2013年5月24日 オルビエートOrvieto
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 出来るだけ遠い場所から観光することにしていたので今日はオルビエートに出かけた。
オルビエートの方が鉄道では、ローマへの途中駅ので便数も多くてペルージャより交通の便がよい。
ちょっと早いが6時38分発のローマ行きに乗ることにした。
ホテルの朝食は7時からなので間に合わないので駅のマックでクロワッサンとカプチーノをテイクアウトして列車に乗り込んだ。
今日は風はあるが、快晴、朝方は少し肌寒かったが昼間は半袖でちょうどいいくらい。

6時38分発のローマ行きに乗った

さすがに朝早い列車なのでがら空き
 
運賃2等 15ユーロ、とにかく切符がでかい。

オルビエートに着きました

 
オルビエート駅

駅の真向かいがケーブルカーの駅
オルヴィエート(Orvieto)
イタリア共和国ウンブリア州テルニ県にある、人口約2万1000人の基礎自治体(コムーネ)。
丘の上に作られた要塞都市、古くからエトルリア人が住んでいたが、紀元前280年ごろにローマ人に攻め落とされ、近隣に逃れた。
以来この街を「ウルブス・ウェトゥス (urbs vetus)」(ラテン語で「古い町」の意)と呼んだのが訛ってオルヴィエートと呼ばれるようになったといわれている。
引用【フリー百科事典Wikipedia】【詳細】 

エトルリア人
イタリア半島中部の先住民族。
インド・ヨーロッパ語族に属さないエトルリア語を使用していた。
徐々に古代ローマ人と同化し消滅した。
初期のローマ人はエトルリアの高度な文化を模倣したとされ、ローマ建築に特徴的なアーチは元々、エトルリア文化の特徴であったといわれる。また、初期の王制ローマの王はエトルリア人であったとも言われ、異民族の王を追放することによってローマは初期の共和制に移行した。
引用【フリー百科事典Wikipedia】【詳細
 
オルビエート動画
ドゥオーモDuomo
 ドゥオーモ建築中に崩壊するという、うわさがたち、1308年にロレンツォ・マイターニ Lorenzo Maitani が工事に呼ばれた。
彼が補強工事を行ったが、このうわさは根拠のないものだった。 
彼の死後、工事は息子のヴィターレ Vitale 、アンドレア・ピサーノ Andrea Pisano、オルカーニャ Orcagna らに引き継がれ完成した。
ドゥオーモDuomo 
 ファサード 

聖母戴冠
1584年に作られた当初は「復活」のモザイクであったが、1714年に「聖母戴冠」に変更された。 

バラ窓と周囲四角部に52人の大理石の聖人像(14世紀頃)
52は1年間の52週に由来
両横に『十二使徒』の大理石像(1561-1570)
 
福音者マタイMatthew

マルコMarkの象徴

ヨハネJohnの象徴

ルカLukeの象徴
 
マリアの結婚
 
マリア奉献
 
受胎告知とキリストの洗礼
上左:聖ヨアキム
 
上:マリアの両親、ヨヒムとアンナ 
下:聖母マリア生誕
 
  
真ん中:マリア被昇天 両横:12使徒
 
荘厳の聖母Maesta and Angels
アルノルフォ・ダ・カンビオ Alnorfo da Cambio の作
 ドア横の柱のレリーフ   
 
天地創造Genesis
 
エッサイの木Tree of Jesse
  
アベルの殺害
カインとアベルは、アダムとイヴの息子たちで兄をカイン、弟をアベルという。
ある日2人は自分たちの収穫物を神様に持って行ったところ、神様はアベルの貢ぎ物にだけ目をとめ、カインの貢ぎ物を無視した。カインは弟のアベルをねたみ、殺してしまう。
神様にアベルはどこに行ったのか尋ねられると、知らないと答えた。
これが人間の最初のうそだと言われiている。
殺されたアベルの血が神様に向かって流れて行き、神様はカインがアベルを殺したことを知る。
神様は罰としてカインをエデンの東に追放した。
・・・というお話し。

エデンからの追放

 働くアダムとイブ 
天地創造Genesis 拡大 
エッサイの木Tree of Jesse
『イザヤの書』の11章に描かれる《エッサイの木》はユダヤ人の歴史を象徴している。
そしてこのエッサイの木は中世のキリスト教で数多く表現されたイメージであり、エッサイの腰から生えた木には、マリアとキリストが実っている。
ここから、ひとりの男の体から育つ木のイメージによって元祖や祖型およびそこから分岐・発展してゆくさまを図示する伝統が生じた.。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》  
 
