5月27日(月) ポッジオ・カイアーノ
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早朝は曇っていたが、太陽が出て来た。
少し、肌寒い、どうもイタリアも少し異常気象のようだ。
ポッジョ・ア・カイアーノPoggio a Caianoに行くことにしたが、どうして行くか分からない。
ここには15世紀に建築が始まったメディチ家の別荘がある。
別荘の名前はポッジョ・ア・カイアーノではなく、正式にはVilla medicea di Poggio a Caianoという。
 インターネットで調べたが、日本語のサイトでは詳しく書いていないので英語で検索したら出てきた。
サンタノベラ駅の東側、京都飯店という中華料理店の前の停留所でここへ行くバスが出ている。
切符は停留所の前の切符売り場で往復を購入(片道2.2ユーロ)した。
※帰りの切符売り場が分からないので往復購入がお勧め。
※帰りのバス停の自動券売機が故障していた。
7:50発のPoggio a Caiano行きに乗った(そのほかPISTOIA、QUARRATA行も可)、40分くらいでメディチェ家の別荘前の停留所に着いた。
 
Poggio Caiano行きのバス乗り場を下の地図で示しています。
『地球の歩き方』には詳しく書いていません。
 ※ホテルのフロントでは空港行きバスは駅の前と言っていたが、駅前には空港行きのバスの表示なし。(駅前は便数が少ない)
バスセンターに行ったら空港行きバスがあり、毎時0分と30分の発車だった
 
ポッジョ・カイアーノ行きのバス時刻表、直通以外にQarrata、Pistoia行きも停車する。

京都飯店の前がバス停留所、ブルーバス ポッジョ・ア・カイアーノ行きの表示。

メディチ家別荘の正面、左側にバス停
正面は閉まっています。
 
これが通常の入り口
正面の門を閉めかけていた係の女性が、ここから入って別荘の1階に行けば見学させてくれると言って入れてくれた。
別荘の見学者は私たち2人だけで、貸し切り状態で見学することになった。
係の男性が1人、ずっと付いていた。
聞けばある程度説明してくれるが、イタリア語なのでよく分からない。
内部は一階と二階をすべて見学できる。めったやたら豪華というわけではないが、落ち着いた豪華さのある内装だった。
正面玄関のテラコッタはレプリカで本物が二階に展示されていた。
別荘内部の見学の後、広大な庭を見て回った。
竹が植えられているので、当時に東洋趣味があったことがうかがえる。

2階のバルコニーからの眺め

2階に上がる2つの螺旋階段

神殿風の入り口
入り口の上に彩色テラコッタのフリーズ
このカーブした2組の階段は1802年頃にパスクアーレ・ポッチャンティPocciantiによって付け加えられたとのことである。 
内部が豪華な割には、外観は意外と質素に作られている。
これは民衆の反感を買わない配慮らしい。

1階
 
時計の上の草はぺんぺん草ではないようです
2階
 この別荘はロレンツォ・デ・メディチと彼の相続人がジュリアーノ・ダ・サンガッロに設計させ、1485〜1520年にかけ建てられた。
ナポレオンの妹やヴィットリオエマヌエーレ2世などもこの別荘を使っていた。
内部には劇場もあり、有名なバイオリニスト、パガニーニ( Nicolo Paganini)が演奏したという記録もある。
玄関のロッジアの上にはSansovino と Bertoldo di Giovanniによる、彩色テラコッタのレリーフがある。

ジュリアーノ・ダ・サンガッロ(Giuliano da Sangallo)1445年 - 1516年
初期ルネサンスのイタリアの建築家、彫刻家、および造兵技師。
革新的な建築家ではなかったが、初期から盛期に至るルネサンスのデザインを継承した。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
 
"La sorte dell'anima"、直訳すると『魂の運命』
このフリーズのテラコッタはギリシャ・ローマ神話を題材としている。
このテラコッタにはいろんな解釈があるが、ネオプラトニズムのギリシャ・ローマ神話、人間の魂を善悪に選択する様子を表している。
このテラコッタのフリーズは彫刻家Andrea Sansovino(1460〜1529)によるもの
彼はアレッツォ近郊Monte San Sovino (Savino)に生れた。

フリーズFrieze
建築用語で、エンタブラチュアの中央の、幅広い部分を指す。
簡素なものもあれば、イオニア式、コリント式のレリーフで装飾されているものもある。
円柱の壁ではフリーズの位置は、アーキトレーブより上、コーニスのモールディングより下部になる。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
 
 
  
