2018年6月7日(木) 2日目
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9:00/ 【世界遺産】ポルト観光
◎サンフランシスコ教会:1233年に建てられたバロック様式の教会
○サンベント駅:ポルトガル文化を代表する装飾タイル「アズレージョ」
○レロ・イ・イルマオン書店:世界でもっとも美しい本屋と言われる
〇ポートワイン工場見学
13:00/自由行動
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 やはり、時差ぼけで早く目が覚めた。天気は良くない。
6月は年間で一番降水量が少ないはずなのに今年は梅雨のよう、異常気象のようだ。

ホテル正面

朝食にいわしが出ていた
 
メドトロニック社主催の
カンファレンスがあるようです
 
サンベント駅、イルマオン書店、グレリゴスタワー、カルモ教会
 
サンベント駅Porto Sao Bento正面
サン ベント 駅Estassao de Sao Bento
 ポルトに1875年に完成したカンパニャン駅があるが、ポルトの中心部から離れていて不便であった。
そのため、線路を延ばしてポルトの中心地に新しい駅を作ることになった。
その駅の場所として16世紀に建てられたサン・ベント・デ・アヴェ・マリア修道院が候補地となった。この修道院は1783年の火災後に修繕されたが状態が悪く、取り壊しの計画が出ていた。
1890年、カンパニャン駅を結ぶ線路のために斜面にトンネルを掘り、修道院の回廊部分を取り壊して仮の駅舎をが作られ、1896年11月7日に運用が開始された。開始後、いろんな問題が分かり、それを解決するため、1900年、この修道院の教会部分の取り壊しが行われた。
 当時は自動車が普及し始めた時代で今後の交通事情を考えて、何度も計画の変更が行われた。そのため、実際の工事が始まったのは1902年だった。
1906年1月、画家ジョルジュ・コラッソ製作のアズレージョで内装工事が完成した。
1916年10月5日、サン・ベント・デ・アヴェ・マリア修道院を記念して、「サン・ベント駅」と名付けられ運用を開始した
アズレージョ (:azulejo、スペイン語ではアスレホ)
ポルトガル・スペインで生産される、典型的な上薬をかけて焼かれたタイル。途絶えることなしに5世紀もの間生産され続け、ポルトガル文化の典型的な要素となった。
引用;Wikipediaより

上段には交通の歴史が描かれている、左端には汽車が描かれている
 

奥の方が駅のホーム、現在も使っている

駅のホームは近代的
サンベントSao Bentoとは聖ベネディクトのこと
聖ベネディクト(Benedictus de Nursia, 480年頃 - 547年)
、中世のキリスト教の修道院長で、西方教会における修道制度の創設者と呼ばれ、ベネディクトスの著した会則は西ヨーロッパに広く普及し、やがて「西欧修道士の父」と称されるようになった。
カトリック教会・聖公会・ルーテル教会および正教会で聖人。正教会ではノルシヤの克肖者聖ベネディクトと称される。
529年ころイタリアのローマとナポリの間にあるモンテ・カッシーノ(イタリア共和国ラツィオ州)に修道院を設け、540年ころ修道会則(戒律)を定めて、共同で修道生活を行った。彼の戒律に従った修道会の一つをベネディクト会と呼ぶ。
引用;Wikipediaより

セウタ攻略の図、中央にエンリケ航海王子
セウタは、アフリカ大陸北部、ジブラルタル海峡に近い地中海沿岸に位置する。
セウタは長らくイスラムに占領されていたが、1415年にエンリケ航海王子がセウタを奪取し、セウタはポルトガル王国領となった。
1668年のリスボン条約でポルトガルの独立が再び認められた際、セウタは正式にポルトガルからスペインに割譲された。現在はスペイン領。
引用;Wikipediaより
 

駅の前のアルメイダギャレット広場
この広場は、 1799年にポルトで生まれた詩人、劇作家、
議会議長のアルメイダ・ギャレットの名前に由来する。

ドン・ペドロW世の騎馬像
ペドロ1世(ブラジル皇帝)(1798 - 1834)
ブラジル帝国初代皇帝(在位:1822 - 1831)。ポルトガル国王としてはペドロ4世と呼ばれる。
ブラジルでは一般にドン・ペドロ1世(ドン・ペドロ・プリメイロ)、「解放者」とよばれ、ポルトガルでは「戦争王]」と呼ばれている。
引用:wikipedia 
 
