2017年10月2日(月) 4日目
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パレルモ(イタリア語: Palermo )
イタリアのシチリア島北西部に位置する都市であり、その周辺地域を含む人口約68万人の基礎自治体(コムーネ)。シチリア島最大の都市にしてシチリア州の州都であり、パレルモ県の県都でもある。
独自の国際色豊かな文化を生み出した中世シチリア王国の古都である。
引用;Wikipediaより
今日はモンレアーレの大聖堂を見に行くことにした。モンレアーレはパレルモ郊外の標高310mのプート山にある。
モンレアーレへはノルマン王宮のバス停から389番のバスに乗れと地球の歩き方に書いてあった。
無料バスがノルマン王宮まで行くので市内の見物がてら、近くの停留所で無料バスに乗り込んだ。

無料バスは結構便利、市内の観光にもなる
 フェリ−チェ門に行く途中でサンドメニコ教会の前を通過、14世紀のバロック様式の教会

サン・ドメニコ教会、14世紀のバロック様式の教会

無原罪聖母の像
サン・ドメニコ聖堂
シチリア島のバロック様式の最も重要な記念建造物であり、イタリアの島では最大の教会の1つです。 1640年に有名な建築家、アンドレア・チリンチーネによって建てられた。この場所には15世紀からルネサンス様式の教会があった。サンドメニコ教会と同名の広場には疫病からの人々を守る無原罪聖母の柱がある。.

Palazzo delle Poste パレルモ郵便局

神殿風の柱
パレルモ郵便局Palazzo delle Poste
20世紀初めに建築家Angiolo Mazzoniによって設計され、建設は1929年に始まり、 1934年 10月28日に完成。 建設中、 パレルモの洪水 ( 1931年)でこの建物に取りつけていた大きなクレーンが強風で倒れ近隣の建物が倒壊しました。さらに1988年に火災で被害を受け、修復作業が行われた。建物スタイルはファシスト期の典型で、 イタリアの合理主義の流れに従っている。
引用;Wikipediaより
 
 海馬の噴水のところでバスは終点、ここが起点になっているようで、もう一台前に止まっているバスに乗り換えた。

このバスに乗り換えた

王宮前地図

無料バスがノルマン王宮に到着、下車

切符を買って、389番のバスに乗り込む

1時間に1本の運行です

時刻打刻機
切符に時刻印字を忘れないように
 
 
モンレアーレのバス停からパレルモの町が見えます

モンレアーレのバス停

時刻表です

グリエルモ2世広場

『聖母マリアにドゥオーモを捧げるグリエルモ2世』
シチリア王国ノルマン朝の第3代国王(1166-1189)。第2代国王グリエルモ1世の息子。ギヨーム2世、ウィレルムス2世とも呼ばれる。 

絵のように見えますが、金地のモザイクです
中央の丸天井には巨大なキリストの上半身像と聖母子座像、また左右の後陣には聖ペテロと聖パウロの全身像が描かれている
 
聖パウロの礼拝堂

 
 
身廊のモザイク絵は創世記から始まり、旧約聖書におけるキリストとその贖罪、キリストの降臨を予言し、その準備をした人々の絵が描かれている。下段と内陣周辺には新約聖書に基づく挿話が描かれており、キリストがもたらした奇跡と受難や、使徒、福音伝道者、その他の聖人が題材となっている。

旧約聖書の「エデンの園のアダムとイブ」

永遠の叱責 エデンの園から追放
 
働かなければ食料を手に出来ない

旧約聖書の物語「カインとアベル」
 モンレアーレ大聖堂(イタリア語: Duomo di Monreale)
ノルマン建築様式の代表的遺産の1つ。2015年にはパレルモの建造物群などとともに、世界遺産リストに登録された。
1174年、グリエルモ2世の命により被昇天の聖母に捧げる教会として建設が開始され、1182年に完成した。
教会内部のガラスモザイクは総面積6,500平方メートルにも及ぶ大規模なものである。教会内部は背が高い大理石板の台胴を除き、アーチの下端と脇柱を含めたすべての面が金の地に鮮やかな色のモザイク絵で精密に彩られている。
引用;Wikipediaより

大聖堂を造らせたグリエルモ二世の大理石製石棺
後: 斑岩製のグリエルモ一世の石棺 前:大理石製のグリエルモ二世の石棺
 
モンレアーレ大聖堂(イタリア語: Duomo di Monreale) 02 Oct 2017 - Spherical Image - RICOH THETA

モンレアーレ大聖堂内部360度パノラマ
 大聖堂の屋上に上ってみました。

屋上に上がる通路

隣のベネディクト修道院の中庭が見えます
修道院の見学は別料金です

ベネディクト修道院の回廊、228本のアーチに囲まれた中庭

シュロの木をモチーフにしたアラブ風噴水
 
屋上からのパレルモの町のパノラマ
大聖堂屋上からの眺め 
 
google earthより引用
モンレアーレの町の中 

モザイクの実演販売

ジューススタンド

opunzia、ficodindia、prickly pears
すべてウチワサボテンの意味
この実をジュースにしてくれるようです。 
 ヴィットリオエマニュエーレ広場 