上の画像を拡大したもの、戦士のハーム(Erma)と顔が二つあるヤヌス神
ローマの神ヤヌスが世界を支配している。
司祭が恐れている中で、軍神マルスが現れ軍隊を扇動し、戦争を起こす。
ヤヌスはドアの神(ianuae)、最初の月の神(Januarius)の意味があり、別荘の持ち主のロレンツォ・デ・メディチ(、ロレンツォ・イル・マニーフィコLorenzo il Magnifico)の誕生日は1月1日で自分自身をヤヌスになぞらえている可能性がある。
ヤヌスは彼の優れた政治・外交能力の象徴とも考えられる。
ヤーヌス(ヤヌス Janus)
ローマ神話の出入り口と扉の神。
前後2つの顔を持つのが特徴である。
表現上、左右に別々の顔を持つように描く場合もある。
一年の終わりと始まりの境界に位置し、1月を司る神である。
入り口の神でもあるため、物事の始まりの神でもあった。
1月の守護神であるのは、1月が入り口であり、年の始まりでもあったためである。
それから来て、過去と未来の間に立つという説明もする。
その役割は、日本の年神によく似ているが、直接の関連性はない。
他の著名な神と異なりギリシア神話にはヤーヌスに相当する神はいない。
英語で1月をいうJanuaryの語源(ヤーヌスの月)でもある。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
 
 
上記のテラコッタのクリスティーナ・アシディーニの解説(?)、イタリア語の得意な方は見てください

引用;WIKIPEDIA COMMON

inside sala di Leone X Fresco by Alessandro Allori
引用;フリー百科事典WIKIPEDIA《詳細》
 
La scala di Bianca Cappello
ビアンカ・カペロの部屋の階段
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細

Il caminetto del Buontalenti
暖炉
  引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細
ビアンカ・カペッロ(Bianca Cappello) 1548年 - 1587年
トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチの2度目の妃。
ヴェネツィアの裕福な貴族であるカペッロ家出身で、美女の誉れ高かった。
1587年10月にポッジョ・ア・カイアーノにある別荘でビアンカとフランチェスコは相次いで急死してしまった。
長い間、歴史家たちの間で死因が毒殺か、マラリアに感染したための病死か、意見が割れてきた。
一時砒素中毒説が有力になったが、少なくともフランチェスコに関してはマラリアが死因とする報告が2010年に発表された。
彼女の遺体はフェルディナンド(フランチェスコ1世の弟)によって、フランチェスコとは別の場所に葬られ行方不明になって今日に至っている。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細

横方向から撮影

別荘にいたネコ

別荘の後ろ側

裏の庭にある彩色された壁

レモンの鉢植え

庭の噴水
 このような鉢植を置いたりするのがイタリア庭園の特徴のようです。
 
ポッジオ・カイアーノ 動画

レモンの木用の温室 La Limonaia

庭への入り口
11:45のバスで戻る予定だったが、早いバスで戻ることにした。降りたバス停は一方通行で、戻りのバス停が分からない。
道路清掃をしていたおじさんに聞いたら坂を下って右側に行けばバス停があると教えてくれた。
バス停の時刻表では10:45にフィレンツェ行きがある。
約10分くらい遅れてバスがやってきた。

この道を下っていって交差点で右へ折れるとバス停がある。

ライオンのマスクの噴水
 9月の3週末にポッジョカイアーノでルネサンス時代の衣装で着飾る祭が催される。
祭では、このライオンの噴水からワインを出すパフォーマンスが行われる。
ライオンの噴水からワインを出すパフォーマンスは1565年12月8日オーストリアのジョアンナ王女がこの別荘に滞在したとき、別荘の門の前で村の人にワインを無料で振る舞ったことに由来するとのことである
ジョアンナ(イタリアではGiovanna)は神聖ローマ皇帝フェルディナンドT世の末娘で結婚してトスカーナ大公妃となった。
 バス停で待っていたら、イタリア人の老人が話しかけてきたがイタリア語なのでほとんど分からない。
分かる単語で解釈すると、シチリアに孫がいる。
年令が”セサンタ・セッテ”(67才)、どう見ても私より年上、”セタンタ・セッテ”(77才)の聞き間違い。
※イタリア語の数字の読み方、セサンタ(60)とセタンタ(70)がまぎらわしい。
年金生活(ペンシオーネ)していること。(ペンションに住んでいるのか思った)
腰を痛めて病院に通っている、胸にコルセットを巻いているので触ってみろと言う。
話があまり通じないで困っているところにバスが来た。(助かった・・・)
 
ポッジィオカイアーノのメディチ家別荘の紹介 動画

フィレンツェの時刻表
まだ、十分時間があるので、中央市場とその周辺をぶらついてみることにした。
 
中央市場の周りの道路には革屋さんの出店がたくさん
 出店で皮革製品を見ていると、後ろに自分の店があるから、見ていってはと言われる。
店もあるが道路で屋台を出しているようだ。
これがちゃんとした革製品を売っていることを示す認証札とのことです。  
 
サンロレンツォ教会とメディチ家礼拝堂
ドライフルーツの店、みかん(マンダリン)のドライがお勧めとのことでした。 
市場でドライフルーツが安かったので買いました。
お店の女の人は日本人でした。姫路の方だそうです。 

市場の中の食堂

左側の店がすいていたのでここで昼食
市場の閉店時間が近いので客は少なかった  

昼食は右上の旗のある店で、パニーニとカフェラテで済ませた。
席に座ったのでサービス料を取られていた。
何回かフィレンツェにきて素通りしてきたオルサン・ミケーレOrsanmichele教会に行ってみた。
1240年に小麦市場と礼拝所の2つが入った建物が作られ、その後、火災に遭って消失。
1333年から再建が開始された。
内部は2階建てになっている、少し変わった形の教会である。
もとは1階に吹き抜けのアーケードのある市場で、2階が礼拝所になっていた。
オルサン・ミケーレはオルティ・イン・サン・ミケーレ(聖ミケーレの菜園)がなまってこう呼ばれるようになった。

