5月23日(木)ペルージャへ |
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ペルージャの位置 Google Mapより |
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朝起きたら、曇っている、思ったより涼しい。 念のためコートを持ってきて良かった。 切符売り場が混んで待つのがいやなので食事前にサンタ・ノベラ駅に行って切符を購入した。 さすがに7時前では待っていたのは1人だけだった。 最近では駅の窓口より駅の構内の自動券売機で買っている人が多いようだが、 私には使い方がよく分からない.。 |
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2等(classe2) 13.55ユーロ |
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REGIONALE(日本の普通列車)で片道13.55ユーロ、時間帯によって運賃が違うようだ。 8:32発のFOLIGNO行きのがら空きの列車でペルージャに向け出発。 しかし、座席はまあまあきれいだが、窓はまったく清掃されていない。 日本の通勤列車のほうがはるかにきれい。 |
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ペルージャに着いたが、雨が降っていた。土砂降りというわけではないが、傘が必要であった。 新交通システムのミニメトロで旧市街に行くことにした。 ホームにミニメトロの案内板がかかっていたが、行くときに気がつかず駅を出てしまい、遠回りしてしまった。 |
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車輪の通るところにケーブルが見える。 スキー上のリフトのようなシステムで車体を引っ張っているようだ。 終点のPincetto駅の一つ手前からトンネルに入っていく、たしかに地下鉄だ。 |
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ペルージャへ動画 No.1 |
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ペルージャを一躍有名にしたのは、日本サッカーで活躍した中田英寿選手が、 ペルージャの「セリエA」のチームに移籍したことからだ。 2001年にもここに行ったのだが、車を止めるところが無くて町の入り口で引き返してしまった。 |
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エレベーターを上がったところから見える景色、左手が旧市街 |
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カテドラル前の大噴水 Fontana Maggiore 1275年ころの作 | |||||||
1275年頃にベヴィニャーテ(F.Bevignate)が設計し、 ニコラ・ピサーノ(Nicola Pisano)とジョヴァンニ・ピサーノ(Giovanni Pisano)親子が装飾部分を作った。 ペルージアのシンボルである。 |
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ジョヴァンニ・ピサーノGiovanni Pisano,(1250年頃 - 1315年頃) イタリアの彫刻家、画家、建築家。 父親は有名な彫刻家のニコラ・ピサーノで、ジョヴァンニは父親の工房で修行を積んだ。 1265年から1268年にかけて、ジョヴァンニは父とともにシエナ大聖堂の説教壇を制作した。 次に父親と手がけた大作は、ペルージャのフォンターナ・マッジョーレの大噴水だった 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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大聖堂Catedrale di San Lorenzo 14世紀中期ゴシック様式で建設を開始し、 15世紀に完成したペルージャにおける最初のルネッサンス建築。 完成まで約150年かかっている。 |
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大聖堂とロッジア |
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正面に見えるアーチはフォルテブラッチョのロッジアLogga di B. Fortebraccioで15世紀頃に作られた。 この広場を11月4日広場Piazza W Novembreという。 また、グランデ広場とも言う。 11月4日は1918年の第1次世界大戦の勝利を記念した日。 |
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恩寵(おんちょう) ラテン語: Gratia, 英語: the divine grace、すなわち神の人間に対する働きかけ、 神の人類に対する慈愛を意味する概念につき扱う。恩恵・聖寵・神の恵み・恵みとも表記される。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 プリオーリ宮(Palazzo dei Priori) プリオーリとは自治都市の時代の最高指導者たちのことである。 13〜15世紀頃にゴシック様式で建設された公共建築物である。 11月4日広場に面した入り口の階段の上には左右にグリフィンとグエルフィのライオンが飾られている。 もう一方の中央入口の扉上部の半円形の中には、3人の守護聖人の像がならんでいる。 内部には、奥行き27m、幅14mもの大広間「公証人の間」がある。 天井はカヴァッリーニ派のフレスコ画で装飾され、中世の豪華な集会所を見せてくれる。 また精巧な寄せ木細工で飾られた15世紀ころの「商人組合」も見ることができる。 |