左からサンフランシスコ教会とボルサ宮殿Palacio da Bolsa,、前が公園で前の銅像はエンリケ航海王
 ボルサとはポルトガル語で証券取引のこと、ここは現在も使用されている「旧証券取引所」、2階部分は50年前までは裁判所として使われていた。
「サン・フランシスコ教会(Igreja de Sao Francisco)」は14世紀に建造されたゴシック様式の教会、ここはもともと、13世紀に設立された「サン・フランシス修道院」があったが、1832年の火災で、教会を守るため回廊が壊された

エンリケ航海王子公園
後方の建物はMercado Ferreira Borges

Jardim do Infante Dom Henrique
エンリケ航海王子
 
赤い建物は以前は市場(メルカード)として使われていたが、現在はイベント会場   
サン・フランシスコ教会Igreja de Sao Francisco
ポルトガル・ポルトにある重要なゴシック様式の教会。バロック様式の内部装飾で知られている。教会は市内の歴史地区にあり、ユネスコの世界遺産に登録されている。
17世紀〜18世紀に礼拝堂が、金箔を貼った木工細工で派手に装飾され、最初の教会建築がすっかり隠されてしまった。
祭壇後方に『キエッサイの木』があり、この木工細工は、フィリペ・ダ・シルヴァとアントニオ・ゴメスの手で彫られた。ユダ王国の12人の王たちとイエスの家系図は、エッサイ(ダビデ王の父親)の横臥像とつながる。木のてっぺんには聖ヨセフがおり、下に聖母子の彫刻がある。
この派手な装飾はフランチェスコ会の清貧さに合致しないとして、彼らは信仰のための教会を閉じた。
引用:wikipedia

「エッサイの樹」

撮影禁止なので、絵はがきから
「エッサイの樹」とはダヴィデ王の父エッサイの家系図。マタイによる福音書 及びルカによる福音書 の記述では聖母マリアの夫聖ヨセフはこの家系に属し、イエズス・キリストは「エッサイの樹」に連なる。 〈エッサイの木〉は,ユダヤ人の歴史を象徴しており、エッサイの腰から生えた木にマリアとキリストが実る。
 昼食は「COZZA RIO」というレストラン

あんこでも挟んであるのかと思ったらハムだった

メインを撮影し忘れたので添乗員さんの分を撮影

COZZA RIOの入り口
 
ポルトのワイナリー見学
フェレイラ(Ferreira) というワイナリー、紹介ビデオをはじめに視聴、もう少し高解像度の画像を見せて欲しかった。

フェレイラのトレードマーク「ダーウイン・レア」
ダーウイン・レアは中南米に生息するダチョウと同じで飛べない鳥、とても勇敢で後に引かない性格の鳥だそうで、女傑のフェレイラをこの鳥に例えてこの鳥をトレードマークにしたそうです。 
 
フェレイラのポートワイン、鳥のトレードマーク

ワインの熟成タンク

ワイン販売カウンター

創業者のフェレイラ夫人
フェレイラは1751年に設立されたワイナリー、ポートワインは外国人経営者が多い中で、珍しくポルトガル人オーナーとの事でした。
ドナ・アントニア・フェレイラ(Dona Antonia Ferreira) ( 1812 - 1812 )
彼女はポートワインの栽培や彼女がポルトガルに紹介したワイン造りの革新のリーダーシップで知られている。
彼女は父親から、ぶどう園を継承した。父親は彼女のいとこと結婚させたが、夫は経営には無関心で、彼女の財産を食い潰した。
彼女には2人の子供があり、後に伯爵夫人として知られる娘、Maria deAssuncaoと1人の息子、AntonioBernardo Ferreira。彼女が33歳の時、夫がで亡くなり、ワイナリーの経営を一手に担うようになった。経営責任者のホセ・ダ・シルヴァ・トーレス(Jose Ja Silva Torres)の協力でビジネスは成功し、彼女は彼と再婚した。
フェレイラはポルトガル政府が地元のブドウ栽培を支援しないことに抗議していた。当時、ポルトガルのワインはスペインからほとんど輸入していた。
彼女はポルトガルや多くのヨーロッパのブドウを破壊したフィロキセラ病と戦った。彼女は、このブドウの病気に対する現代的で効果的な技術を学ぶために、英国に渡って勉強した。また、ワイン生産の新しい技術を学び、それをポルトガルに持ち込んだ。 さらに多くの新しいブドウ畑に投資し、そして彼女の作ったポートワインを最初にイングランドに輸出した。
彼女が1896年に死亡したとき、フェレイラは莫大な財産と30のブドウ園を残した。彼女はドウロの谷の歴史的なリーダーの一人であり、19世紀後半のフィロキセラ病で生き残ったポルトガルのブドウを再生させ、ポートワインを世界的に有名にした。
引用;Wikipediaより

