2003年9月10日
   
 今日は念願のペトラに行く日だ。
デザートロードを一気にワディ・ムーサに向かう。
 デザートロードといっても完全に砂漠のど真ん中というイメージ
を持っていたがそんな荒涼としたものではなかった。

道路周辺には灌木が生えていたり、工場や民家が点在している。
進行方向の左側のすぐ向こうがイラクとの国境だと言われたときは少し緊張した。

オリーブ畑

これが刑務所?

ヨルダンでチャーターした、ミニバン
ベンツでした。ヨルダンでも高級車です。
  途中で塀に囲まれた建物群が見えた。
運転手のサラさんが何の建物か分かるかという。これは刑務所とのことであった。
ここでは脱獄しても自動車がないととても逃げ切れないだろう。

途中で警官に車を止められた。ねずみ取りにひっかかったのだ。
スピード・ガンで速度を測定していた。
こんな砂漠の中の道路でねずみ取りとは・・・・。
その場で罰金を払っていた。
食い逃げが多いのでその場で罰金を払うようになってるとのことだ。
気の毒なので罰金を全員で負担してあげた。

途中休憩したドライブイン
屋根に鳩小屋がある。

ガソリンスタンド。1Lが400Fils(約72円)で
日本と比較すると少し高いか?

昼食をとったワディムーサのレストラン
 途中、給油とトイレ休憩で立ち寄ったドライブインで紅茶(ティー)と
コーヒー(アメリカン)を注文した。

ティーはグラスカップに入れてくれる。
カウンターの上にミントの葉っぱが無造作に置いてあり、
それをちぎってティーの中に入れてくれた。

アインムーサ(Ain Musa)
アラビアコーヒーもいいのだが濃すぎると思ったのでアメリカンコーヒーを注文したが、
苦みばかり強くてこくのない、昔のマックの出がらしコーヒーのようだった。
アラビアコーヒーの方がよかったかもしれない。

カウンターはセルフサービスになっているのでここでコーヒーを受け取ったが、
コンデンスミルクの缶を出して缶切りで穴を開けてフレッシュの代わりに渡してくれた。
コンデンスミルク缶の方がコーヒーより値段が高いのではないだろうか??

アインムーサの水を汲んでいる人

これがモーゼが杖で叩いたという石

モーゼの石の前で記念撮影
ワディ・ムーサ(ワディは谷、ムーサはモーゼのこと)に着く、
白い3つのドームのある建物が見えた。
そこで車を止め、内部を見学した。内部には泉が湧いている。
これが有名なアイン・ムーサ(モーゼの泉)である。

モーゼがエジプトから脱出したとき、不平を訴えるイスラエルの民に対して、
岩を杖で叩いて水を出したという伝説。
中にモーゼが杖で打ったら泉が湧いたという石が置かれている。

アインムーサはエジプトのカイロにもある。
ここでの逸話はモーゼが杖を空井戸に投げ込んだら
水が出たという話で、少し違っている。

アインムーサの向かいにある土産物屋

砂絵をたくさん展示して売っている。

買って帰りました。
アインムーサの前の土産物屋でペトラの名物砂絵を買った。
記念にアラビア語とアルファベットでイニシャルを入れてくれる。
ペトラからの帰りに受け取ることにし、昼食を先にとることにした。
砂で器用に絵を描いていく、見ていると感心する。

昼食でサンドイッチを注文したらシュワルマ(ケバブ)の
アラビアパンのロール巻きが出てきた。
腹ごしらえが出来たところでペトラに向かった。
 
 ペトラは『インディジョーンズ最後の聖戦』に登場した遺跡である。

ビジターセンターに着いて入場券を買ったが、半額になっていた。
観光客が減ったため値下げしたのだそうだ。
ここにも9.11とイラク戦争の影響が出ているのだった。

観光ガイドを雇って見物することになった。
時間の節約のためエルハズネまで馬車で行くことにした。
この馬車、快適と思ったが石畳の道路では放り出されそうだった。

エルハズネまでの通路がシーク(岩の裂け目)、『インディジョーンズ最後の聖戦』で
インディジョーンズが馬で駆け抜ける、あの場面に出てくるところである。
これは水の浸食で出来たとのことである。
壁面に水路の跡が見える。
ナバタイ人は利水工事が得意だったようだ。