広場のトリトンの噴水、

トリトン
パレルモ生まれの彫刻家マリオ・ルテッリ( 1859-1941 )の作品、彼はマッシモ劇場前のライオンのブロンズ像も制作している 
トリトン(Triton、 Neptune I)
ギリシア神話に登場する海神である。海神ポセイドーンとアムピトリーテーの息子。人間の上半身と魚の尾を持つ人魚のような姿で描かれるのが典型である。トリトンという名前は「(世界を構成する)第三のもの」、即ち母のアムピトリーテーと同じく海そのものを意味する。
三叉の矛(トライデント)を持っている。しかし、彼の最たる特徴は、波を立てたり鎮めたりするためにラッパのように吹く法螺貝である。
引用;Wikipediaより

エマニュエーレ広場

古本屋さん

ジェラートではなくグラニータ

グラニータ、イチゴとレモン
ジェラートではなく、シチリア名物のシャーベット『グラニータ』を食べてみました。
その歴史は古く、シチリアがアラブ人に支配下の9〜10世紀頃に果汁を冷やした飲み物「シャルバート」(シャーベットの語源)が飲まれていた。アラブ人がそのレシピをシチリアにも持ち込み、冬期のエトナ山に積もった雪を氷室に保存し、それを夏に取り出して果汁を混ぜてシャーベットにして食べていたそうです。
グラニータを食べていたのでバスの時間に間に合わないと思い、次のバスにしたら、時間どおりに来ない。30分くらい待った。
前のバスもかなり遅れていた可能性があり、間に合ったかもしれない。(日本的な時間感覚はイタリアでは通用しない)
パレルモに戻ってノルマン王宮を見学することにした。
 
 
ノルマン王宮周辺地図
ヌォーヴァ門
王宮に隣接して16世紀に建てられたヌォーヴァ門(Porta Nuova)。
王宮自体がパレルモの街を取り囲む城壁の一部を成しているので、これはその城壁に開けられた門の1つとなる。
神聖ローマ皇帝、スペイン・ハプスブルク家のカール5世の、チュニジア戦役からの凱旋帰国を記念して建てられました。
アラブ人に対する勝利の象徴として、ターバンを巻いたアラブ人が彫刻されています。
また屋根のマヨルカ焼きの鷲は、パレルモ市の紋章です。
引用元
 
パレルモ市の紋章

ヌオーヴァ門、ルネッサンス・アラブ・ノルマン混合様式の門
門の両側に彫り込まれているアラブ人像 
 少し、天気が悪くなり、雨が降り出した。王宮の入り口が分からない。
工事をしていたおじさんに聞いたら、反対側だと教えてくれた。

ノルマン王宮裏側(実際は正面)シチリア州議会場

ノルマン王宮入り口
 画像右:右側がノルマン時代の名残のピサーナの塔(別名、サン夕,ニンファ塔) 

パラティーナ礼拝堂、金箔モザイク
 パラティーナ礼拝堂(ノルマン王宮内)(Cappella Palatina)
長さ32m、幅12.4mの小さな礼拝堂は壁一面が金箔モザイクで造られている、2007年に2年に渡る修復を終え、以前の輝きを取り戻しました。
初代ノルマン王ルッジェーロ2世の戴冠の年、1130年に建設が始まり、1143年に献堂された。
この礼拝堂は、ルッジェーロ王個人の礼拝堂として王宮内部に建てられた。
建設にはノルマン人の到達以前にシチリアを支配していたギリシャ人(ビザンチン帝国)、イスラム教徒が携わった。
『創世記』や『キリストの生涯』、『聖ペテロと聖パオロの物語』などが描かれた、イスラム風の天井なども見所である。
引用元
パラティーナのパラティン(palatine)はラテン語のパラティヌスが語源でもともとは「宮殿」を意味し、その後、パラティンは「宮殿の高官」の意味を持つようになった。
玉座の聖母  旧約聖書にある話で、パウロがキリスト教布教のためダマスカスに向かった。しかし、ユダヤ教徒からみればパウロは裏切り者であり、ユダヤ教徒に反感を買い殺されかける。それでパウロの弟子たちがダマスクスの城壁からかごに吊り下げて脱出させるという場面。
モンレアーレ大聖堂とパラティーナ礼拝堂は大きさはかなり違うが、モザイクの図柄はとてもよく似ている。 

