放されるのはイタリア統一がなされてからだった。
イタリア統一後のローマには各地から多くの人が流入したので生粋のローマ人はこの地域の人たちということになる。
下町的雰囲気を残している地域ということになる。
しかし、なんとなく治安が悪そうな印象をうけるところだ。

トラム8番 Argentina駅

トレステベレ地区は少し汚い
夕食はオプションのカンツオーネディナーを予約していた。
(これはやめとけばよかった。まったく期待はずれ・・・・)
集合場所はローマ三越となっていた。
少し、早く着いたのでこの近くにあるサンタ・マリア・デッラ・ビットリア(S. Maria della Vittoria)教会に行ってみた。
ここにもベルニーニの彫刻があり、映画の『天使と悪魔』んじ登場した。

サンタ・マリア・デッラ・ビットリア(S. Maria della Vittoria)教会

 ベルニーニの「聖テレーザの法悦」”Ecstasy of St. Theresa"

服のひだが石とは思えない
『聖テレジアの法悦』はジャン・ロレンツォ・ベルニーニのバロック彫刻の最高傑作。
『聖テレジアの法悦』は、聖女が夢の中で天使に自分の心臓を矢で射抜かれる。
しかし、射抜かれた激しい痛みはあるが、神の愛撫によって恍惚を感じ、魂が体から抜け出すというものである。
バスで夕食(これはオプション)のレストランに向かったが、普通のレストランだった。
ステージはなくギターとアコーディオンの2人が歌を歌うだけ
これではまるで酒場の流しの芸人・・・(インターネットで見たのはちゃんとステージでやっていた)
ちょっと拍子抜けのカンツォーネだった。
正直な感想を言えばホテルのレストランでフレンチでも食べれば良かった。
これから行かれる方はどんな内容か聞いてからオプションを申し込んだ方がよいと思います

パンの上にジャガイモのスライス?(どんなのか忘れた)

日本でもお馴染みのペンネ、肉料理も出たが撮すのを忘れた

こんな感じのカンッオーネ『オーソレ・ミオ』でした。(ちょっとしょぼい)
イタリア語で「私の太陽」という意味
オーは感嘆詞
ソレが「太陽」
ミオが「私の」
好きな人に向けて「私の太陽」と呼びかけている。

夜の共和国広場
前へ Top 次へ