2018年6月10日(月)5日目
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9:30/ コインブラへ。(約205km/約2時間30分)
○アベイロ駅舎
途中、ポルトガル独特の装飾タイル「アズレージョ」で飾られている<約15分>
その後、コインブラ観光<約2時間>
◎コインブラ大学〜ジョアニア図書館:ヨーロッパ有数の歴史があり、ポルトガル最古の大学【世界遺産
その後、 ナザレへ。(約215km/約2時間30分)
17:30/ホテル着
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窓の向こうにサンタルジア教会見えず霧の中・・・、残念です
カード式でないのがレトロ 
 
Pousada Viana do Castelo
 
霧でほとんど見えません

晴れていればこんなホテル(ポサーダ)(googlemapより)
出発、アベイロへ 

トイレ休憩のドライブイン

アウディばかり駐車していました
 アベイロ駅舎へ
アヴェイロ(Aveiro)
ポルトガル中部地方にある都市で、アヴェイロ県の県都である。大西洋岸に位置し、ポルトガルにおける重要な漁港がある。
また、小さな魚や貝殻の形をした白い皮の中に、黄金色の卵黄クリームが詰まったオヴォシュ・モーレシュでも有名である。
また、アヴェイロの歴史は、イタリアの海港都市ヴェネツィアと同様に、海を克服してきた「潟」の街でもあることから、しばしば、「ポルトガルのヴェニス」とも呼ばれる。
 10世紀頃には、ラテン語で、「鳥を狩り、また、貯えておく場所」という意味のAviariumと呼ばれていた。
引用;Wikipediaより
※大分市とアベイロ市は姉妹都市です。

旧駅舎を取り壊さず保存しています

この地下も駅になっています

運河の風景
アズレージョ (ポルトガル語:azulejo、スペイン語ではアスレホ)
ポルトガル・スペインで生産される、典型的な上薬をかけて焼かれたタイル。
途絶えることなしに5世紀もの間生産され続け、ポルトガル文化の典型的な要素となった。
引用;Wikipediaより 

川の中州に建つAlmourol アルモウロル城

ポーガ線開通75周年記念

新駅舎、地下にもホームがあります
 
新駅のホーム、普通の駅でした
 
Google mapより

記念公園
Obelisco da Liberdade

オベリスク

ジェネラル・ウンベルト・デルガード公園
正面はアベイロ・パレスホテル
 ジェネラル・ウンベルト・デルガード公園の橋 の銅像、
全部で4体、アベイロの伝統的な衣装を身につけている。

A SALIMEIRA

O MARMOTO
マルノーとサリネイラの記念碑
Monumento ao Marnoto e a Salineira
サリネイラ SARINEIRA
バスケットで塩を運ぶ仕事をしていた女性労働者
マルモ- MARMOTO
木製の道具を使って塩を取り出す職人の男たち。 彼らは強い日差しで日焼けて屈強な体をしており、
かつて、白いウールのシャツ、首の周りの赤いスカーフ、大きな綿のショーツ、頭の上に黒い帽子を身に着けていた。
959年以降はこの仕事をする人はいなくなった。

A PARCEIRA DO RAMO 

O FORGUETEIRO
A PARCEIRA DO RAMO 花売り娘?
伝統的な祭りの日の服を着た女性。 長いショールをはおり、右手に配達する花束を持っている。
O FORGUETEIRO フォゲテイロ
祭りの日に打ち上げるロケット花火を持ったを持っている。この像だけ仕事をしていない。
アベイロは多くの塩を生産し、アベイロ地域の経済に重要な役割を果たしてきた。
しかし、その後は塩の生産は減少し、 わずかな塩田しか残っていない。  

この舳先のとがった船は「モリセイロMoliceiro」と呼ばれています
この船はもともとはモリコ(アベイロの沿岸に生える海藻で肥料にする)
の収穫に使われていた。
 
