2003年9月11日(木)
   
 日はK先生の私用のため我々3名と運転手のサラさんで出かけることになった。
アンマンの北西73Kmにあるアジュルン(Ajlun)に向かった。

途中、あまりきれいな町並みとは言えない場所を通過したが、
サラさんの説明ではパレスチナの難民が居住している所とのことだ。
  第三次中東戦争時に難民となったヨルダン川西岸住民はヨルダン国籍をもつパレスチナ難民、
当時はヨルダン領だったためだ。
それ以後のパレスチナ難民はヨルダン国籍を持つことは出来ないとのことだ。
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※ヨルダン川西岸
オスマントルコ崩壊後、ヨルダン川西側は第一次中東戦争後、
当時のヨルダン(トランスヨルダン)が併合しヨルダン領となった。
その後、第三次中東戦争でイスラエル軍が占領した。
1988年にヨルダンはヨルダン川西岸の主権を放棄した.。
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城の入口

堀はあるが水はない。
堀の付近は修復中であった
 入口には当時の服装をした人が立っている
 アジュルンにある城、カラート・アル・ラバトを見学した。
この城は十字軍に備えて十字軍からアラブの地を守った
英雄サラディーンのいとこが1184年に建造したものだ。
その後、1260年に蒙古の侵入などでかなり破壊された。
オスマン・トルコ時代は駐屯地として使われ、
19世紀頃にはカイロからバグダット間の情報中継地点として使われた。

入口から入った所にある天井部分の穴
何に使ったものか説明してくれたが忘れた

この隙間から矢を射たりしたり覗いたりした。
狹間

 
 
城の屋上部分には4つの塔があったが地震で倒壊してしまって原型をとどめていない。
将来的には修復するのだろう。
城の上からはアジュルンの町が見える。
緑に見えるのはオリーブ畑だろう。見晴らしはいい。


  城を出たところでなにやら人だかりがする、
行ってみると浅黒いがっしりした男の人が立っていた。
ガイドのサラさんに聞くとアジュルンの知事さんとのことだった。
私たちを見てどこからと聞いてきた日本からというと
今から知事公邸に帰るから一緒に来てお茶でもどうかという。
一緒に行きたかったがジェラッシュ遺跡を見物したかったので丁重に断った。
ほんとうに気さくな知事さんだ。
(サラさんに聞くと招待は外交辞令ではないとのことだった)

左がアジュルンの知事さん

彼の左手に持っているのはイスラム数珠

知事さんの公用車
ヨルダンでは公用車のナンバープレートは
赤色のようだ
 知事の腕に数珠をしていたのが記憶に残っている。
後でインターネットで検索したら、これはタスビーというイスラム数珠
(カソリックのロザリオと同じようなもの)で、
イスラム教徒が礼拝後にこれを持ってズィクル(唱念)を行うということです。

33個の数珠で形成され、神を称える言葉、
「アッラーフアクバル・スブハーナッラー・アルハムドリッラー」を
それぞれ33回(計99となる)ずつ唱えるとのことです。

車の中に飾ったり、家の中に飾ったりして
お守り代わりに使う人もいるとのことです。
 昼食をまたまたアラブレストランで摂った。
アラブ料理はほぼどこでも同じスタイルなのがほぼ分かった。
日本料理ではかなりいろんなバリエーションがあるが、
アラビア料理は味以外はほぼ同じだった。

食事後、ジャラッシュ遺跡に向かう。
 
 ジャラッシュはアンマンの北東50Kmにあり、ローマ人がアラブ地域で
造ったもっとも華麗なローマ都市と言われている。

発掘調査では紀元前6000〜4000年頃から人が住んでいたことが分かっている。
ジェラッシュが歴史に登場するのはアレキサンダー大王が紀元前332年頃にここに侵入した頃からで、その後紀元前64年ポンペイウスのローマ軍がこの地を植民地とした。

ローマ帝国が繁栄した紀元50〜60年になり、交易で大いに繁栄し、その頃に劇場や神殿が造られた。

3世紀になり海上交易が発達したこと、およびパルミラの滅亡したことから、徐々に衰退していった。330年のキリスト教がローマの国教になったことから、ジェラッシュの神殿は教会として使われるようになった。