イタリア語のミケーレ ( Michele) は、天使ミカエルのことで、鎧を着て天使の軍団の先頭に立つ、いさましいイメージの天使。
ちなみに天使を意味するイタリア語アンジェロ (Angelo) と組み合わせるとミケランジェロ (Michelangelo)になる。
英語での人名ではマイケル(Michael)、フランス語ではミシェル(Michel)など、この天使名に由来するもの。

ここは入り口ではなかった

1階 教会内部
引用【フリー百科事典Wikipedia】【詳細

教会の2階部分
引用【フリー百科事典Wikipedia】【詳細
2階の 窓からフィレンツェの景色が見える。
ここに外壁に飾られている像のオリジナルが一部置かれている。  
外壁の側面にはくぼみ(ニッチ)が作られ、そこには14〜16世紀に活躍したフィレンツェの彫刻家の作品が飾られている。

ニッチ(英: niche、フランス語読み:ニーシュ)
像や装飾品を飾るために寺院などの壁面に設けた窪み(壁龕:へきがん)のことを指す。
引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細

St. John the Evangelist

Virgin and Child

St. James 

St. Eligius

St. Mark

St. Stephen
 聖エリギウスは、フランスの中南部のリムーザン地方の貧しい家に生まれた。
金工のもとで修業した後にパリに行き、国王クロタール2世(在位584−628年)の黄金の鞍を製作して名声を上げた。
その功績で造幣長官となった。
後年に、ノアイヨン司教となり、また金銀細工師として多くの聖遺物箱を作成した。
伝説によると、悪魔が馬に化けて蹄鉄を打ちに現れた。
聖エリギウスはこれを見破り足を切断し、それを床に打ち付けて悪魔を懲らしめた。
彼は金細工師の守護神になっている。

St. Peter

St. Philip

St. Matthew 

Quattro Santi Coronati
(Four Crowned Martyrs or Four Saints)

サンジョルジョ

Christ and St. Thomas
聖トマスの不信
『聖トマスの不信』
キリスト十二使徒の中でただ1人、イエスの復活を信じない聖トマスは、「主の傷痕に指を差し入れるまで復活を信じない」と言った。
8日後に聖トマスの前にイエスが現れ、自分の傷痕に聖トマスの指を差し入れさせた。
そのことで聖トマスはキリストの復活を信じたというお話し。

2階の窓から、ベッキオ宮殿も見えます

教会の2階から出口の隣の
建物の階段にあるかわいいライオン像
 
2階の窓からドーモが見えます
 まだ、夕食に行くには時間が早いので、ベッキオ宮殿に行ってみた。
今日は晴れているので建物が鮮やかに見えて気持ちがいい。
   
晴れていると彫刻も鮮やかに見える。 
   
   
   
ホテルにもどって少し休憩し、少し薄暗くなった午後8時頃夕食に出かけた。 
今日は最終日なので再度奮発して、最初の日に行けなかったカンティネッタ・アンティノーリCantinetta Antinoriに出かけた。
このレストランはもともとはエノテカ(ワイン製造業者の直営店)なのでワインを飲むのがメイン。
ワインはグラス(ビキエーレ)で銘柄の違うワインをいくつでも注文できる。
いくつもの銘柄を飲みたいう人にはありがたいし、アルコールに弱い人には助かるやりかたである。
ワインはおまかせ(コンシーリアで通じた)で赤ワインをグラスでたのんだ。
赤ワインはあまり飲まないほうだが(いつも薬を飲んでいる味がするから・・)、しかし、ここのワインは違った。
少し酸味があって、気に入った。
日本にもどったら、通販であるなら買ってみよう。

貴族が経営しているレストラン
 

私たちは2階に通された

日本の居酒屋に置いているようなものが見えた
いろんなワインを少量ずつ飲める

付け合わせのパン
食べ過ぎると料理が食べられなくなる

グラスワイン(赤),飲み助には少し少ないだろう
下戸にはちょうどいいくらいの量だ

生ハムメロン、塩味と甘みのバランスがよい

パスタ、これは口に合う

今日はステーキをたのんだ。
ステーキソースがついている。
軟らかくておいしいが、正直肉の味は分からん・・・

ドレッシング忘れてきた・・・
仕方ないので右のバルサミコ酢を使った
 
バルサミコ酢

食後のカプチーノ
 向かい側に男性3人、女性1人のグループが食事をしていた。
何を食べるのか見ていると女性はグラスワインと前菜とパンスープ(リボッリータRibollita)だけだった。
日本人はたくさん注文しすぎるようだ。
しかし、このパンスープ、私は好きになれない。病人食のような感じがするからです。
 
 日本のイタ飯のほうがうまいかもなしれない・・・・・
大体、これで今回の旅行の予定は終了。
ちょっともたついた部分はあったがほぼ満足な結果だった。
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