 
アベイロ市議会
 アベイロの大聖堂に向かいます、道路の左側に金平糖で有名な店があります。
 
Confeitaria Peixinho  アベイロ
コンフェイト(Confeito) 
金平糖、日本のはもう少し小さくてとげがとがっています。
食べると少し柔らかい。日本の金平糖のほうが食感的にすぐれている。
もうひとつアベイロで有名なお菓子が「オボス・モリス」 
オボス・モリスは卵の黄身の入った甘い貝殻最中状のお菓子、、ちょっと私には合いません 
オボス・モリスOvos Molesの由来
アベイロの修道女は卵白を糊代わりに使って衣服をアイロンがけしていた。
残った黄身は捨てずにこのお菓子を作るのに使っていた。
修道院がなくなった後もその製法は受け継がれた。
ポルトとリスボン間に鉄道が開通したときアベイロの駅でこの伝統的なお菓子が売られていた
砂糖と黄身を混ぜて貝殻状のウエハース(最中の皮?)の中に入れている

アベイロの市庁舎

ALBERT SOUT
アベイロのカテドラル (大聖堂) サン・ドミンゴス教会
Catedral de Aveiro ou Igreja de Sao Domingo
聖ドミニコ教会(ポルトガル語:Igreja de Sao Domingos)としても知られるアヴェイロ大聖堂(ポルトガル語:Sede Aveiro)は、ローマカトリックの大聖堂でバロック様式で建築されている。
ドミニコ会修道院として1423年に設立された。 1996年、ポルトガルの国の記念物に登録された。
 大聖堂前の広場360度画像
アベイロの大聖堂の広場 June 10 2018 Catedral de Aveiro ou Igreja de Sao Domingo  - Spherical Image - RICOH THETA
アズレージョの壁面装飾がきれいです 
 大聖堂内部360度画像
アベイロの大聖堂 June 10 2018 Catedral de Aveiro ou Igreja de Sao Domingo - Spherical Image - RICOH THETA
土産用もスーパーで売ってるのも中身は同じとガイドさんは言ってました。食べればみな同じ・・・ 
アベイロの土産物屋で
 コインブラに向かいます、そこで昼食となります
コインブラ(Coimbra)
 ポルトガルの都市および地方自治体。人口は約15万人、面積は約319.4km2。16の自治体、面積約3372km2が集まってコインブラ大都市圏を構成しており、その総人口は43万人以上。バイシュ・モンデーグ地域の中心都市で、コインブラ県の県都でもある。セントロ地方(Regiao Centro)で最も大きな街である。市外から大学に通う学生たちも多い。
 リスボン大都市圏、ポルト大都市圏に次ぐ重要な地域であり、セントロ地方の都市を束ねる役割を果たしている。1139年から1255年までポルトガルの首都で、古代ローマ時代にはアエミニウムと呼ばれ、当時の遺跡が今でも残る。1290年にコインブラ大学が設立されたことによって、ポルトガルの文化的中心地に発展した。コインブラ大学はヨーロッパで最も古い大学のひとつで、観光客も多い。 
引用;Wikipediaより  
 
 コインブラで昼食

ポルトガルのパンはおいしいです

ひよこ豆のスープ

ジャムではなく、ペーストです

カモ肉を混ぜたライス

サラーダ・デ・フルータ
日本でもよく出るフルーツのシロップ付け

昼食のレストラン CARMINA DE MATOS(コインブラ)

コインブラ駅
「ポルトガルの洗濯女」 
昔、モンデゴ川で洗濯をする女性たちが見られたそうです。
昔の日本でも田舎に行けば共同の洗濯場あるはずです。
イベット・ジローがシャンソンで歌って有名になった
イヴェット・ジロー YvetteGiraud のシャンソン「ポルトガルの洗濯女」
Les Lavandieres Du Portugalの日本語訳 

