2003年9月8日(月)
   
陸路で行くと国境通過が難しいかもしれないと言われたので飛行機を使うことにした。
実際は国境通過は問題がないようだった。
空路を使ったので少し時間がかかった。

2016年現在、空路が表示されない
 ヨルダンのクイーン・アリア空港に到着した。
ダマスクス空港とうって変わってあか抜けした感じであった。
アンマンでの爆発事件でかなり入国審査が厳重かと思ったがすぐに終了した
。特に警戒厳重という風もなく、拍子抜けだった。

またまた、空港に頼んでいたホテルからの迎えの車が到着していない。
仕方がないのでタクシーでホテルに向かう。

ホテルまで向かうまでの町の様子を見ると、近代的な町並みで高層建築も見られる。
車もシリアで見たようなポンコツ車は見かけなかった。
交差点にはラウンド・アバウトがあり、英国植民地時代の影響がうかがえる。

廊下から部屋を望む

リビングと台所
 
寝室
アンマンでの宿泊はクリスタル・スイート、こじんまりしたホテルであった。
かなりきれいなホテルでスイートの名のように寝室と別にもう1室あり、
炊事出来るようになっていた。
食器類も用意されており、使えば全部洗って置いてくれる。
長期滞在型のホテルだ。
 このホテルは三つ星。バスがないと三つ星以上にならないとのことだ。
私は特にバスに入らないのでも困らないが、女性はゆっくりお湯に浸からないと
風呂に入った気がしないとの感想です。

レストランはあるが注文したら外から持ってくるようである。
食事は外食か室内で行うのが普通のようで、食堂は朝食くらいの利用しか考えていないようである。

アンマンでは場所の確認に何番目のサークル(ロータリー、ラウンドアバウト)の番号で言うようで、
クリスタルスイートの場所を運転手に告げる場合は”5thサークル”の近くと告げる。

昼食に出かけることにした。
アラビア料理にも少しまいったので(少々おなかの具合も悪いので・・・)
中華料理でもと言うことになった。

旅行書に載っていた”北京飯店”に出かけた。
お粥を食べようと言うことになったがメニューにない、そこでK先生がコックさんと直接交渉したが、
出てきたのは野菜スープだった。
どうもここのコックさんにはお粥というのが分からなかったようだ。
しかしご飯は出てきた久しぶりに米を食べてほっとした。
やはり中華料理があるのは助かる。

帰り際にK先生がここのオーナーと話をすることになった。
オーナーはレバノン人(?)で中国人ではなかった。
少し肥満気味で血圧でも高そうな人物だった。
彼の話ではレストラン以外に他のビジネスもやっているとのことだった。

その場に中国人の青年と女性がいた。
彼らは姉弟で個人で中華料理の食材の輸入を手がけており、この店へ売り込みに来ていた。
食材のカタログなど見せてくれた。
この人達を見ると
日本の若い人達もがんばらないと世界には通用しないなと実感した。

昼食後、K先生の知り合いの電気屋さんを訪ねることになり、
ダウンタウンの見学も兼ねてバスマン通りに出かけた。
この付近は電気屋さんの多いところで大阪の日本橋といったところ。

アンマンの日本橋

アイスクリーム屋

アンマンのダウンタウン
  日本橋の裏通りの卸屋のような雰囲気で懐かしかった。
店は小さいが小売りだけでなく、イラク向けの輸出を手がけている。
今年の冬に向けて石油ストーブとオイルヒーターが売れ筋とのことであった。
イラク戦でフセイン政権が倒れたため、国境の税関機能が麻痺しているので
商売がやりやすいのだそうだ。
イラク崩壊のため輸出が活況とは意外だった。
  少し、ダウンタウンを歩いてみた。
さすがに観光客は少ないようだった。

雑貨店が軒を並べており、品物は豊富なようだった。
途中でパン屋さんに入ってみたが、ホブス以外のフランスパン風のものや、
菓子パンなど日本でも見るようなものが並んでいた。

