12月8日(日) 3日目 |
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ニースからアルル 445km |
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サント・ヴィクトワール山 Montagne Sainte-Victoire アルルに行くまでの途中で車窓から見た |
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セザンヌが、後半生に繰り返し描いた故郷の山・サント=ヴィクトワール山が上記 | ||||
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アルル (フランス語:Arles、オック語プロヴァンサル方言:Arle) フランス南部にあるコミューン。同国内最大面積を持つ。 住民の呼称はアルレジャン (Arlesiens) と呼ばれ、フィンセント・ファン・ゴッホの絵画などの題名に用いられている『アルルの女 (l'Arlesienne) 』はこの女性単数形である。 |
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アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)(オランダ語: Le Pont de l'Anglois) 1888年にフィンセント・ファン・ゴッホによって描かれた絵画。油彩。 アルルの跳ね橋をモチーフにした作品は複数ある。 単に「アルルの跳ね橋」とのタイトルが付されていることがある。 橋の手前で洗濯する女性たちが描かれた作品の一つがクレラー・ミュラー美術館に収蔵されている。 実際のモデルとなった橋はアルルの中心部から約3キロほど南西の運河に架かっていたものだが現存していない。 再現されたものが観光地となっているが、運河の堤などの風景が異なるために、絵画の雰囲気が再現されているとまでは言えないものである。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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このゴッホの顔には左耳がない、しかし自画像では右耳に包帯を巻いている。 ゴッホの自画像は鏡で自分の姿を写して描いているので左右が逆転しているのだそうだ。 |
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古代劇場 |
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アルルの古代劇場は、紀元前1世紀末に建造されたローマ劇場の遺跡。 アルルの古代遺跡群の中でも、円形闘技場に次ぐ規模を誇った巨大建築物の遺跡であり、現在は市内の他のローマ遺跡等とともに、ユネスコの世界遺産に登録されている。 劇場は5世紀初頭までは使われ続けていたが、この頃に、喜劇や異教の見世物に激しい敵意を見せていたキリスト教会は、イレール大司教の下で、サン=テチエンヌ大聖堂(現サン=トロフィーム教会)建造のための石切り場として使うようになった。 おそらく6世紀末から7世紀初頭の間に、劇場跡は城砦化され、「ロラン塔」などの塔も据え付けられた。 次第に、劇場敷地内は住宅や路地で切り分けられるようになっていった。 邸宅が建てられたほか、特にイエズス会などの修道士会はコレジオなども建てるようになった。 1755年から1789年に、二本の柱が見えていた修道院の中庭から、劇場跡は再発見された 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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アルルのヴィーナスは円形劇場の壁龕(へきがん)に飾られていたもので、発掘当時は一部破損していた。 本物は修復されて現在はルーブル美術館に展示されている。 |
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サン=トロフィーム教会 (Cathedrale Saint-Trophime d'Arles) 南フランスの都市アルルに存在するロマネスク様式の教会堂。教会そのものもさることながら、美しい彫刻が刻まれた柱の並ぶ回廊も高く評価されており、「アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」の一つとして世界遺産に登録されている。 11世紀から、当時アリスカンに眠っていた聖トロフィムス(3世紀のアルルの聖人)の聖遺物(遺体)を、この教会に安置しなおそうという動きが持ち上がり、ロマネスク様式の現在の教会堂の原型が形成された。 そして、1152年に聖トロフィムスの聖遺物が移されると、彼にちなんで「サン=トロフィーム大聖堂」となった。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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円形闘技場 (Les Arenes ; ID164-001) 古代ローマ時代のアンフィテアトルムの一つで、1世紀末頃に建造された。 当時は3層構造で2万人を収容できたとされるが、現存するのは2層のみで、最上層は失われている。 それでも、アルルに現存する古代ローマ遺跡の中では最大のものである。 現在では闘牛や各種イベントに使われている。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 ※アルルの円形闘技場でロバートデニーロの映画『RONIN』がロケされた。 |
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アルルでの昼食はLa Bohemeというレストラン | ||||
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ゴッホの夜のカフェテラス |
