2003年9月6日(土)
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午前8時に出発するため、7時半に朝食をとることになった。
朝食にもあのアラブ式パンが出るのかと思っていたら、スルタンホテルではフランスパン風のものが出てきた。
焼きたてなのか、以外とうまい。パンにジャムを塗って食べ、紅茶を飲んだ。
簡単なコンチネンタルだった。
スルタンホテルのボーイさん、その息子(小学生くらいか)も手伝いをしている。
彼らはクルド人、いわゆる難民なのだ。
ホテルのボーイは仕事としては比較的収入面ではいい方だそうで、
シリアの人は難民に対しては寛大に扱っているような印象を受けた。 |
パルミラ遺跡へ |
ミニバンでパルミラ向けて走った。
途中で給油のためガソリンスタンドに立ち寄った。
車から降りて見ていたら、トラックの運転手が近寄って来て『おまえはJICA?』と尋ねられた。
JICAの職員がかなりたくさん来ているようだ。 |
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給油所を後に砂漠の中の道路を走る。
真っ平らかと思っていたが、丘陵地があって地平線が見えるという感じではなかった。
途中、シリア軍の戦車が演習をしているのが見えた時は少し緊張した。 |
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パルミラとの中間地点でトイレ休憩のためバクダット・カフェというところに立ち寄る。
ドーム状の家とテントが横に建っている。
土産屋と喫茶店になっていて30歳代のベドウインの男性が経営していた。 |
右手バクダットカフェ、左が住居 |
自分で建てた家。寝室になっている。 |
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バクダット・カフェの正面 |
カフェの内部 |
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お土産を買ったら自分の建てた家とベドウインのテントを見せてやると言うので着いていった。
テントには母親と彼の妻、彼の娘がおりタペストリーで隔てたところでパンを焼いていた。
焼きたてのアラビアパンを食べてみるかと渡してくれた。これはうまかった。
ついでにベドウインの衣装で記念撮影もしてくれた。
この付近は冬はかなり寒くなり雪も積もるそうだ。
砂漠に雪とは意外な感じであった。
後で思い出したのだが『バクダット・カフェ』という映画があったはずだ。
日本に帰ってインターネットで調べたらこれは米国のロスの近くであった。こことは無関係だった。 |
パンを焼いている様子 |
ベドウインの衣装で記念撮影。
右端がバクダットカフェの経営者 |
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ベドウィンの民族衣装 |
バクダットカフェで予定外の時間を過ごしたがベドウインの生活が見られ、貴重な体験だった。
パルミラに向かう。
午後1時頃ゼノビアホテルにチェックインした。
このホテルは中東で一番古いホテルだそうでアガサ・クリスティが3ヶ月滞在したり、
ミッテラン首相も泊まったことがあるとのことである。 |
ホテルの前は遺跡です |
ゼノビアホテル正面。
パルミラ遺跡の目の前に建っている。 |
アガサクリスティが泊まった部屋
中二階があってそこにベッドとバスがある。
この階段手すりが低く、
少し危ない。 |
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ホテルでチェックインを済ませた。
O女史の部屋は後で聞いたら上記のアガサクリスティの泊まった部屋だそうだ。
翌日、翌日、彼女から話を聞いたら中二階の寝室は少し換気が悪く暑かったとのことであった。
この部屋、あまり快適とは言えないようだが記念になることは間違いない。 |
パルミラの由来となったナツメヤシの実、
この実で作ったのがデーツというお菓子だ。
旅行書ではおいしいというが、
食べたが土産にする程のものではない |
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パルミラはオアシス都市で歴史は非常に古い。紀元前18世紀に書かれた文書に
パルミラの古い名である『タドゥミル』が記載されている。
パルミラはアラビア半島と地中海を結ぶ地点にあり、東西交易の中継点として栄えた。
パルミラという名はナツメヤシを意味するギリシア語『パルマ』に由来する。
紀元前一世紀頃、ローマとパルティアの争いがあり、その両者の力関係を巧みに利用し
独立を保ち、しかも交易で儲けていた。
さらに二世紀にペトラがローマ帝国に併合された後、
その通商権を継いで栄え、この時期に多くの神殿が造られた。
しかし270年頃、ゼノビア女王が実権を握った後、ローマ帝国との関係が悪化し、
272年ローマに滅ぼされることになる。
その後はアラブのウマイヤ朝の支配などを受け、オスマン帝国時代には急速に衰退していった。 |
塔墓の全景 |
墓の前に止まっていたクラシックカー |
塔墓の入口
見物客が来るとカギを開ける |