中心街はかなり近代的だがこの当たりの方が
アラブ的で旅行者には興味のある観光スポットだ。
 
 電器屋街を後にして徒歩で円形劇場を見に行く。
円形劇場でうろうろしているとID証を付けた青年が現れた。
ガイドと言うことで値段の交渉をして案内を頼んだ。

ローマ劇場の外は公園になっている

フェスティバルのあと片づけ中

博物館入口
反対側にフォルクローレ博物館がある。
 紀元前12世紀にここアンマンにアンモン人(聖書に出てくるとのこと)が定住し、
ここをラバト・アンモンと呼び、都とした。
聖書ではラバト・アンモンは、「水の町」とも呼ばれ、
地下には堅い岩盤があって地下水が蓄えられ水が豊富であった。

紀元前3世紀頃、エジプトのプトレマイオス2世フィラデリフスが、アンマンを占領した。
彼の名にちなんでフィラデルフィアと名付けた。
そのため古くはアンマンはフィラデルフィアと呼ばれたとのことである。
なお、アンマンは太陽神「Amen(アメン)」(ギリシャ・ローマ名は「Ammon(アンモン)」)
の名に由来すると言われている。

アメン神は羊の頭をしており、中生代の化石動物「ammonite(アンモナイト)」は、
アメン神の羊の角に似ていることから名付けらた。
アンモナイトとアンマンは深い関連がある。

イスラエルとアンモン人との関係は昔から悪く、イスラエル王ダビデが送った使者を
アンモン王が殺害したことから両国は戦争になる。
この戦争で有名なのがバト・シェバとダビデの不倫話である。

博物館に展示されていたモザイク

ローマ劇場
かなりの規模でやはり5000人は
十分収容可能

劇場前の喫茶店、
テーブルの上は水たばこ。左は大きなプラズマ テレビで米ビデオを放映していた。
 ガイドにローマ劇場を案内してもらった。
この劇場は5000人収容可能で2世紀頃に造られたものだそうだが
保存状態がよく現役で使われている。
2〜3日前までフェスティバルが開催されており、
その足場の後かたづけのためか板が転がっていた。

劇場内を見た後、劇場の両側にある博物館を見学した。
国立なのだが規模は小さい、もう少しでかいのを造ってもよさそうなのだが・・・。
内部はベドウインの衣服とか発掘したものとか展示されていた。

山の上からアンマン市内を望む

ヘラクレス神殿跡

ギネスブックの載っているという
世界最大の国旗?
  その後、劇場前の公園の喫茶店で休憩をとり、
ガイドの車でアンマン城に向かった彼の車少々ポンコツで、少し運転には不安を感じた。
アンマン城はシャバル・アル・カラー(Jbal Al-Qala'a:citadel Hill:城塞の丘)という小高い山の上にある。
城とは名ばかりの小さい建物であるが非常に由緒あるものだそうだ。
内部はがらんとしていて特に見るものない。

この付近はローマ、ビザンチン、イスラムと数千年の長きにわたって
破壊と再建を繰り返した場所だと言うがあまりその痕跡は残っていないようだ。

アンマン城

アンマン城内部
 周りには2世紀に造られたヘラクレス神殿跡というのがあるが
柱があるだけで他の遺跡から比べると情けない感がする。

この丘は旧約聖書によれば、イスラエルの王ダビテがこの城塞を攻撃し、
陥落させたとのことで、後にダビテの妻のバテシバの夫ウリヤがここで戦死した。
これはバテシバに横恋慕したダビテの策略だったという話で、
その後これが神の怒りを買うことになる。

その後、ローマ時代になってアクロポリスとして整備され、
このヘラクレス神殿が建てられた。

道路にも野菜類が山積みになっている

日本のよりかなり小ぶりのリンゴだった

 夕方になってアラビア料理では胃がもたないので、
夕食はサンドイッチでも作って軽くしようということになった。
それで野菜、果物を買いに市場を訪れた。
活気があり、なんだが鶴橋の市場のようで懐かしい雰囲気だった。
ダウンタウウンということで治安はどうなのかと思ったが、至極平穏で一安心した。

聞くところによれば何年か前までは武器の携帯が自由であったが、
その後武器の携帯が禁止されたため安全になったということだ。

ホテルに帰って、早速キッチンを使ってサンドイッチを作って夕食をとった。
少しパンを多く買いすぎたようで余ってしまった。
キッチンの調理器が電磁式と思ったら単純な電熱ヒーターだった、
うっかり触ってしまって火傷をするところだった。