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公証人の間 (Sala dei Notari) プリオーリ宮の内部にあり、天井にはカヴァッリーニ派によって 14世紀に描かれたフレスコ画(題材は旧約・新約聖書によるもの)がある ピエトロ・カヴァリーニPietro Cavallini(1250年頃 - 1330年頃) 中世イタリアの画家、モザイク作家。 経歴は殆ど知られていないが、「pictor romanus」という署名からローマ出身と思われる。 ピエトロ・カヴァッリーニとも表記する。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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アーチに支えられた、奥行き27m幅14mの広間で、 天井は旧約・新約聖書を主題にしたフレスコ画で飾られている。(14世頃の作) 壁には1499年までの歴代執政長官の紋章が描かれている。 |
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雨が降ったり,、止んだりなので雨宿りのつもりでウンブリア美術館に入った。 国立ウンブリア美術館Galleria Nazionale dell' Umbria ルージア大学(1308年設立)の中に1863年に創設されたが、 1879年にプリオーリ宮に移転し、1918年には国立となった。 ペルジーノ、ピントゥリッキオを始めとする13世紀から18世紀にかけてのウンブリア派の絵画が展示されている。 入ってすぐの所は、同じような主題の祭壇画が並んでいるので少し飽きてしまう。 ここの部分はさっと流し見して、後半の部分を時間をかけて見た方がよいだろう。 |
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ペルージャの3人の守護聖人の像 San Costanzo(サン・コスタンッオ)、San Ercorano(サン・エルコラーノ)、San Pietro(サン・ピエトロ)が3守護聖人 |
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マリアがキリストを抱いて白百合(マリアの純粋と純血を表す)を持ち、 右手に聖書を持って読んでいる。 マリアの横に聖ヨハネと聖ローレンスが立っている。 左下のひげをたくわえ、杖をついている老人が聖オノフリオ、 右下はペルージャの司教バヌッチ・ヤコボ。 聖オノフリオ 3〜4世紀、ローマでキリスト教が支配的になった時代の人で、法学と哲学を学び、 その後エジプトのテーベで僧侶になった。 仙人になるため砂漠を放浪していたとき、17日目に葉のふんどしをつけ、 髪に覆われた異形の者に遭遇し、びっくりして山に逃げ込んだ。 この異形の者は『神の人よ、私と一緒に山を下りよう。 私も神の愛のために砂漠に住んでいる人間だ』と彼に呼びかけた。 異形の者は彼自身の姿だった。 聖ローレンス 258年にローマ皇帝ウァレリアヌスの迫害で殉教した人で、風の守護聖人となっている。、 |
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ルカ・シニョレッリ(Luca Signorelli, 1445年/1450年頃 - 1523年) ルネサンス期のイタリアの画家。 コルトーナの出身で、師はピエロ・デラ・フランチェスカであるとされるが、 画風は師の理知的で静けさに満ちた作風とは異なり、 ダイナミックな線描と正確な人体表現が特色である。 ボッティチェリ、ペルジーノらとともに、バチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画装飾に携わっており、 当代一流の画家とみなされていたことがわかる。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 バルトロメオ・.カポラーリBartolomeo Caporali バルトロメオは、1420年ペルージャで生まれた。ペルージャで活躍した細密画家。 カポラーリは彼の若い頃の軍隊での階級に由来するものである。 |
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ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ (Duccio di Buoninsegna, 1255/1260年頃 - 1319年頃) ゴシック期のイタリアの画家。 13世紀末〜14世紀初頭にシエナで活動した。 その様式はビザンティン絵画を基盤としながらも、人間描写や空間把握は現実感を増している。 チマブーエ、ジョットとともにゴシックとルネサンスの橋渡しをした、 西洋絵画史上重要な画家の一人である。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(Gentile da Fabriano、 1360年/1370年頃 - 1427年) イタリア、ゴシック期にイタリアのファブリアーノで生まれ、イタリア各地で活躍した画家。 国際ゴシック様式を代表する画家の一人とされる。 ゴシックの時代の末期にあたる14世紀以降、シエナ派の活躍から、 ヨーロッパ各国の宮廷やアヴィニョン教皇庁を中心に、 共通した様式の絵画が流行するようになり、 「国際ゴシック様式」と呼ばれる。 ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノは、その代表画家の一人で、 イタリア絵画の伝統と、細密な写実表現を特色とするフランドルなど 北方絵画の影響を受けた作品を残した。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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フラ・アンジェリコまたはベアート・アンジェリコ(1390年 / 1395年頃 - 1455年) 初期ルネサンス期のイタリア人画家。 