試飲、下戸には少し濃すぎる、やはり白がいい

白と赤の試飲
ポートワインというと、どうも赤玉ポートワインを思いだしていかん・・・ 

ワイン入りチョコレートも販売

外に出るとドウロ川の向こうにポルトの町
 下戸が飲んでも旨かったワイン
緑色のワイン、ヴィーニョ・ヴェルデ、白のワインで少し発泡性
日本にも輸入されている。比較的安い。
レロイ・イ・イルマオン書店(Livraria Lello & Irma)
1869年に創業され、1906年にこの場所に移転した歴史ある書店です。中でも店の真ん中に天国への階段がある。ハリー・ポッターの原作者のJ・K・ローリングが英語教師としてポルトに住んでいて、この書店をしばしば訪れていた。ハリー・ポッターのイメージに影響与えたといわれている。店内の天井のステンドグラスも非常に美しい。
雨というのにかなりの人が待っている。

書店の前は長蛇の列

入場券5ユーロ、だんだん値上がりしているそうです

天国への階段

天井のステンドグラス

これだけ入ったら床が落ちないか心配

階段でポーズとっている女性
レロ・エ・イルマオン書店_03 Livraria Lello & Irmao_03 June 7 2018 - Spherical Image - RICOH THETA

レロ・エ・イルマオン書店360度画像
 
 
カルモ教会

カルモ教会Iglesia do Carmo

アズレージョの側面の壁
カルモ教会はカルメル会派の教会ということでしょう。
カルマル会は、12世紀にブロカルドという人が十字軍兵士としてパレスチナの赴き、修道士となり、パレスチナのカルメル山に修道院を築いて暮らしたのを起源とされている。会の名称はその地名からとられている。
引用;Wikipediaより

ライオンの噴水
 カルモ教会の前の市電
バスが来るまで雨宿りでポルト大学の中へ 
ポルト大学( Universidade do Porto)
1911年3月22日に創設された。学生数はポルトガルの大学の中では最大であり、特筆される研究の成果を出している大学の一つである。
引用;Wikipediaより 
 ポルト大聖堂(Sedo Porto)

ポルト大聖堂
ポルト大聖堂 (Se do Porto)
市内で最も古い建造物であり、ポルトガル国内で最も重要なロマネスク様式建築の一つである。
現在のポルト大聖堂はフーゴ司教の後援のもとで1110年頃に建立が開始されて13世紀に完成したが、司教座自体はスエビ王国支配下の5世紀から6世紀には既にポルト市にあったと記録されている。
大聖堂は平面が四角形の双塔を備えている。いずれも控え壁で支えられ、ドームを頂いている。
ファサードには装飾が施されておらず、しかも異種建築様式の混合となっている。
バロック様式の張り出し玄関と、銃眼模様のアーチの下に美しいロマネスク様式のバラ窓があり、要塞化された教会だという印象を与える。
引用;Wikipediaより
大聖堂内部360度画像 
ポルト大聖堂  Cathedral Port June 7 2018 portugal port - Spherical Image - RICOH THETA
教会の外壁のアズレージョ、近づいて見るとタイルでモザイク状になっている 

大聖堂の横にあるヴィマラ・ペレスの像 Statue of Vimara Peres

リベrターデ広場のドン・ペドロ4世の騎馬像 
ヴィマラ・ペレスはレコンキスタで大きな働きをし、ギマランイスにポルカトゥーレ伯領を築いた人。
 ちょっと疲れたので喫茶店で休憩