イエスの生涯Episode from the life of Jesus
 
最後の審判Last Judgement(右の尖塔の下) 
イエスの生涯(拡大) 
最後の審判(拡大) ロレンツォ・マイタニ作(1300-1330) 
ドゥオーモ内で見る物と言えば聖ブリツィオ礼拝堂にあるルカ・シニョレッリのフレスコ画だろう。
実際に見るとバチカンののシスティーナ礼拝堂の天井画よりすごいかもしれない。

(見学用パンフレットより)
 サン・ブリツィオ礼拝堂Cappella di San Brizio nel Duomo
フラ・アンジェリコ(Fra’ Angelico) がベノッツォ・ゴッツォリ(Benozzo Gozzoli)の協力を得て開始し、最終的にはルカ・シニョレッリ(LucaSignorelli)の手により完成された。

地獄へ落ちる人々『地獄』
罪されし者を地獄へ追いやる天使 1500−04頃
引用:WIKIPEDIA
 ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」は、このオルヴィエートのドゥオモのシニョレッリのフレスコ画にヒントを得たと言われているくらい、この画は有名。
シニョレッリはこの画を1500年から1504年頃に製作、ミケランジェロは「最後の審判」を1535年から1541年にかけて製作。
その主題となったのはダンテの「神曲」地獄編で悪魔に背負われ地獄落ちる人、地獄で悪魔からの責め苦を受ける人が描かれている。
この絵には逸話があって、オルビエートでシニョレッリに愛人ができたが、最後には彼を振ってしまった。
そのことに腹を立てたシニョレッリは、愛人の姿を娼婦としてこの絵に描き込んだという話。
絵の中の裸の女の顔がみな同じなっていることに気づく。
顔が似ていると言われれば、似ているのか??? 
 
反(偽)キリストの宣教  絵はがきより

悪魔が偽キリストを操っている
マタイによる福音書24:節によれば、にせキリスト(にせ預言者)が現われて、世界の終末が来ると言うだろう。
この言葉に惑わされないように、戦争や天変地異が起こったりするだろうが、世界が終わるわけではないとイエスは弟子達に言った。
というようなことが書かれているとのこと、これを題材にした絵のようです。 

黒服の2人はフラ・アンジェリコ(金髪)とシニョレッリがモデル 
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
ルカ・シニョレッリ(Luca Signorelli, 1445年/1450年頃 - 1523年)
ルネサンス期のイタリアの画家。
コルトーナの出身で、師はピエロ・デラ・フランチェスカであるとされるが、画風は師の理知的で静けさに満ちた作風とは異なり、ダイナミックな線描と正確な人体表現が特色である。
ボッティチェリ、ペルジーノらとともに、バチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画装飾に携わっており、当代一流の画家とみなされていたことがわかる。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 
 
肉体の復活Resurrection of the Flesh (1499?1502)
キリスト教の最後の審判の後で、キリストの復活を信じることで
全ての死者が肉体を得て復活する(絵はがき)
フラ・アンジェリコまたはベアート・アンジェリコ(伊: Fra' Angelico / Beato Angelico、1390年 / 1395年頃- 1455年)
初期ルネサンス期のイタリア人画家。
本名はグイード・ディ・ピエトロ (Guido di Pietro) で、フラ・アンジェリコは「修道士アンジェリコ」を意味する通称であり、「アンジェリコ」は「天使のような人物」という意味である。
同時代の人々からは「フィエーゾレの修道士ジョヴァンニ」を意味するフラ・ジョヴァンニ・ダ・フィエーゾレという名前でも知られていた。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
 
フレスコ画;聖母子Madonna col Bambino
G.ダ・ファブリアーノ
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 

ピエタ像 1579年
イッポーリスト・スカルツァーIppolito Scalza
パンフレットより 
ミケランジェロの作品と比較するとよいそうです
ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(Gentile da Fabriano、 1360年/1370年頃 - 1427年)
イタリア、ゴシック期にイタリアのファブリアーノで生まれ、イタリア各地で活躍した画家。
国際ゴシック様式を代表する画家の一人とされる。(引用;Weblio)
 