本名はグイード・ディ・ピエトロ (Guido di Pietro) で、 フラ・アンジェリコは「修道士アンジェリコ」を意味する通称であり、 「アンジェリコ」は「天使のような人物」という意味である。 同時代の人々からは「フィエーゾレの修道士ジョヴァンニ」を意味する フラ・ジョヴァンニ・ダ・フィエーゾレという名前でも知られていた。 イタリアでは存命時に「福者アンジェリコ」を意味するベアート・アンジェリコとも呼ばれており、 これはフラ・アンジェリコが宗教的モチーフを題材とした絵画を描く才能に優れていたことに由来していた。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 ピエロ・デラ・フランチェスカまたはピエロ・デッラ・フランチェスカ( 1412年 - 1492年) イタリアルネサンス期の画家。 イタリア中部トスカーナ州のアレッツォ近郊の山間の町、 ボルゴ・サンセポルクロに靴職人の子として生まれる。 サンセポルクロの地方画家アントーニオ・ダンギアーリのもとで1430年代までに徒弟修業を終え、 その後しばらくダンギアーリの助手ないし協力者としてサンセポルクロとその近在で仕事をした 。 1439年ごろフィレンツェに行き、フィレンツェ派の巨匠、ドメニコ・ヴェネツィアーノに師事、 或は、その協力者として仕事をした。 イタリア各地で制作しているが、生涯のかなりの部分を郷里とその周辺で過ごしている。 数学や幾何学に打ち込んだ最初期の画家の一人であり、 美術史上最も徹底してその研究に打ち込んだ人物である。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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マギとはキリストの誕生を祝福しに来た東方の三博士のことを言う。 マギ(ラテン語: magi 複数形、単数形(magus)は、 本来、メディア王国で宗教儀礼をつかさどっていたペルシア系祭司階級の呼称。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 ウンブリア美術館を出た頃には雨が上がってきた。 近くで軽食をとることにした。 ピザの切り売りの店に人が並んでいたのでそこで買って食べた。 切断をイタリア語でtaglioという。 PIZZA AL TAGLIOは切り売りピザ屋さんのこと。 |
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プリオーリ通りを通ってサン・ベルナルディーノ教会へ。 途中にアッピア通り、シーリの塔がある。 |
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聖ルカのアーチをくぐってさらに行くと、サン・ベルナルディーノ教会 San Bernardiが見えてくる。 教会のファザードはA.ディ・ドウッチョAgostino di Duccioによるルネサンス様式で作られている。 アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョAgostino di Duccio 1418‐81 イタリアの彫刻家。フィレンツェ生れ。 1433年以降生地を離れる。 1442年,モデナ大聖堂の祭壇浮彫を制作。 その後フィレンツェに戻るが窃盗の嫌疑を受けて北イタリアに出奔。 リミニでテンピオ・マラテスティアーノの装飾に従事(1449ころ‐57ころ)。 これは,傭兵隊長で学者であったリミニの君主マラテスタSigismondo Malatesta(1417‐68)が 自分と愛人イゾッタIsotta degli Attiを記念するためにアルベルティに設計させた建物で, アゴスティーノは大理石の内壁に,キリスト教信仰に対する マラテスタの懐疑と異教趣味を物語る多様な主題を, きわめて薄肉の浅浮彫で表した。 引用:コトバンクより |
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聖ベルナルディーノ Berunardino 1380-1444 ピサの近くにあるマッサ・ディ・カッラーラに生まれ、 シエナに伝染病が流行した時にシエナの病院で病人の救済に尽力した。 1402年にフランシスコ会に入り修道士となる。 彼は説教をする際「イエス」のギリシャ語を短くした「IHS」という札を使い、神の象徴とした。 ナポリに向かう途中アクィラ・デリ・アブルッツィで亡くなり、聖人となった。 ※Wikipediaではラテン語のIesus Hominum Salvator (救いの人イエス)の略称としている。 |
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聖ベルナルディーノの奇跡のレリーフ
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ペルージャ動画 No.2 |
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県庁舎の方に向けて歩いて行った。 県庁舎のある辺りがペルージャの町の端になり、 そこから道路かエスカレータでペルージャ駅につながっている。 県庁舎の裏側が公園と展望台になっておりペルージャ駅方向が見渡せる。 |
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ロッカ・パオリーナRocca paolina 1540年、教皇パウルス3世が建設させ城塞の地下にあたり、 40年ほど前に発見されたとのことだ。 県庁Palazzo del Governoの地下にあるので行ってみた。 NHKのイタリア語講座の時の映像では本屋さんがあったが、 現在はなにもなし、がらんとしていた。 人気が少なくて少し気味が悪い。 そのためか案内の女性が居た。 |