アダムの創造
 余談)
パウロはトルコに生まれたユダヤ人でローマの市民権も持っていた裕福な人であった。彼は厳格なユダヤ教信者でキリスト教信者の弾圧のためシリアに向かっていた。シリアの国境付近で強い光を当てられ、彼の目が見えなくなった。
そこにイエスが現れて『なぜ私を迫害するのか』と問いかけた。イエスはパウロにダマスカスのまっすぐな道に行って聖アナニア(シリアのキリスト教会の長老)に会うように言われる。アナニアがパウロの目に手を置くと目からうろこのようなものが取れて視力が回復する。その後、彼はキリスト教に回心するというお話。
マクエダ(cortile maqueda)の中庭、パラティーナ礼拝堂の入口はこの中庭の2階にある。
外は雨、おまけに雷が鳴っている。
※「Maqueda」はアラビア語の「Maqqada」(「安定」、「固い」)を意味します。 アラブ語の「戦略的に配置された」または「強力な広場」を意味するマキダ(Makida)に由来するとされている。

かわいらしいライオン、狛犬のようでした。

絵の修復作業中 中国の間


イタリア王ウンベルトT世(1857-1927)

 王宮の前のヴィットリオ広場(Piazza della Vittoria)にあるボナンノ公園( Villa Bonanno )
スペイン・ナポリ・シチリア王フェリペ4世(1621- 1665)の記念碑 
ボナンノ公園( Villa Bonanno )
パレルモ市長ピエトロ・ボナンノの邸宅として設計されたが、1905年にノルマン宮の前に公園として再設計されてできあがった。
王宮前の停留所で少し待っていたら、無料バスが来た。それに乗ってマッシモ劇場付近で下車し、ホテルに戻った。
ホテルにもどったら、フロントの男性がやってきて、部屋のバスの水回りに異常があるので部屋を変わってほしいという。
別に断る理由もないので承知した。部屋で一服していると突然停電、外ではピー、ピーと警報音が鳴っている。
ホテルの外へ出てみると周辺の建物の照明が消えている。
雨が降っていて雷が鳴っている、どうも変電所に落雷があったようだ。
30分くらいで照明がついた。雨が止むまで部屋で仮眠をとることにした。
午後6時頃になり、雨がやんだので今日の夕食はマッシモ劇場の正面の通りの小さなレストランがあるところに出かけた。

シチリア風海鮮スパ、これは旨かった

ムール貝も旨かったし、ミックスサラダもよかった。
やっぱり、量が多い、1人前で2人前くらい。よっぽど大食いでないと1人で2皿は無理。 
今夜の食事は正解だった、必ずしも有名レストランがいいとは限らないことが分かった。

値段はリーズナブルな店だった

マッシモ劇場の正面の小さな通りに食堂がたくさん
 明日はアグリジェントのギリシャ遺跡を見て、シラクーサに向かいます。
お休みなさい・・・・
余談ですが、今日が月曜日でなければ州立美術館に行く予定でした。残念ながら月曜日は休館でした。
この美術館でぜひ見たかったのが、アントネッロ・ダ・メッシーナ「受胎告知のマリア」であった。
しかし、だめだった。残念・・・。
受胎告知のマリア、この青が特徴的と言われている 
通常はマリアと大天使ガブリエルの2人を左右に配した構図を取る。しかし、アントネロの『受胎告知』に描かれるのはマリアのみで、大天使の姿はなく、大天使の位置に立つのは我々鑑賞者、という設定になっている.。
引用;Wikipediaより 
アントネロ・ダ・メッシーナ(Antonello da Messina, 1430 - 1479)
15世紀ルネサンス期に活動したイタリアの画家。着飾ったモデルを描く肖像画や、宗教主題を取り扱った絵画作品を得意とした。
肖像画に関してアントネロ・ダ・メッシーナは、南ネーデルラントのモデルに基礎を置く、斬新で活力に満ちた肖像画の典型をイタリアにおいて確立した。またティツィアーノ、ヴェロネーゼらの巨匠を生んだヴェネツィア派の初期の重要な画家であり、ヴェネツィア・ルネッサンスの展開については重要な役割を果たし、とりわけフランドル風の細密描写をイタリア絵画に導入した点で注目されている。
また、イタリアにおいて油彩の技法を本格的に用いた最初期の画家でもある。
メッシーナに工房を構え、そこでは息子のジャコベッロ・ダントニオと甥のアントニオとピエトロ・デ・サリバとサルヴォ・ダントニオが働いていた。これら「アントネロ派」Antonelleschiには地方におけるアントネロ・ダ・メッシーナの続く世代への影響を確認することができる。
引用;Wikipediaより
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