途中で馬車を止めながら解説をしてくれた。
最初に説明してくれたのがジン・ブロックス、四角い岩の塊で用途ははっきりせず、
貯水槽という説もあったが最終的には墓と言うことになった。
ジンブロックはアラビア語の名称を英語風に直したものだそうだ。

土産用の『インディ・ジョーンズ』ロゴ入りの帽子
あまり売れていないようだった

ビジターセンター入り口
ヨルダン前国王と現国王の写真
 
真ん中の四角い石はDjinn Blocks(魂の石)
シークに至るまでの砂利道の遊歩道
シークの入口まで1.5Km続く
 
Djinn Blocks(魂の石)
”Djinn”はアラビア語で『霊魂』を意味する。
墓であるとかナバテア人の神”ダスハラ”とも
信じられているが用途ははっきりしないが
一応、墓と言うことになっている。
 

生贄の神殿
ナバテア人の祭司が生贄の動物を
殺して血をドシャラ神に捧げたという。

右後方がオベリスク神殿

ナバタイ人が造った水路用トンネル
冬季の洪水防止用に造ったらしく、
彼らは灌漑技術に優れていた。
 この付近は雨が少ないと思われているが、冬季にはかなり雨が降り、
シーク内が洪水状態になることがある。
ガイドの説明では1963年にフランス人23人が洪水で死亡したとのこと、
その後1964年にヨルダン政府がダムを造った。
昔にナバタイ人が作ったものを修復したのだそうだ。

シークの出口
シーク(Siq)とは岩の割れ目の意
 シークを抜けると正面にエルハズネ(El Khazneh)が姿を見せる。
以外と大きい。
カズネ・ファウルン(『ファラオの宝物庫』の意味)とも言われる。

こんな馬車に乗りました

シーク
この岩の割れ目は壮観である。

シーク内の水路

エルハズネ
現在下の部分を発掘中、入り口の下に
まだ何かが埋まっている

みんなで記念撮影

柱の間にはナバテア人の富の
女神エル・ウッザが彫刻されているが、
破壊されて原型は定かではない。
 エルハズネはは神殿の跡と説明してくれたが、
他の本では何に使われたかは分からないと書いてあった。
とにかく中はがらんどうであった。
壁の模様は自然のものであるがなにか神秘的なものを感じる。

警備隊の兵士、暇そうです

警備隊員と記念撮影

岩の壁の模様がきれい
 エルハズネの中ではヨルダンの警備隊の兵隊が4人座っていた。
彼らは本当に警備しているかどうかは定かではない。
気楽に記念撮影に応じてくれたりしているので
観光客用のサービスと思われる。

入口の階段付近では発掘作業をしていた。
まだこの下に入口らしきものがあるらしい。
上から写真を撮ろうとしたらダメだと言われた。
現在の発掘調査では遺跡の1%も行われていないとのことだ。
とてつもなく広い遺跡なのだ。

エルハズネの柱を仰ぎ見る

てっぺんの飾りの部分にに宝物がある
と思って盗賊が銃撃したと。
弾痕が残っている

 ペトラの歴史 
 ペトラのすぐ北にあるベイダは、9000年前の新石器時代から人が生活していた。
この地域は中東でもっとも古い歴史をもつエリコと同じくらい古い歴史がある。

ナバテア人がこの地に登場するのは紀元前4世紀で、それより以前はエドム人が住んでいた。
エドム人はアラブ系の民族で交易路を支配して隊商から利益を得ていた。
そのため、彼らの領土の西方に住むユダヤ人と交易路の支配権を巡り敵対関係にあった。

ソロモン王の時代、エドム人はユダヤ人に負けたため、交易路はユダヤ人に支配された。
その200年後、紀元前587年ユダヤ王国はバビロニアに征服されユダヤ人は「バビロンの捕囚」となった。

エドム人はユダヤ人がいなくなった土地に住み着くようになったが、
ごく少数のエドム人は元々彼らが住んでいた土地、エドムに留まった。

ナバテア人は遊牧民族で現在のヨルダンやイスラエルの南部に住んでいた。
彼らは羊の放牧や隊商の襲撃で生活していた。
紀元前 312年頃にはペトラを戦いの時などの隠れ家に使っていた。