アーモンドのタルト、カフェオーレ、ガラオン(ミルクコーヒー)

パオン・デ・ロー
生焼けカステラ(カステラの原型)

注文したアーモンドのタルト

なにか分からん

メイア・ルーア(ドライフルーツを焼き込んだ半月)

客が多すぎたのかマシンが故障

ドンルイス1世橋の上を歩いて、ロープウェイに乗って、再度、ドンルイス1世橋の下を歩いて対岸に
夕食のレストランを確認して自由行動、やっと雨が止んできた。
 ポルト大聖堂見学の後はドンルイス1世橋の上を歩くことに、雨が降ってなければ抜群の景色なんですが・・・
ドン・ルイス1世橋
ギュスターヴ・エッフェルの弟子の一人、テオフィロ・セイリグが設計し、1881年から1886年の間に建設された。
エッフェルはポルトにある別の橋、マリア・ピア橋の建設に携わっていた。1886年10月31日、ポルトガル王ルイス1世が出席して開通式を迎えた。
橋は幅8mの2階建て構造になっている。上層の長さは395mで、下層の長さは174mである。
現在上層は歩行者とメトロ用に、下層は自動車と歩行者用になっている。メトロは橋を挟んでポルトで最も大きい病院の一つ、サン・ジョアン病院とヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアの役所を結んでいる。
同区間のメトロは2005年9月に開業したが、それ以前は上段も道路橋となっていた。橋梁の上段を転用した事によって上段の道路交通が阻害されることとなったため、メトロの建設に先立ってドウロ川上流側に別に道路橋を建設し、上段を通っていた道路交通を迂回移転させる方策を採っている。
ドン・ルイス1世橋の上層はポルトの中心部とヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区を結んでいる。
引用;Wikipediaより
 
橋の上は真ん中が線路で両側は歩道になっています
トラムのように思いますが、実は地下鉄です。地下鉄の線路を横断できるのはポルトくらいでしょう 
 
ドンルイスT世橋を走るメトロ
橋の下を流れる川はドウロ川 
 イベリア半島を流れる重要な川の1つである。スペインのソリア県を水源とし、スペイン北部を流れポルトガルに入り、名を変え、ポルトから大西洋に注ぐ。
全長は897kmであり、ポルトガルを流れている部分においては軽い船なら航行可能である。
川の名前は、ケルト語で水を意味する"dwr"から来ていると考えられる。スペインのエストレマドゥーラ自治州や、ポルトガルの伝統的な地域名であるエストレマドゥーラ地方の語源となった河川である。
この地域の沿岸では、小麦やワイン用のブドウの栽培、羊の放牧などが行われている。
引用;Wikipediaより

ロープウェィ乗り場から

フェルナンディナの壁Muralhas fernandinas
昔、ポルトはローマ人の作った城壁で囲まれていた、しかし、その空間は狭く、裕福な人たちは壁の外に住んでいた。そのため安全ではなかった。1370年アフォンソ4世は新しい城壁の建設に着手し、フェルディナンド王の時代にやっと完成した。それでこの城壁は「フェルナンディナの壁」と呼ばれている。

ロープウェイ

ロープウェイを降りたところに市場

中はフードコートになっています

あなたのお好きなビールを

寿司バーもありました
 休憩している間に雨が止みました。

ケーブルカー

メトロ建設の前は上の部分は自動車道路だった

リベイラ広場に向かいます

リベイラ広場、左手の建物はレストラン入り口
 夕食まで時間があるのでアズレージョ専門の土産物屋へ
ネコちゃんシリーズ  
 
 

レストランはリベイラ広場(〇印)、表になにも表示されていないので分かりにくい
自由行動の前に、この前で解散した。
レストランの名前を忘れたので、ネットで調べました。
Restaurante Downing Streetで間違いないと思います

ポルトガルで、ビールと言ったら、
スーパーボックが出てくるのが当たり前
ポルトガル国内でのシェア40%

スーパー・ボック

メインはサーモン

撮影し忘れたのでTrip adviserから引用
 食事の後、バス乗り場に向けて歩く
 
エンリケ航海王子広場(Praca Infante Dom Henrique)付近

パロキアル・デ・サン・ニコラウ教会
 バスに乗ってホテルへ、雨は止みました
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