ボルセ−ナの奇蹟の図(見学用パンフレットより)
 ボヘミヤの司教が1263年にローマへの巡礼の帰途、オルヴィエート近くのボルセーナ湖 Lago di Bolsena でミサをあげていた。
その時、聖餅から血がしたたり落ちた(ボルセーナの奇跡Del Miracolo di Bolsena)。その血が染みこんだ布を法王ウルバヌス四世(在位:1261年 - 1264年)がオルヴィエートに持ち帰り、この聖なる布を保管するために大聖堂を建てるようオルヴィエートの人々に訴えた。
当時、ここには荒れ果てた聖マリアと聖コンスタンティヌスの2つの大聖堂が建っていたが、1290年にこれを取り壊して大聖堂(ドーモ)の建設が開始された。
※(聖餅:聖餐式用のパン=キリストの肉の象徴)
 
2013.2.28バチカン市国発行の『ボルセーナの奇跡750年』の記念切手
1253年、ミサで聖体のパンから流れる血に驚く若い司教
ラファエロ作のフレスコ画
 
ボルセーナ湖 google mapより
マウリツィオの塔(Torre di Maurizio)
ドゥオーモ広場にある時計台で1348年頃に作られた。
このの塔は、イタリアの中でも最も古い時計付きの塔のひとつで、もとは日時計だった。
塔上部にある銅像(1351年に鋳造)は「マウリツィオ」という名で呼ばれ、時を知らせる鐘をたたいている。  

時計台の横の道を行くとモーロの塔が見える

マウリツィオ
 
 
ポポロ宮殿Palazzo del Popolo
ドゥオーモ広場からモーロの塔に向かって歩き共和国広場に曲がらずにまっすぐ行くとポポロ広場に達する。
自治都市時代には隊長の官邸Palazzo del Capitano del Popoloとして使われていた ポポロ宮殿が建っている。

ポポロ宮殿Palazzo del Popolo

屋上に見えるギッベリーニ狭間
モーロの塔(Torre del Moro)
 高さは47メートルあり、教皇の塔と呼ばれ、オルヴィエートが経済的に最も栄えていた1200年代の末頃時に造られた。
1866年に塔の上の部分に時計が置かれた。
16世紀頃にモーロ(ムーア人)の首を塔に結びつけ、騎士が馬上から、首に向けて槍を投げる競技が行われた。
それでこの塔が「モーロの塔」と呼ばれるようになった。

※ムーア人(英: Moors)
北西アフリカのイスラム教教徒の呼称
引用【フリー百科事典Wikipedia】【詳細

モーロの塔

モーロの塔の入り口

塔の屋上の鐘
 
モーロの塔Torre del Moroを登る(動画)
 
 
 
 サンタンドレア教会Chiesa di Sant'Andrea
11世紀から建築が始まり、13世紀に拡張された。
この教会の地下にはローマ時代の遺跡が残っている。

サンタンドレア教会と12面タワー

教会内部、天井がむき出しになっている
   
塔の後ろ側の道路
アンデレ
は、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。
シモン・ペトロの兄弟であるとされている。
西方教会、東方教会ともに聖人で記念日(聖名祝日)は11月30日。
アンデレは格変化語尾をはずして名詞幹のみにした日本語聖書の慣用表記で、ギリシア語での主格表記はアンドレアス、ウクライナ語ではアンドリーイ、英語ではアンドルー(Andrew)、フランス語ではアンドレ (Andre)、ドイツ語ではアンドレアス (Andreas) 、ロシア語ではアンドレイ。 
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
 
共和国広場 Plazzo della repubblica
 
   

オルビエートで見つけたネコちゃん 

Adolfo Cozza
1848年オルビエートで生まれの詩人、彫刻家、デザイナー、後年は彫刻を止め、数学と力学の研究に専念した。 

壁にいのししの剥製がかけてある
どうもオルビエートはいのししの肉が
名物らしい。

Cinghialeはいのしし、いのししの肉のサラミ 

陶器屋さん

ハーブ屋さん

Calcaiaという銘柄のワインが有名なようです

マーブル紙を売る店
水に流した絵の具の紋様を紙に写し取ると、大理石の表面のような模様が出来る。この技法をマーブリングと言う。

このようにして作られるマーブル紙はフィレンツェの伝統工芸として知られている。

ルネサンスの時代から、フィレンツェではこの伝統技法が受け継がれている。

手作業で行われているのでマーブル紙にはまったく同じ模様はない。
カーヴァの井戸(il pozzo della cava)
1527年から1530年の間に法王クレメンス7世の命令でエトルリア時代の井戸を広げて作った巨大な井戸。
1646年に閉鎖され、数世紀たって再発見された。
クリスマスシーズンにはこの井戸に「プレセピオ」が飾られるので有名。
サン・パトリツィオの井戸を見るのでここは見るのを止めた。