コインブラ"もファドで有名です
コインブラファッドはリスボンファッドと違い歌手は男性だけ

ポルトガルギターを模した女性像
 
コインブラのファド

ポルトガルの郵便ポスト
 ポルトガル語で correio とは郵便局のこと
正式にはポルトガルの郵便局はCTT(Correio Telefone Telegrama)

アルメディ-ナ門
 
Arco de AlmedianまたはAlmedinaのArch
昔のコインブラへの唯一の入り口で、コインブラの残存するムーア様式建築の1つである。
ムーア人は711年にイベリア半島を侵略し、イベリアと西部フランスの一部を征服した。
その状態は1148年にエンリケス・アフォンソが最初のポルトガル王になるまで続いた。
ムーア人の占領時には、イベリアの様々な文化が互いに平和に共存していた。
今日まで、ムーアの文化の多くは、建物や都市の街路計画、ポルトガル語の言語でも見ることができる。
Arcos de Almedinaは2つのアーチ状の入り口から成っており、外側の門から旧市街に入り、Arco de Almedina pequeno(小さな)と呼ばれる内側の門がある。 門はムーア建築の典型例であり、中世のコインブラの町がどんなものであったかを示している。 
 
コインブラで有名なパン屋 ブリオーサ
Pastelaria Briosa Coimbra 

ススピロスSuspiros(メレンゲ)
デザートを作るのに卵黄使った後、
余った卵白(メレンゲ)と砂糖を混ぜて焼いたお菓子、メレンゲの焼いた物。
修道院では一般的に食べられていた。

ブリオーサが経営する別店ブリオシンハBriosinha

サンタ・クルス教会の横の市庁舎
サンタ・クルス修道院 (Mosteiro de Santa Cruz)
サンタ・クルス教会(Igreja de Santa Cruz)の名で知られるポルトガル・コインブラの史跡である。
1131年にコインブラの城壁外に建てられ、ポルトガル王国初期における最も重要な修道士の館となった。
中世においては付属の学校が極めて重要なものとなり、知的あるいは政治エリートの集う場所となっていた。
アフォンソ1世が自らの意思によりサンタ・クルースに埋葬された。
マヌエル1世の命により全面的に改装され、初期ロマネスク様式建築は残っていない。
引用;Wikipediaより 

サンタ・クルス修道院 Mosteiro de Santcruz
正門はマヌエル様式とルネサンスの影響を調和させており、
この修道院の最も象徴的な部分となっている。 
1131年アフォンソ・エンリケスがロマネスク様式で建て、
その後16世紀にマヌエル1世によってマヌエル様式に改造された。

ポルトガル特有のパイプオルガン
主祭壇の両側にアフォンソ1世と息子のサンショ1世の墓がある 
マヌエル様式
15世紀後半から16世紀のポルトガルで流行した建築様式である。
代表的な建築物にヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓を記念して建立されたジェロニモス修道院、
トマールのキリスト教修道院が挙げられる。
引用;Wikipediaより
壁面には18世紀のアズレージョ 、左の画像の壁から飛び出しているのは説教壇
キリスト像がなく天国への階段があります 

