6月27日(金) モレヤ(Morella)へ 3日目
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※スペイン語の”ll”は”y”に近い発音になるようです、しかし、”ジャ”と聞こえるようにも思います。
朝8時頃に起き、例のごとく簡単な朝食を摂り、カステジョンの市内を歩いてみた。昨日の騒ぎも収っていた。
泊めてもらったフラットの付近はオールドタウンでほぼ昔のままの建物がそのまま残っています。
しかし、最近では古い建物が建て直されているようです。しかし、大阪のように好き勝手なデザインは許されないようで町の景観は保っているようです。

この建物は古いそうで、かなり値段が高いそうです。このあたりは1階を商店にレンタルし上階を住居にしているそうです。

朝のテラスカフェ、古い町並みにマッチししている。

市場(右側)の横の広場

通りの間に聖母像?ここで町の人が拝んでいくそうです。
日本の地蔵さんのようなものでしょうね。

宝くじ(ロト)売り場、スペインでは人気があるようです。

装飾したバルコニーが古い町の家の特徴だそうです。

古い家が放置され、つぶれかけています。


スペインでもiPhoneの広告が出ていました。ここでは数社の電話会社が扱っているようです。

広場の横の市場と近くのスーパー(カルフール?)に入ってみました。(市場やスーパーに行くのは私の趣味ですのでご容赦ください)
日焼け止めクリームを買いました。さすがに、かんかん照りだと日焼けして真っ赤になってしまう。それから市場に行ってみた。

朝食に出たカスクート似た堅い小さなパン、朝食には常番のようです。

スイーツのショーケースで売られていたお菓子、なんだか分からない?
virutas切りくず(chips)、miniaturaミニチュア、tartaケーキ、patataじゃがいも

市場の入り口

スペインも生ハム(イベリコブタ)で有名、太ももに肉をぶら下げて売っている。

タラに似た白身魚も売っている。唐揚げがうまい。
salazon:塩漬け 

日本のイイダコのような小型のタコ
estan limpios これらは清潔である。pulpitosはタコ(複数)という意味

pescadosは魚(複数)、mariscosは海の幸(複数、貝、エビ、カニ、まれに魚を含む)
買い物を済ませた後、モレヤ(Morella)に行くことになりました。ここはスペインの古城としては有名なところであり、また7月の牛追い祭りではかなり有名なところです。
なぜここに行くことになったのかはもう一つ理由があります。
友達の生まれ故郷(彼女はスペイン生まれで英国人と結婚しロンドンに在住)で、しかもここの教会で彼氏と結婚式を挙げたとのことです。
思い出深い場所でぜひ来て欲しいということでした。
   
モレヤの場所はカステジョンとビナロスの
中間の北方向の山にあります。

冬は寒く、雪が積もりそうです。
モレヤの途中でトイレ休憩に小さな村のレストランに立ち寄りました。
このレストランにくっついて教会があり、その一部が巡礼者用の宿泊施設になっていました。

ここから巡礼者が山道を登り、モレヤの教会に登っていくそうです。
また、モレヤからこのふもとの村まで牛追い祭りで牛が降りてくるそうです。

モレヤが見えてきました

右手に見えるのが教会、隣接してレストラン

教会正面、入り口は左手にある

モレヤの牛追い祭りのポスター、7月5日のようです。

牛追い祭りで有名な所は”バンブローナ”でしょう。
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サン・フェルミン祭(スペイン語 Festa de San Fermin)は、スペイン、ナバラ県パンプローナの祭。セビーリャの春祭り、バレンシアの火祭りと並び、スペイン三大祭りの1つとされる。

牛追い(エンシエロ)が有名で、「牛追い祭り」の別名で知られる。ただし、エンシエロはスペインで闘牛の前に広く行われていた催しで、この祭に限ったものではない。他にエンシエロをする祭には、バイヨンヌのバイヨンヌ祭、プエンテ・ラ・レイナのサンティアゴ祭などがある。

パンプローナの守護聖人サン・フェルミン(不詳 - 614年)にちなむ。毎年、サン・フェルミンの記念日である7月7日をメインの日とし、7月6日から7月14日までの9日間開かれる(ただし7月6日は前夜祭的なスケジュールでエンシエロなどはないため、7月7日からと紹介されることもある)。
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ここの地名はどこか聞くのを忘れたが、google earthで調べてみるとLa Vallivanaという所だろう。モレヤの城壁が見えてきた。
一山を超えるためのヘヤピンカーブに入ったが一車線工事中で交互通行になっており待たされる。
ここを超えればモレヤまでさほど時間はかからなかった。