地球の歩き方の地図は分かりにくいので町の案内図で参照

内部はこんなだそうです
とにかく小さな町なので徒歩で十分観光が出来る。
最後にサン・パトリツィオの井戸を見るためケーブルカーの駅までバスで引き返した。
サン・パトリツィオの井戸Pozzo di S.Patrizio
 

 サン・パトリツィオの井戸Pozzo di S.Patrizio

ちゃんと入り口には料金所あり
1527年にローマがフランス軍に攻撃された。
もしもローマが陥落したとき、法王クレメンス7世はオルビエートに逃げ込むことにしていた。
籠城用の水を確保するため法王の命令でフィレンツェの建築家アントニオ・ダ・サンガッロがこ井戸を設計した。
井戸の深さは62mあり、凝灰岩の岩盤を,人力で堀った。
井戸の名前の由来となったSt. Patrick は360年にアイルランドで生まれの洞窟で悟りをひらいた聖人。
サン・パトリツィオは "底なし" の代名詞となっている。 

アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネAntonio da Sangallo il Giovane(1484 - 1546)
盛期ルネサンスの建築家・軍事技術者。
サンガッロ一族の最も傑出した人物であり、ラファエロ・サンティ没後のローマにあって、イタリアルネサンスの理念を継承した主導的建築家として活躍した。
※ラファエロの死後、1520年からサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家となる。
引用【フリー百科事典Wikipedia】【詳細

井戸の底まで螺旋階段が続いている

螺旋階段は2重構造になっている
階段は二重螺旋になっており、下り用と登り用の2つがあり、この二つの階段は途中で交わらにから、下る人と登る人がぶつかることはない。(確かフランスのシャンボール城にダビンチが設計した同じ構造の階段がある) 
とにかく手堀でここまで深い井戸を掘ったものだ。感心する。
インディジョーンズの映画に出てきそうな雰囲気だ。
今日は登ったり、降りたりと少し体力のいる見物だった。 
サン・パトリツィオ(パトリキウスPatricius) (387? - 461)
アイルランドにキリスト教を広めた司教(主教)。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会で聖人。
「アイルランドの使徒」と呼ばれた[1]。アイルランドの守護聖人。
しばしば英語名で聖パトリック (Saint Patrick) とも呼ばれる。パトリキイとも。
アイルランド語ではPadraigと綴り、ポーリクなどと発音する。
引用【フリー百科事典Wikipedia】【詳細
 
井戸の底の水は透き通っていて底にはたくさんのコインが投げ込まれていた
トレビの泉と勘違いしているようだ
クレメンス7世 ClemensVII(在位1523-1534)
メディチ家出身の法王で、1527年スペイン王(神聖ローマ皇帝)カール5世による「ローマ略奪」にあい、サンタンジェロ城にたてこもり応戦したが、ローマは殺戮と破壊をこうむった。
サン・パトリツィオの井戸はその翌年から作られている。
オルヴィエートはローマ法王領となり、法王は敵に攻められてサン・タンジェロ城に逃げ込むぐらいではすまないような時には、このオルヴィエートを避難場所とした。
そのため古代の城壁の修復や新たな城塞を築くなど法王によるものがいくつか見られる。

井戸の前が展望台になっており、きれいな景色が見える
ローマ略奪( Sacco di Roma)
 1500年頃、イタリアを巡ってフランス王国と神聖ローマ帝国が衝突を繰り返していた。
1515年にはフランス軍がミラノに侵攻し、ミラノ公国を支配するスフォルツァ家を追放いた。
神聖ローマ皇帝カール5世は教皇レオ10世と結んでミラノを攻め、フランス軍はミラノから退去した。
教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)はフランスと手を結んだ事が、ローマ略奪の原因となった。
 皇帝と同盟していたフェラーラ公アルフォンソ1世をローマに幽閉したため、カール5世はローマに侵攻し、皇帝軍はスペイン兵、イタリア兵とドイツの傭兵から構成されていた。
1527年5月6日、ローマで皇帝軍は教皇軍を破り、そのためクレメンス7世はサンタンジェロ城に逃げ込んだ。
この戦いで皇帝軍の指揮官が戦死したため,皇帝軍は統制を失い、ローマで破壊と略奪行為を行った。
同年、6月に教皇は降伏し、皇帝軍は翌年にローマから撤退した。
引用【フリー百科事典Wikipedia】【詳細】 

正面下の方がオルビエート駅
 
サン・パトリツィオの井戸 動画

5分遅れの表示だが、もって遅れていたようだが?