カフェ・サンタ・クルス
「ペドロ王子とイネス・デ・カストロの悲恋物語」の舞台となったコインブラの町
1339年、ペドロ王子は父王アルフォンソ4世によるカスティーリャ王国(ポルトガルと隣接し友好関係をもつ必要がある)との政略結婚で王女コンスタンサと結婚した。そのとき王子は王女に付いてきたイネス・デ・カストロが好きになってしまった。(愛人関係)
結婚後、子供を産んだ後、コンスタンサは病気で亡くなり、ペドロ王子とイネスと不倫関係になってしまった。
しかし、カスティーリャ王国に気兼ねする王とイネスに反感をいだく家臣がイネスとその子供を殺害した。
ペドロ王子は父王に反抗出来なかったが、父王が亡くなり、ペドロ王子がペドロ1世として王位につき、イネスを殺害した家臣への復讐を開始した。ペドロ王子はサンタ・クララ修道院に埋葬されていたイネスの墓を掘り起こし、遺体を玉座に座らせ、家臣にその手に接吻させ、王妃であることを認めさせた。その後、関係した家臣全員を殺害した。 
イネスの遺体はアルコバッサ修道院に埋葬された。
詳しくはここをクリック
※コンスタンサの子供とイネスの子供の家督争いが原因という説もある。
イネスが住んでいた館がコインブラにあり、涙の館と言う。それは現在はホテル(事実はまったく関係ない貴族の館)になっているとのことです。 
〇サンタ・クルス修道院とファティマの奇跡
1917年5月13日、ポルトガルのファティマで3人の子供の前に聖母が現れ、3つの予言をした。死後の地獄の存在、第一次世界大戦の終結、最後の予言(ヨハネ・パウロ2世の暗殺未遂事件だろうと言われている)は秘密とされた。
3人の子供うち、最後まで生き残ったルシア・ドス・サントスは修道女となり、この修道院で2005年2月13日に亡くなった。
このような因縁のある教会です。
サンタクルス修道院前 360度 「5月8日広場」"Pr. 8 de Maio"
サンタ・クルス教会 コインブラ June 10 2018 補正画像 - Spherical Image - RICOH THETA
  旧コインブラ大学図書館と礼拝堂

鉄の門(ポルタ・フェレラPorta Ferrea)、別名”無情の門”
 無情の門とはこの大学の学生はこの門を入ったら学問以外のことを考えてはならないとの教え
コインブラ大学
13世紀に設立された世界最古の大学のひとつである。ポルトガル屈指の名門国立大学とされる。
大学が街の中心とみなされ、黒いマントを着たコインブラ大学の学生が行き交う。
約2万2千人が学んでいる。8つの学部が存在し、その学部ごとにシンボルカラーがある。
1290年にポルトガル王ディニス1世によって設立され、神聖ローマ帝国が各国の著名な研究者を集めた研究組織ストゥディウム・ゲネラーレの認定をヴァチカンから受けている。
引用;Wikipediaより 

学生のマントの切れ端?、学生のいたづら?
 
ラテン回廊 Via Latina、左は時計塔で「カブラ(山羊)」と呼ばれている。
ラテン回廊と呼ばれるのはここではラテン語しか話してはいけないから。
ラテン回廊 Via Latin 
コインブラ大学図書館中庭360度画像 
コインブラ大学図書館中庭 June 10 2018 - Spherical Image - RICOH THETA
 
左方向から図書館、礼拝堂、入り口

図書館 Biblioteca Joania

右図書館と礼拝堂の入り口

礼拝堂入り口
Portal of s.Michaels's Chapel
図書館内部(撮影禁止なのでFlickerのライセンスフリー画像
コインブラ大学は13世紀(1290年)、日本の鎌倉時代に開学した。ここの図書館は1724年に建てられた。
30万刷の蔵書がある。デジカメ禁で撮影出来ず。雰囲気としてはハリーポッターの映画のようだ。
※図書館の画像サイトはここをクリック
本の紙を食べる虫を捕らせるためコウモリを飼っており、夜間はコウモリの糞でテーブルが汚れるのを防ぐためシートを敷いている。
2013年に「コインブラ大学ーアルタとソフィア」としてユネスコの世界遺産に登録された。

武器の間
 武器の間360度画像
コインブラ大学_01 June 10 2018 ポルトガル coinbra univercity portugal - Spherical Image - RICOH THETA

帽子の間(Sala dos Capelos)
学位授与式などの儀式に使われる

帽子の間(Sala dos Capelos

大学からコインブラの町を望む
 帽子の間360度画像
コインブラ大学_02 June 10 2018 ポルトガル coinbra univercity portugal - Spherical Image - RICOH THETA
   
