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 2006年8月24日 
時差の関係で午前6時には目が覚めてしまった。
午前7時に朝食開始だったの腹も減っているので(昨日午後10時にチェックインで水も飲まずに寝てしまった)

4つ星ホテルとはいいながら予想通り朝食はコールドミール、あのコンチネンタルというものだった。

パン、チーズ、ハム、ジュースで温かいものはコーヒーだけという至って簡素な食事だ。

やはり、ビュッヘスタイルで目玉焼きかスクランブルエッグくらいはほしい。

一番ほしいのは野菜サラダだが、今回泊まったどのホテルでもまったく朝食には出なかった。 
 
ホテルWINDOSORの玄関 
午前中はミラノ市内を観光して、午後から中央駅のHerzでレンタカーを借りてアオスタに向かう予定であった。
そのため8時過ぎにチェックアウトしてミラノ中央駅に向かった。
ホテルからリパブリカ公園に出たら、中央駅はすぐそこに見えていた。
大阪と違い1駅の距離が短いのだ。荷物を持っているので地下鉄に乗ることにした。
さすがに朝の地下鉄ホームには人がいた。
しかし、大阪のようにホームに人があふれるという状況ではなく、空いているという印象だった。 

ミラノ中央駅の正面を入ったところ
天井まで吹き抜けになっている 
 
停車場の方を望む、天井はガラスのドームで覆われている。
例のごとく改札口はなく、いけいけになっている。
(あわててシャッターを切ってピンぼけになりました。)
ミラノ中央駅はムッソリーニが建てさせたというだけあって外観は劇場か博物館のようだ。
ただし、現在、修復中で正面は工事用の枠で見えないし、屋上のモニュメントも一部外されていた。
中は少し薄暗いが、なかなか時代を感じさせるりっぱな作りで一見に値する。
駅の一時預けに荷物を預けて身軽になり、まず『最後の晩餐』の絵のあるサンタマリア・グラッチエ教会に行くことにした。 

ミラノ中央駅ホーム 
 
 
サンタマリア・デラ・グラッチエ教会外観

教会から通りに出たところに市電が走っていました。
 
最後の晩餐
 『最後の晩餐』の見学には予約が必要だがキャンセルであるかと思い、チケット売り場で聞いたが
電話でないと受け付けないと言われてあきらめた。
教会内部と周りを見て。ドオモに向かった。
 
教会中庭
1498年ブラマンテが設計した回廊

教会内部
また、また、ドーモも修復中で正面には工事用の幕が張ってあって見えない。
正面左手に回ってエレベーターで屋上に上がることにした。
エレベータに乗らないと919段の階段を登らなければならい。年も考えて 階段は止めた。 
 
ドーモの正面は修復中
ゴシック建築の特徴のとげとげの尖塔が所狭しと突っ立っている。145本の尖塔がある。

ドーモ前の広場のヴィットリオ・エマヌエーレ2世の銅像
古代ローマ帝国崩壊後、イタリアは多くの自治都市に分裂し、一部は外国の支配をうけていた。サルディニア王家出身のヴィットリオ・エマヌエーレ2世が1861年にイタリアを統一し、イタリア王国を打ち立てた.。
 
後陣を後ろから望む、14世紀に作られたものだそうだ

ドーモ前の広場を屋上から望む
屋上からの眺望はなかなか良かった。屋上の構造物をみるとセメントか漆喰でつないで積み重ねられているだけ、
これでよく倒れないものだ。
一部、鉄骨で補強されている部分があった。 

尖塔部分の彫像、よく倒れないものだ。

彫像は外部に2200体、内部に1300体。
ここまでやると少しゴテゴテして気持ちが悪い
ドーモを見た後、ガレリアに行った。ガレリアは要するにアーケードと同じと思って良いだろう。
ガラス天井までの高さはかなりあるが、広さは大したことはない。
心斎橋商店街の方がはるかに面積的にはひろいだろう。
十字型の中央部の床にモザイク画がある。これが有名だそうだ。
私には中央部の角にあるマクドナルドのほうが珍しかった。
マックはこの周辺部にまだ2カ所あり、少し多すぎるのではないかと少々つまらないことを考えてしまった。
このマックの値段、コーヒーも含めて意外と安い。
一服するためカフェラテとマフィンを買って窓際に座ってガレリアを行き交う人を眺めていた。 