ナバテア人の人口増加遊牧生活をやめエドムに定住するようになり、
エドム人たちと穏やかに融合し、紀元前6世紀にはペトラにも定住するようになった。
ペトラは通商上の要地にあり、彼らはキャラバンの通行の安全を保証して利益を得た。
以後ペトラは隊商都市となって発展することになる。

彼らは会話にはアラビア語、文字にはアラム語を使い、天然の岩に彫刻をした。
美術的にはヘレニズム的と言われる。

紀元前63年ローマのポンペイウスはシリアとパレスチナを征服し、
ペトラに進駐したが、ナバテア人は金でローマ人を懐柔し和平を結んで難を逃れた。
しかしその後ユダヤのヘロデ王の攻撃を受け、領土の大半を失った。

106年ペトラはローマ帝国に併合され、ペトラはローマ風に造り替えられた。
363年大地震があり、多くの建物が倒壊した。
6世紀にはほとんど人が住まなくなった。
7世紀のイスラム軍が、12世紀に十字軍が砦を造ったくらいで
その後は歴史から消えてしまった。

1812年スイス人探検家ヨハン・ルードビッヒ・ブルクハルトがこの遺跡を確認し、
世界にその存在が知られるようになった。
なお『ペトラ』とはギリシア語で『岩』を意味する言葉である。

ファザード通り
階段が刻まれている。
天国に至る階段だそうだ。
エルハズネを見た後、見渡せる犠牲祭壇に登ることになった。
とても短時間でこの遺跡を全部見ることは不可能。

犠牲祭壇への登り道

犠牲祭壇への道の急な階段、
これをロバに乗って登るのだから
振り落とされないよう注意!

祭壇から見た2つのオベリスク(高さ7m)と
ダスハラとアル・ウザ

犠牲祭壇
生け贄の動物の血を流したらしい

貴族の墳墓

雨水を流れた跡、
ナバテア人はこれを貯水槽で貯めて使った

ローマ兵の墓から
庭園トリクリニウム望む

犠牲祭壇の下にある休憩所の中
近くの村から土来て産物を売っている女性
若い人だが子どもが数人いる。

ロバさんも一服


荒涼とした風景です

庭園式トリクリニウム(TRICLINIUM)
トリクリニウムとは寝椅子を設けた食堂
のことだが、これはお墓。

岩窟墳墓群


ローマ劇場跡
ローマ人はどこでも劇場を造るのが好きです

夕方になり観光客がほとんどいなくなりました。

後日、「世界不思議発見」でここに墓らしきものが
発掘されたと言っていた。
 ペトラからの帰りにソフィテル・ペトラ・タイベット・ザマン(Taybet Zaman Hotel & Resort)
というホテルで夕食をすることになった。
運転手のサラさんのお勧めだった。
ペトラの東9kmのところにある。
19世紀に造られた古い村を買い取ってホテルにしたそうだ。
(村の人は近くに移住、そこはニュータウンのようになっている)
 
19世紀に造られた古い村を買い取ってホテルにしたそうだ。
(村の人は近くに移住、そこはニュータウンのようになっている)
大きな建物はまったくなく、村の家がホテルの1室になっている。
いわゆるコテージタイプだ。
ホテルの人に頼んでトルコ風呂や部屋を見せてもらった。
部屋のインテリアはクラシックで情緒がある。
  レストランに入ったがほとんど人が入っていない。
かなり広い、外のテラスが雰囲気がいいのでそこで食事をすることになった。
ビュッフェスタイルで好きなものをとることが出来た。
アラビア料理もあり、外国人を意識しているようだ。

午後8時過ぎになってぞろぞろと団体客が食事現れた。
彼らはハンガリーからの団体客だそうだ。
ヨルダンの地理的な位置から考えると東欧地域は距離的に近いのだ。
その後アラブ風の衣装の家族が現れた。
アラブでは夕食の時間がかなり遅いのだ。
我々の考えている夕食時間とはかなりずれがある。
   
  夕食後、ホテルを後にしてアンマンに向かう。
途中の山道で車のライトを消すと、月明かりで道が見える。
その後デザート・ロードに入る、砂漠部分が雪のように見える。
3時間かからずアンマンのホテルに着いた。
遺跡を堪能した1日だった。