614年ペルシャ軍の侵入によりさらに衰退し、636年にはイスラム軍が征服した。さらに746年にこの付近に大地震があり多くの建物が崩壊した。

その後は、12世紀に十字軍が侵攻して要塞が作られたくらいで、歴史から消えてしまった。しかし、1806年にドイツ人のゼーツェンがこの遺跡を発見し、1925年頃から修復作業が行われている。
 晴天で雲一つない、かなり気温が上がってるいる。
乾燥しているのでほとんど汗は出ないが、水を補給しないと脱水症になりそうだ。
ビジターセンターでガイドを頼んだら女性のガイドを斡旋してくれた。
彼女について遺跡を回ることになった。
 
  最初に円形劇場に向かった。
円形劇場はきれいに復元されている。
この劇場も音響効果を考えて設計されており、舞台の中央で客席に向かって
声を出すと拡声器を使ったように拡大される。
 

列柱道路
ここから800mの列柱道路で
フォルム(広場)に通じている。

楕円形のフォルム(広場)


フォルム(広場)から列柱道路方向を望む
建造当時、列柱は520本あったが
現在は71本しか残っていない
 列柱道路の石畳には馬車の轍の跡が今も残っており、
石がすり減る程たくさんの馬車が通行していたことが分かる。
道路に沿って商店が軒を連ねていたとのガイドの説明であった。
 
神殿前の階段
   フォルムを通ってアルテミス神殿に向かう。

アルテミス神殿

コリント式の柱 
 アルテミスはギリシア神話で,オリンポス十二神の一人で、
太陽の神アポロンとは双子の兄姉で,
ゼウスとレト(ティターン(タイタン)族)の娘である。
生殖、豊潤をイメージした女神である。
ローマ神話ではディアナDiana (英語読みでダイアナ) になる。
 
アルテミス神殿には12本の柱が残っているが、
建造当時には南北に11本、東西に6本の、計17本の柱が建っていたとのことである。

手を入れると揺れているのが分かる

 南門
  神殿の柱は耐震構造になっており、揺れることで地震の衝撃を吸収している。
ガイドが柱が風で揺れるのを基壇の隙間に小石を挟んで揺れているのを証明して見せてくれた。

多くの遺跡は町の下に埋まっており、発掘すればまだたくさんの遺跡が出てくるとのことだが、
とてもそこまでは出来ないとのことだ。
ルダン滞在中、運転してくれたサラさんが自分の家でケーキを
ごちそうしてくれると言うのでおじゃますることになった。
それではその後で我々とサラさんと彼の家族全員で
食事に行こうということになった。

地元のケーキ屋さんでケーキを買い込んで彼の家に向かった。
アンマン市内の3〜4階建てのアパートの2階で200平方メーター、
床には絨毯がひいてある。
賃貸だと言うことだったが随分広い、これがヨルダンの中流家庭のようだ。

アパートの前は舗装されておらず、土がまだ盛り上げて置いてある。
歩道も清掃が出来ていない。
日本と違って町会で近所を掃除するというシステムがないのかもしれない。

ケーキは地元ではよく食べるというものらしいが、少し甘すぎる感じだった。

サラさんの家族、
彼が着用しているのがフジテレビの
撮影クルーのジャケット、
テレビ局のピンバッジがたくさん付けてある。

彼がくれた名刺
 彼はイラク戦争中フジテレビのカメラクルーとして働いていたそうで、
その時の写真や当時のフジテレビのジャケットを着て見せてくれた。
当時、バクダットとアンマンの間でビデオテープを搬送していたとのことだ。
そのほかソマリア紛争の時もテレビ局のクルーとして働いていたそうだ。

結婚当時からのビデオテープを見せてくれた。
さすが素人離れした編集だった。
息子さんが2人、1人は大学生、1人は高校生だった。
大学生の息子さんは工学関係ということで彼の部屋のコンピュータを見せてもらった。
まだ電話回線によるインターネット接続だった。
ISDN、ADSLはまだヨルダンでは料金が高いとのことだった。
 アンマン市内

衛星放送受信のアンテナ

トヨタのトラック

サムソンのCM看板


 アンマンのノラちゃん