高さで圧倒されるが規模は大したことはない

両側にブランドショップやカフェが並んでいる
1867年ジュゼッペ・メンゴーニによって建設された。
『サロット・ディ・ミラノ(ミラノの居間)』と呼ばれている。

床のモザイク、説明がないのでよく分からないが、豪華。

ガレリアにあるマクド
ここで一服するのがおすすめ。
なお、雑知識ですが、ガレリアは1867年のイタリア統一を記念して建造された商業施設ですが、第二次世界大戦で破壊されてしまった。
しかし、1955年にもと通り完全に復元された。
ガラス屋根のアーケードは、南北に197m、東西に105mの通路が十字形に交差している。
十字部は八角形の広場となっており、この上部には直径38mのガラス張りの円蓋(クーポラ)がのっている、頂部までは49mある。
まあ、午前中ではこれくらいが限度と考え、中央駅(FSS)にもどって食事をしてレンタカーを借り、アオスタに向かうことにした。 

インターネット接続画面
ホテル『WINDOSOR』の有線LAN、即コネクトOK。使用料金なし。
中央駅に戻ってHerzの営業所探したが見つからない。日本での予約書には中央駅と書いてあるのだが・・・?。
仕方がないのでインフォメーションで聞いたら駅の階段を下りたところだというがそこはEURO RENTCARの営業所だった。
駅の外に出て警官に聞いたら駅の中だという。しかし見つからない。
 
 
いいかげんな返事をした。ミラノの警官。
実にアバウト・・・。
 
ミラノのパトカー
駅の中に警察署(?)があったので入って聞いたところ婦人警官が外に出て駅を出て右角だと教えてくれた。
ちょっと予約書の説明に問題あり、他のレンタカー会社のように駅の中にはないのだ。
 

レンタルしたベンツC220
高速性能は優れている、時速140kmが軽く出た。高速での風きり音、騒音遮蔽も抜群、マイカーのカローラとは違う。
ただディーゼル車なのでエンジンのカタカタ音が気になる。それと低速でのチェンジがもたつくのが気になる。

変なエンジンキー、
先端に赤外線の受光部のようなものがある。
 予約書を見せたら、予約したA160はないので同じ料金でベンツのC220でよいかとのことだった。
少しでかすぎるがこれしかオートマがなければ仕方ないので借りることにした。

営業所の場所と高速への市内走行図

高速での走行図
 受付の女性に高速に入る経路を教えてもらった。
このほうがミシュランで検索した経路より分かりやすかった。
しかし、道路の名称を確認しながら走るのは到底無理だ。
営業所にはカーナビの宣伝(日本のと比べると極めてしょぼい)が書いてあったが、
貸し出すような説明はまったくなかった。
要するにそんな需要はイタリアではほとんどないのだろう。

ミラノ→アオスタ
 A4への入り口が少し分かりにくかったが、なんとかA4に入り、A5へも問題なく進入できた。
途中でBARDの要塞を見るために高速を降りるつもりだったが、
AOSTAでの宿泊予約をしていないので遅くならないようするためアオスタへ直行することにした。

高速からもBARDの岩山の上に要塞が見えた。
アオスタ渓谷と言うとおり、道路の両側に山が迫っている。

2車線の快適な道路が続く

高速のパーキング、向こうに見えるのがモンブランか?
アオスタに到着、公園の横の駐車場に車を置き、市庁舎にあるインフォーメーションに向かった。
小さな町なので地図で感じるより遠くはなかった。
インフォメーションで町の中で駐車場のあるホテルをというと”BUS”というホテルを紹介してくれた。
変な名前のホテルだった。 

アオスタ案内図
②アウグストの凱旋門 ④プレトリア門 ⑤ローマ劇場跡 ⑦大聖堂 ⑭市庁舎
 ホテルにチェックインしてから、町を見物しようと思い、ホテルに向かった。
ホテルの前の道路は進入禁止になっている。進入していく車はない。
駐車場ありと聞いていたので困った。それで車を駐車場においてホテルに行ってみた。フ
ロントで聞いたら進入禁止だがホテルに行くと言えばかまわないとのことだった。
それで標識を無視して狭い道路に入っていきホテルの前の駐車スペースに車を止めた。
思ったよりはきれいなホテルで部屋もまあまあだった。
ただし、インターネットはだめだった。(田舎・・・・)
 アオスタ市庁舎(MUNICIPIO)
 