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ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世Vittorio Emanuele II di Savoia、1820年3月14日 - 1878年1月9日 サルデーニャ王国の最後の国王(在位:1849年 - 1861年)、 のちイタリア王国の初代国王(在位:1861年 - 1878年) 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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雨がほとんど止んだが、曇り空で気温が低い。 もと来た道を引き返し、シーリの塔の近くにミニメトロのCupa駅へ行く標識があり、 それに沿って歩いた。 途中でエスカレータと短いトンネルがあり、 それを抜けるとCupa駅が見えた。 |
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ペルージャ駅に戻ったが、15:34の電車までに時間があるのでコーヒーでも飲むことにした。 | |||||||
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ペルージャ動画 No.3 |
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サンタノベラ薬局に行くつもりで、サンタノベラ教会の入り口まで行った. 係の人が立っていたので、聞いた教会は閉館時間で入れない、 薬局も閉まっているとの返事だった。 しかし、これは間違いで、教会の反対側の道路に薬局の入り口があり、 この時間帯はまだ開いていたのだ。 仕方がないので薬局へは後日行くことにし、サンタノベラ広場をブラブラしてみた。 広場ではジェラート・フェスティバルが開催されていた。 券を購入すると、小さなカップ券が何枚かついており、 屋台で有名店のジェラートが味わえるという趣向だった。 雨が止んだので人出が多くなり、華やかさが戻ってきた。 |
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5月17日から26日まで開催 |
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宣伝用のWeb画面 |
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ジェラートの試食は有料で”La Firenze Gelato Card”を買う必要がある。 5テイスティングカードは8ユーロ、10テイスティングカードは15ユーロ。 |
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夕食は少し豪華にしたいと思っていたので友達に聞いたカ ンティネッタ・アンティノーリCantinetta Antinoriに行った。 今日は予約なしではだめとのことだった。 27日(月)の午後8時半で予約をとって、近くのレストランを探しにここを後にした。 出て行ったところで中年の男性が追っかけてきてカンティネッタがだめなら、 ブーカ・ラビBuca Lapiに行ったらと勧めてくれた。 お店の人かと尋ねると両方の店の常連でカンティネッタで食事して出てきたところだとのこと。 バーカ・ラビまで案内してくれた、ここも予約が必要だとのことだが、 この男性が店の人に声をかけてくれたらOKとのことだった。 イタリアにも親切な人がいるものだ。”グラッチィエ・ミッレ”とお礼を言った。 |
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店内の様子 |
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このワインCAMPOGRANDEをインターネットで検索したら、アサヒビールが輸入販売している。 その説明を引用すると 品名 : アンティノリ / カンポグランデ オルヴィエート・クラシコ 小売 : 1本 1470円 容量 : 750ml 度数 : 12° 格付 : D.O.C. / 白 / 辛口 品種 : プロカニコ / グレケット / ヴェルデッロ / 他 種類 : ワイン 産地 : イタリア / ウンブリア トスカーナ地方の名門アンティノリ家が1385年にワインビジネスに参入、 ジョバンニ=ディ・ピエロ・アンティノリ氏がフィレンツェのワインギルドに加盟してスタートした。 トスカーナ地方のキャンティ・クラシコ地区を中心に多くのぶどう園を所有し、 「ティニャネロ」、「ソライア」などを生産し、イタリアワインの世界的な評価を変えた。 |
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『地球の歩き方』の説明によるとこのレストランは1880年に創業したフィレンツェ最古のレストランとのことである。 ちなみにブーカBucaとは穴のことで、地下にあることを示している。 天気が回復して、寒くもないので、人通りが多かったのでドゥオーモから共和国広場へ歩いてみた。 |
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天気が回復して暖かいと人出が多くなり、なんとなく気分もうきうきする。 | |||||||
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共和国広場に近い道路でパフォーマンスをやっていた |
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夜のフィレンツェ 動画 |
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町をぶらついてホテルに戻った。 SMNの駅構内はなんとなく、危ないような感じだが市内の方は 警官も立っていることからそんなに危ない感じはなかった。 しかし、スリが多いので用心は必要。 |
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