 コインブラ大学礼拝堂

ポルトガルのパイプオルガンは横に突き出るパイプが特徴

ここもキリスト像がなく天国への階段
 
   
コインブラ大学礼拝堂360度
コインブラ大学礼拝堂 June 10 2018 - Spherical Image - RICOH THETA

大学創設者のジョアン3世像
Estatua de D. Joao III
ジョアン3世(1502 - 1557)
ポルトガル王(在位:1521- 1557年)。「敬虔王」(O Piedoso)と呼ばれる。
マヌエル1世とカトリック両王(アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世)の三女マリアの息子。 
1537年、コインブラ大学を創設する。イグナチオ・デ・ロヨラがイエズス会という新修道会を創設したことを耳にした王は、ポルトガル植民地内の異教徒へキリスト教を布教する宣教師を派遣してほしいと依頼した。
ロヨラが推薦したのが、フランシスコ・ザビエルとシモン・ロドリゲスであった。こうしてザビエルはアジアへ赴くことになる。
引用;Wikipediaより
 
左側コインブラ大学医学部、右側コインブラ大学物理学科
   

大学図書館

大学創設者のディニス王の像
Estatua de D. Dinis
ディニス1世( 1261 - 1325)
第6代ポルトガル王(在位:1279 - 1325)。
アフォンソ3世と2番目の王妃ベアトリス・デ・カスティーリャ(カスティーリャ王アルフォンソ10世の庶子)の長男。
農民王(O Lavrador)の異名で知られている。 
リスボンにエストゥード・ジェラル(一般教養学院)を創設した。コインブラ大学の前身である。
1290年、教皇勅書により大学となり、ポルトガル語の文法、教会法、民法、医学を教えた。
引用;Wikipediaより
ジョアキム・アントニオ・デ・アグイアール ポルトガルの政治家
Monument to Joaquim Antonio de Aguiar  
ポルタジェン広場 Largo da Portagem
ジョアキム・アントニオ・デ・アグイアールJoaquimAntoniode Aguiar ( 1792 - 1884 )
]ポルトガルの政治家、フリーメーソン、 チャーチスト運動の指導者であった。 彼はポルトガル 大臣評議会に3度参加し、 大統領の顧問だった。 彼の政治力、教会大臣、司法法裁判官の権力を使って1834年に有名な反教会法「 修道院、大学、ホスピスなど宗教関係施設 」を国の管轄として宗教秩序を解体しようとした。  
引用;Wikipediaより
 
コインブラからナザレへ

今夜の泊まりのホテル・マーレ

Mare(マーレ)は海、イタリア語も同じ
ナザレ (Nazare
ポルトガルの町、及び基礎自治体。3つの教区を持ち、レイリア県に属す。
コスタ・デ・プラタ(銀海岸)に面したポルトガル屈指のリゾート地である。
言い伝えによれば、4世紀にパレスチナのナザレから一人の聖職者が聖母マリア像を持ち込んだことにちなんで町の名がついたという。
ナザレは、絵のように美しい海辺の村として町を売り込み、人気の観光地となった。大西洋に面し、長い砂浜を持ち、夏期には観光客で混雑する(ポルトガルでも良質の砂浜とされる)。一方で、ナザレは漁民によって編まれる伝統的衣装も知られる。既婚女性たちは黒衣を着込み、伝統的なスカーフで頭部を覆い、刺繍をほどこしたエプロンを多色使いのフランネルのスカートの上に重ねる。これらの装束は今も時折見られる。
引用;Wikipediaより
 
夕食のレストランサン・ミゲル(S.MIGUEL)
 メインを撮し忘れた・・・・
 
Leziria Tinto   

ソウザ・オリベイラ広場

レストラン サン・ミゲル(S.MIGUEL) 

レストラン・サンミゲルのホームページより引用
 
 ホテルのロビーに飾ってあった写真
 
昔のナザレの漁師
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