公園の銅像

サントルソ教会

大聖堂ドオーモ
 ロ-マ劇場跡に行ってみたが、思ったよりかなり規模は小さい。
以前は住居として使われて荒れ放題になっていたようで、修復してここまでもとに戻したようだ。
まだ修復が続いており、工事用の枠が組み立てられたままでまるで外観は立体駐車場のようだった。

プレトリア門、城壁の一部はレストランになっていた

アウグスト門
 
劇場の一部は修復中、マンションの工事中ではありません
 ローマ劇場跡

町のメインストリートはホテルから出て市庁舎へ向かう道路だけで、そこにおみやげ物屋やレストランが並んでいる。
プレトリア門まで行けばそこから向こうは閑散としている。

町のメインストリート

泊まったホテル
 
 

夕食を食べたレストラン

懸命にピザを焼く職人さん
 夏時間なので午後7時になってもまだ明るい。
夕食を摂るところを見つけようとメインストリートをぶらぶら歩いてみた。
Modermoというピザレストランに客がたくさん入っていたので、ここならよかろうと入ってみた。
プロシュート・フンギ(生ハムとキノコ、)とナポリというのを注文した。
ワインはグラスワインを注文した。ワインは少し発泡性のある白ワインで口当たりはよかった。
ピザはかなり大きく全部食べきれなかった。
それとナポリのほうは塩気が多すぎた。
塩の振り方がかなり雑であった。日本的に少し考えた塩の振り方をしてほしいものだ。

グロッラを入れる容器
 ゴロッラはコーヒー、レモンの皮、砂糖、グラッパ(アルコール度数の高いリキュール)を入れ、
火をつけて、アルコールを飛ばす。
それを入れる木の容器で人数分の穴の開いている。
そこにストローを入れてみんなで飲む、冬場の飲み物だそうだ。
 夕食を終わってレストランを出たときは暗くなっており、少し冷えてきた。
早々にホテルに引き返した。
部屋に入ろうとしたら東洋人らしき女性と白人男性がチェックインしてきて廊下で鉢合わせした。
向こうが日本語で挨拶してきた。
聞いてみるとオランダからバカンスで来てイタリアを旅行するそうだ。
3週間かけてと言うことだった。(うらやましい・・・) 
男性はオランダ人で奥さんは日本人だった。
アオスタミニ知識(Wikipediaより)
アオスタ(Aosta)または、アオスト(仏語:Aoste)は、人口34,270人のイタリア共和国ヴァッレ・ダオスタ特別自治州のコムーネの一つで、ヴァッレ・ダオスタ州の州都である。

先史時代以前には巨石文明があり、ケルト人に属するリグーリア族が支配していた。古代ローマのジュントヴィ・アウグスト率いる軍隊が山岳地帯攻略の足がかりとし、紀元前20年に彼らを破ったのち、丘にアウグスタ・プラエトリア(Augusta Praetoria)という名前の町を建設した。

この町は紀元前11年以降はアルペス・グライエス(アルピ・グリージェ「灰色の高地」)地方の県庁所在地となり、その後数世紀に渡ってローマ帝国が支配した。

のちキリスト教に改宗する。要害の地にあったため、多民族の侵略によく耐えた。しかし、フランク王国の王であるピピンが北方から進出し、ロンバルディア王国を駆逐した。

神聖ローマ帝国がカール大帝によって拡大すると、アオスタはローマとアーヘンの中継地となった。888年以降はイヴリア伯国のアルドゥイオとベレンガリオによって支配された。シャンベリ(現在はフランス領)を首都としてサヴォイア伯国が誕生し、最終的にイタリア統一をもたらした。

※コムーネ
コムーネ (Comune) は、イタリア語で共同体を指す語であり、現代ではイタリア共和国の行政における自治体の最小単位(基礎的地方公共団体)。

イタリアには日本のような市町村の区別は行政上はなく、人口100万人を超えるナポリのような都市も、バローロのような1,000人以下の村もコムーネであるので日本語に訳す場合にはナポリ市やバローロ村の様に日本の自治体の規模に合わせて翻訳されている。 コムーネの代表(首長)は、シンダコ(sindaco)と呼ばれる。

中世・近世では、イタリア中部・北部に存在した自治都市の都市共同体が存在し、コムーネと呼ばれた。自治都市コムーネは都市の有力市民、地区やギルドの代表によって運営され、都市とその郊外農村地域を統治していた。現代イタリアのコムーネ自治は自治都市の伝統を基礎としているといわれる。
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