google earthで見るとモレヤはこんな町です。

駐車場から町への入り口

モレヤの町

モレヤの町

サンタ・マリア聖堂

13世紀アラゴン王国のモレヤ征服後に、モスク跡に建設された教会。ゴシックの装飾が美しい。

サンタ・マリア・ラ・マヨール教会

教会内部、彼と彼女はここで結婚式を挙げたそうです

左の写真の後方

本来窓があるはずだが、山の斜面のため塞がれている。

パイプイルガン

バラ窓のステンドグラス
13世紀末に王の要請で陪審員としてモレヤに聖フランシスコ修道会員が派遣された。この修道院で郡から税金の管理が行われた。
この城の位置はサラゴサとバレンシアから等距離にあり、またバルセロナからもほぼ等距離にある。この付近では唯一王の支配下の城であった。

この城はイスラム支配時代からあり、エル・シドもここを攻略しようとして城の周りに火をかけたという話しも残っている。
その後、アラゴンの貴族ブラスコ・デ・アラゴンがサラゴサのイスラム王国からモレヤを奪い返した。
アラゴン王ハイメ1世はモレヤ城は軍事的に重要であり、王家が所有すべきであるとし、ブラスコの死後、王領とした。
現在の形は第三次カルリスタ戦争(1872〜1876)の時に要塞化された時のものである。

この城と城壁は1931年の臨時共和国政府の最初の活動として国の記念物と認定された。しかし、10年後の政府の崩壊でそのままにされたが、数年前から修復が始まった。城が崩壊の危険に曝されており、雨水による浸食予防策が行われている。
カルリスタ戦争
フェルナンド7世の娘イサベル2世と、弟カルロス(5世)のスペイン王位継承争いで、自由主義勢力(イサベル派)と王政擁護派(カルロス派)の両派が加わった戦争になった。自由主義政府に反発するバスクが王政派についたりして混乱状態となった。1833年から1876年まで3次にわたって行われた。

サン・フランシスコ修道院

修道院の中庭から城に登る、以前は別の道があったが現在は城へ入るにここから入り有料になっている。

修道院礼拝堂の壁画、『死者の踊り』(15世紀)
骸骨を囲んで、貴族たちが手を取り合って踊っている。壁画の音符と文字はグレゴリオ聖歌の一節らしい
グレゴリオ聖歌
西方教会の単旋律聖歌(プレインチャント)の基軸をなす聖歌で、ローマ・カトリック教会で用いられる、単旋律、無伴奏の宗教音楽である。主に9世紀から10世紀にかけて、西欧から中欧のフランク人の居住地域で発展し、後に改変を受けながら伝承した。教皇グレゴリウス1世が編纂したと広く信じられたが、現在ではカロリング朝にローマとガリアの聖歌を統合したものと考えられている。
引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

壁画拡大

楽譜部分拡大

青いドームの方の内部、博物館にでもするようで現在、修復中

展示されていた出土品

修道院の庭、正面の回廊を通って城に登る


モレヤ城は18世紀の王位継承戦争時に火薬庫に落雷し城の西側部分が完全に破壊された。フランスからの独立戦争(1808 - 1814)でフランス軍の攻撃とモレヤ解放に参戦した人達の大砲で砲撃された。カルリスタ戦争(1833-1876)ではここに立てこもったカルリスタ軍を政府軍が攻撃したため城壁にはたくさんの弾丸の跡が残っている。

城の中央部のセロキア〈Celoquia〉の塔が、イスラム時代の面影をわずかに残している。

岩盤に大きな穴が開いています。大砲の弾の後か?

初代モレヤ総司令官ラモン・カブレラ
ラモン・カブレラ(1806〜77)は、トルトサ出身の軍人で「マエストラスゴ(テルエルとの県境にある山)の虎」と呼ばれた。1833年の第1次カルリスタ戦争でカルリスタ軍(カルロス派、王政復古派)に参戦した。1836年1月、トルトサ方面に侵攻したカブレラは、占領した都市の市長を銃殺刑にした。政府軍は報復として彼の母親を反逆罪の汚名を着せ銃殺した。

1838年、カブレラは、政府軍の支配下にあったモレヤを奪還した。堅固なモレヤ城を陥落させるため闇に乗じて城壁の警備兵を倒し、内部に潜入し内側から門を開け、味方を引き入れ占領したと言われている。

その後、1839年、政府とカルリスタ軍総司令部間で和平協定が結ばれて戦争は終結した。1840年、政府軍のエスパルテーロ将軍がカブレラの立てこもるモレヤ城を包囲し最終的に陥落した。しかし、カブレラは、城から脱出し、フランスからイギリスへ渡り、その地からカルリスタ勢力を支援した。