帰りの電車が入ってきました
フィレンツェに着いたがまだ明るい、サンタ・ノベラ薬局に頼まれていたみやげものを買うために向かった。
サンタノベラ教会の方からも入れるらしいが、ぐるっと回って反対側に薬局の入り口があった。
しかし、バラ水などという中世の化粧水をいまだに売っていて人気があるというのは男には理解しがたい。

薬局の入り口
 
さすがにこの内装は古めかしくて威厳がある。
ここで薬を買えば効きそうな気がする雰囲気だ。 
サンタノベラ薬局はSMN駅の構内にもあるが、ここは普通の薬局だった。
街の中を歩いているとリッカルディ宮の門が開いていた。
今日はなにかエベントがあるらしい。
せっかくなので中に入ってみた。

メディチ・リッカルディ宮 Plazzo Medici-Riccardi

ミケロッツォの中庭
ミケロッツォ・ディ・バルトロメオMichelozzo di Bartolommeo、1396年 - 1472年
初期ルネサンスの彫刻家および建築家。
フィリッポ・ブルネッレスキやレオーネ・バッティスタ・アルベルティほどの才能は持ち得なかったが、有能で貴族的な資質を持ち、ミラノにブルネッレスキのデザインを伝えた。
ミケロッツォ・ミケロッツィの名でも知られる。 
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
 
 
メディチ・リッカルディ宮 動画
サン・ミニアート教会が午後8時まで開いているので見学に行くことにした。
いったんホテルに戻り、みやげものを置いて、SMN駅からバス12番でミケランジェロ広場へ向かった。
ミケランジェロ広場の手前の教会の前で降りればよかったのだが、間に合わず広場で降りることになってしまった。

いつ来ても絶景です。
   
サン・ミニアート教会SanMiniato al Monte
山の上にある聖ミニアート教会という意味。
以前にも2回ミケランジェロ広場に行ったが、この教会がすぐ近くにあることに気がつかなかった。

聖ミニアートSan miniatoは聖ミニアス(S.Minias)とも言う。
ギリシャの商人またはローマへ巡礼に出たアルメニアの王子と言われている。
250年(3世紀)に彼はフィレンツェに到着し、隠遁生活を生活をしていたが、皇帝デキウス(249-251 AD)のキリスト教徒迫害の犠牲となり、斬首の刑にされた。
彼はフィレンツェで最初のキリスト教の殉教者となった。
伝説によると彼は切られた首を肩に乗せ、暮らしていたモンテビグサフランの洞窟に行き、その中で死んだとされている。
その場所が現在のミニアート教会のあるところである。

ロマネスク様式のファザード 

白と緑の大理石で覆われている

鷲はこの教会の建設に出資した羊毛組合の紋章

王座のキリストとマリアと聖ミニアート 
中央部のモザイク13世紀
羊毛組合はカリマーラArte di calimalaという。
中世フィレンツェの羊毛の毛織物を扱うギルドで、フィレンツェのカリマーラ街で北西ヨーロッパの毛織物の取引を行っていた。
 
 
 
十字架の礼拝堂はピエロ・デ・メディチの依頼によりミケロッツォMichelozzoが設計した。
天井部分の白と青の彩色テラコッタの装飾はL.デッラ・ロッピアの作である。
正面の絵は14世紀のテンペラ画家アニョーロ・ガッディ・Agnolo Gaddi 作でキリスト、聖ジョヴァンニ・グアルベルトと聖ミニアートの逸話を描いている。
この十字架はリボルノにあるサン・ジョヴァンニ・グアルベルト教会(リボルノ)にあったものだが、その教会が建設中止なり、この教会に納められた。

聖ジョヴァンニ・グアルベルト
 ジヴァンニ・グアルベルトは弟を殺した男を殺そうとした。
ところがその男はひざまずき、両手でを十字架差し出し許しを乞うたので、グアルベルトは剣を捨て、相手を赦した。
その後、彼はサン・ミニアート教会に行き、十字架のキリスト像に祈りを捧げた。
絵のキリストが仇を許したことは良い行いだと言ったという伝説がある。
その後、グアルベルトはベネディクト会のヴァッロンブローザ修道院を作り、フィレンツェの宗教界で有名な人物になった。
 