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まだお腹も空いていないので先にパルミラを見物することにした。
観光案内所でガイドを頼んだ。
彼に案内されて墓の谷のエラベール家の塔墓に向かった。
入口にはカギがかけられており観光客が来ると鉄の格子戸を開けていた。 |
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墓の内部
レリーフが描かれている |
墓の屋上から外を望む |
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内部は壁面が墓になっており、召使いなどの身分の低い人の墓は地下から順番に積み上げれている。
この墓はリース制で金が払えなくなると取り払われ別の人の棺が置かれるとのことである。
墓の屋上に続く階段があり、それを登っていくとパルミラが見渡せる。
少し風が強くなり立っていると少し危ないので座って周囲を見渡した。
金持ち程、墓の建物の高さを上げ、それを自慢にしていたようで、このエラベール家の塔墓も5階建てになっている。 |
レストラン・パルミラ |
レストランにいた。野良の子猫たち |
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その後、パルミラ博物館の前にあるレストラン・パルミラで昼食を摂った。
食事をしているとどからともなくネコが数匹現れて食べ物を催促する。
家の飼い猫を思い出して食事を分けてやった。
食事の内容はシリア料理でホンモスとサラダ、ホブス、
それにカバブ、コフタの盛り合わせ、ほぼ同じ顔ぶれである。
しかし、味付けは少し店によって違うようだが見かけはまったく同じであった。 |
ベル神殿全景 |
ベル神殿入口 |
紀元32年に建てられたものであるが、
ローマ軍が破壊 |
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食事の後、ベル神殿に向かった。
大きな石造りの建造物だった。
ベル神殿のベルとは『主』を意味し、古代シリアの最高神である。
なかなかすごい石の建造物である。
さすがに現物をみると大きさが実感できる。
ローマ軍に破壊されて現在は本殿の部分しか残っていない。 |
ベル神殿復元図 |
神像の安置所の天井。
火が焚かれたのかすすけている。 |
列柱道路 |
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記念門は二世紀後半にローマ皇帝ハドリアヌスを称えて造られたものだそうだ。
近くには観光用のラクダ止まっている。そばで子どもたちが客引きをしている。
彼らは片言の英語、日本語などいろいろしゃべってくれる。
パルミラ遺跡はとにかく広い、周囲に建物がないので余計に広く感じる。 |
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列柱道路反対側 |
テトラビュロン(四面門
四本の円柱で構成されている。
祈念碑のようなものとされている。 |
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休憩をとった後、円形劇場を見学に行った。
劇場の階段部分の一番下で二人が両側に離れて壁に向かって立つ。
そして壁に向かってしゃべる。
壁から離れた人には聞こえないで話が出来ると言うことだったが、うまくいかず苦笑した。 |
円形劇場
舞台に立って声を出すとよく響く音響効果を
考えて設計されている。 |
二世紀前半に建造された。
舞台の幅は48mある。
毎年春にパルミラフェスティバルが開催される。 |
ガイドさんとK先生 |
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とにかく広大な遺跡であるが、なんとも雑然としている。
遠くから見るとまるで石ころが置かれているような印象だ。
まあこれだけ多ければあまり大事にする気にはならないのだろう。
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ホテルに戻り、少し休憩をとり、夕方にアラブ城塞に車で向かった。
城は150mくらいの山の頂上にある。
徒歩では少ししんどい、やはり車が必要だ。
15世紀に十字軍に備えて造られ、オスマン帝国時代に城の体裁になった。 |
山の上がアラブ城塞 |
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アラブ城塞からパルミラ遺跡を望む |
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アラブ城塞からパルミラの町に戻る。
夜の町を歩いてみた。
観光客が少ないのか土産物屋の前で立ち止まるとすぐに客引きに出てくる。
観光客が少なくすこし不気味な雰囲気だが治安はいいようだ。
昼食のアラブ料理の量が多くて、夜食は軽くと考え、軽食の出来るところがないか探してみた。
例のシュワルマの店はあったが、少し脂っこい。
結局でホテルで食事を摂ることにした。
スパゲッテイとスープを注文したがかなり量が多く、二人分で十分だった |
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