市民戦争(スペイン内戦)時の大砲

町の闘牛場、こんな小さな町にもあるのには驚いた。さすがに牛追い祭りで有名な町だ。

町を囲む城壁


山の上に並ぶ風力発電機の風車


今回の旅行で初めて見たモレヤの猫


モレヤ付近の山では化石がたくさん出土する。子供が小遣い稼ぎに道ばたで売っていた。土産物屋では偽物(特にきれいなもの)を売っていることが多いそうだ。

町中は一部アーケード状になっている。やはりベランダが特徴。

許可車以外侵入出来ないように道路の真ん中にポールが出てくる。
車が入った後、ポールが上がってくる。その上に乗って遊んでいる。

町は山の斜面にあるので道路はつづら折れになっている。それで近道の階段が作られている。

モレヤにもある百均ショップ

工芸品生産ADELL、タイル作りの看板
ARTESANAL:職人の、手仕事の

ここはスペインの王家とも関連が深いようでスペイン王室の人が来て泊まったホテルがありました。
避暑にはいいところですが冬は雪も降り、寒いそうです。地中海気候で暖かい所ばかりではないようです。

まだ、夏のバカンスの時期ではないので観光客は少なかったですが、シーズンになるとかなり観光客が多くなるそうです。
しかし、意外だったのはこの小さな町に銀行が3店あることでした。

昼過ぎになったので、スペインでは昼食は午後2時頃からのようです。レストランも客が入ってにぎやかになっていました。
英語も聞かれるので英国か米国あたりからも観光客が来ているようです。

昼食に立ち寄ったレストラン”CASA PERE”
C/BLASCO DE ALAGON N゜24 Morella(Castellon) Espana 

店の内部、カウンターで酒を飲んでいる人達

でかい揚げ餃子のようなもの、中はチーズ(?忘れた!)が入っている。
”エンパナリーヤ”というものでしょうか?

パン・コン・トマテ(トマトすり込みフランスパン)、生ハム、スモークド・サーモン、ビールはサンミゲル。

バカラオ(タラ)の唐揚げ、結構うまい、おすすめ。

ツナ、これは日本の水炊きの缶詰と同じで味がない。

店のオーナーとツーショット、日本から来たと言ったらコーヒーをサービスしてくれた。
※スペインのコーヒーはスタバやマック以外ではエスプレッソが普通。”コン・ラチェ”か”with milk”と言わないと普通のコーヒーは出てこない。

サービスに出してくれたハーブ酒
アルコール濃度が高く、飲めなかった。
モレヤの名物らしい。

まだ、6月の終わりなので観光シーズンには早く観光客は少ないが、7月の中頃にはかなりの数の観光客が訪れるそうです。

スペインの郵便ポストは黄色

彼と彼女は教会で結婚式を挙げた後、この石段をウエディングドレスを着て歩いて降りたそうです。下りとはいえ、少し重労働ですな・・・・。

左角がこの町のパン屋さん、焼き窯用の薪がたくさん積んである。ガスで焼くのではないようです。

モレヤの特産物としてトリフ(Trufa)があるようです。トリフ入りのチーズ(queso)のようです。negraとあるので黒トリフが入っているようです。

オリーブオイル(トリフ入り?)と黒トリフ

モレヤで有名なお菓子『フラオンスFlaons』、パイ生地で包んで焼いてある。油で揚げているのではないとのことです。アップルパイかと思って食べたが違っていた。うまかった。
この菓子は凝乳(カード)とアーモンドで作られているとのことです。
※凝乳(curd)とは牛乳がかたまって豆腐状になったものでチーズの原料になる。

土産物屋の化石、あまりきれいなものは偽物と考えた方がいいようです。

市民ホールに展示されていた祭用のかぶり人形、両手をひもで結んでいるのは人が中に入って歩くとき手がブラブラして安定が悪くならないようにするためです。右2つはイスラムあるいはムーア人のようです。

町の中の小さな教会(サン・ジョアン?)

この家は町では豪邸だそうです。外観がりっぱです。

左手の家は内部を改装してしゃれた家にしているので有名だそうです。

水道橋
1318年にハイメ二世が建設させたもので19世紀まで使用されていた。

サン・ミゲル(Sant Miguel)の塔、城壁の門

往きに登った側とは反対側から城を見上げる

恐竜博物館,化石が出るなら恐竜も発掘されるのだろう。


モレヤの町に別れを告げて帰路につきました。
午後7時頃ですが夏時間の関係もありまだ昼間のような感じです。
モレヤを後にして元来た道を引き返しました。
モレヤは印象に残る中世の町でした。

パンフレットの写真で見ると城壁でっかこまれているのがよく分かる

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