サンミニアート教会 動画
 
礼拝堂建設出資者の1人ピエロ・デ・メディチの紋章(家紋とは違う)の『指輪を持った鷲 』

マリアと聖ミニアートに祝福を与えるキリスト
モザイク画 13世紀頃

十字架の礼拝堂
Capella del Crocifisso di Michelangelo
ミケロッツォの設計

象嵌装飾した祭壇
十字架の礼拝堂と言われる所以はリボルノの近くにあるサン・ジョバンニ・グアルベルト教会の建設が中止となった。
そのため、この教会に納められるはずの磔の十字架がここに納められることになった。
その後、十字架はサンタ・トリニタ教会にSanta Trinitaに納められたので、現在、ここにはない。
 
 

説教壇pulpito 1207年頃の作
上の鷲は羊毛商人の組合のシンボル、
その下に男の人
さらにその下に目に青い石をはめこんだライオン
ポルトガル枢機卿の礼拝堂Capella del Cardinale di Portogallo
アントニオ・ロッセリーノ・Antonio Rossellino と兄ベルナルドBernardoの作。
ポルトガルの枢機卿はポルトガル王アルフォンソ5世の従兄ヤコポ・ディ・ルジターニア・Jacopo di Lusitaniaで十字軍での遠征中の途中、フィレンツェで結核(?)で25歳の若さでなくなった。
枢機卿が遠征で戻って来れないかもしれないと考えて作らせた礼拝堂で、かなり豪華難もので枢機卿齲が大金持ちだったことが分かる。
天井の円形装飾はルカ・.デッラ・ロッビア、墓はアントニオ.ロッセリーノの作。
※小説『前世への冒険』とポルトガル枢機卿
この教会を見学に行く前に『前世への冒険』森下典子著(2012年9月24日BSジャパンでドラマ化して放映)を読むべきだった。
※光文社知恵の森文庫 ISBN978-4-334-78443-0 
 
私はこの本を旅行後にざっと流し読みしたが、もう少し、じっくり見ておけばよかったかなと後悔した。
この著者によるとこの教会にある『ポルトガル枢機卿の墓碑』はアントニオ・ロッセリーノ作と言われているが一部はデジデリオの作ではないかというのだ。
この枢機卿、デジリオ、ロッセリーノとの関係についてルネサンス美術史をからめてうまく小説化している。

彼女の解説によるとポルトガル枢機卿とデジデリオは腹違いの兄弟ではないかとのこと?
また、ロッセリーノとは同性愛関係ではないか?という説を述べている。
ポルトガル枢機卿もデジデリオも肺結核(だろう)で若くして、ともに死亡している。

ロッセリーノは枢機卿の墓碑の顔と手の製作をデジデリオに依頼しているらしい。
そんなこんなことがカイアーノのメディチ家別荘のこともからめて書いている。(興味あるかたは飛行機の中でも読んでください)
 
A.ロッセリーノ作のポルトガル枢機卿の墓

ルーカ・デッラ・ロッビア作 
礼拝堂の天井の5つのメダイヨン
ルカ・デッラ・ロッビアLuca della Robbia(1400-1481)
フィレンツェ出身のイタリアの彫刻家。
テラコッタの丸皿で知られる。
ルカ以降、デッラ・ロビア家は土器芸術家の名門となり、甥のアンドレア・デッラ・ロッビア、その子ジョヴァンニ・デッラ・ロッビアを輩出した。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
デジデーリオ・ダ・セッティニャーノDesiderio da Settignano(1430頃-1464)
本名デジデーリオ・デ・バルトロメオ・ディ・フランチェスコ・デット・フェッロ(Desiderio de Bartolomeo di Francesco detto Ferro)は、ルネサンス期に活動したイタリアの彫刻家。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 
 
顔と手はデジリオが製作したのでは?
彼の作品は顔の表情に特徴がある
 
聖具室の壁のフレスコ画
喜捨のお金を入れると照明が点くようになっている。
照明がある間に手早くデジカメで撮影した。
 
左の窓のステンドグラス
   
聖倶室の聖ベネディクトの生涯Storie di S. Benedetto フレスコ画 
今日の夕食は何にするか?
ちょっと歩きすぎて疲れてしまった。
考えたら中華料理になるのはいつものこと。
以前に行ったことのある北京飯店に行くことにした。
記憶をたよりに探した。
メディ家礼拝堂の近くにあった。
感は正しかった。

料理内容は省略
以前に食べたときの味を思い出すと少し落ちている。
春巻きの味にピリッとしたものがない。
2人セット23ユーロ+お茶1.5ユーロ+ビール4.5ユーロ=合計32ユーロ 
とにかく中華料理は安くて味に間違いがないのが助かる
 疲れた、ホテルに戻って寝る・・・・・
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