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夜のカフェテラス (フランス語: Terrasse du cafe le soi) 1888年9月にフィンセント・ファン・ゴッホによってかかれた絵画。油彩。 南フランス・アルルの星空の下、人でにぎわうカフェテラスが描かれている。 この絵でゴッホは初めて黒をあまり使わずに夜空を描いた。 夜のカフェテラスに描かれている背景の星座は、「やぎ座とけんびきょう座の一部」と言われている説もあるが「みずがめ座」と言う説もあり定かではない。 いずれにせよ秋の星座には違いない。 モデルとなったカフェはアルルのプラス・デュ・フォルムという広場に面した店で、「カフェ・バン・ゴッホ」という名で現存する。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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左手の黄色い壁の建物がカフェ・バン・ゴッホ |
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フレデリック・ミストラル(Frederic Mistral、1830年9月8日 - 1914年3月25日) フランスプロヴァンス地方のマイヤーヌに生まれた詩人。 代表作に『ミレイオ』があり、この作品で1904年にノーベル文学賞を受賞した。 近代におけるプロヴァンス語の再興にも大きく貢献した。 その一端は、「フェリブリージュ」の創設などに見ることが出来る。 ノーベル文学賞の賞金で、アルルにアルラタン博物館を創設した。 この博物館ではプロヴァンスにゆかりのある様々なものが展示されており、中庭には世界遺産「アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」の一部をなす小集会場跡がある。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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エスパス・ヴァン・ゴッホ Espace Van Gogh(espaceはスペース、場所の意味) 元サンポールドモゾル修道院の精神病院の中庭。 1889年にゴッホが精神に異常をきたし、左耳を切り取った。(なお、ゴッホの耳を切り落としたのはゴーギャンという説もある) 彼は自分でこの病院に入院して療養生活を送った。 ゴッホはこの病院での療養中に「アルル療養所の中庭」を描いており、この絵画を基に現在の中庭が再現されている。 現在、図書館、店舗などが入った総合文化センターになっている。 |
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エスパス・バン・ゴッホ Espace Van Gogh |
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アルルの女 『アルルの女』(アルルのおんな、L'Arlesienne)は、ドーデの戯曲。 その上演のためビゼーが1872年に全27曲の付随音楽を作曲しており、ここから編まれた2つの組曲が広く知られている。 南フランス豪農の息子フレデリは、アルルの闘牛場で見かけた女性に心を奪われてしまった。 フレデリにはヴィヴェットという許嫁がいるが、彼女の献身的な愛もフレデリを正気に戻すことはできない。 日に日に衰えていく息子を見て、フレデリの母はアルルの女との結婚を許そうとする。 それを伝え聞いたヴィヴェットがフレデリの幸せのためならと、身を退くことをフレデリの母に伝える。 ヴィヴェットの真心を知ったフレデリは、アルルの女を忘れてヴィヴェットと結婚することを決意する。 2人の結婚式の夜、牧童頭のミティフィオが現れて、今夜アルルの女と駆け落ちすることを伝える。 物陰からそれを聞いたフレデリは嫉妬に狂い、祝いの踊りファランドールがにぎやかに踊られる中、機織り小屋の階上から身をおどらせて自ら命を絶つ。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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動画 |
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アルルからアヴィニヨン 36.2Km |
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アルルは円形競技場以外あまり見る物はなかった。 アルルからアヴィニヨンに向かう。 |
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アヴィニョン(Avignon) フランスの南東部に位置する都市で、ヴォクリューズ県の県庁所在地である。 |
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サン・ベネゼ橋(アヴィニヨン橋)とサン・ニコラ堂 ※合成に失敗しました 元の橋は下の部分だったが、かさ上げしている。 |
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サン・ベネゼ橋(仏:Pont Saint-Benezet) フランス、アヴィニョンのローヌ川に架かっていた石造アーチ橋である。 一般にはアヴィニョンの橋として知られている。 この橋はアヴィニョンの城壁の外側にあり、ローヌ川に架かっている。 建設されたのは1177年から1185年にかけてである。 22連のアーチ橋であり長さは920m、幅は4mあった。 1226年、ルイ8世がアヴィニョンに攻めてきたときに橋の4分の3が破壊されてしまった。 1603年、ローヌ川の洪水でアーチの一つが崩壊した。 続いて1605年に3つのアーチが崩壊した。 人々はフランス王国側のヴィルヌーヴにあるフィリップ端麗王(フィリップ4世)塔を出発し船で川の中央にあるバルテラセ島まで渡り、階段でサン・ベネゼ橋に登りアヴィニョンに渡ったのである。 そして橋の有名な4つのアーチとフィリップ端麗王塔、世界中に知られた「アヴィニョンの橋の上で」という歌が残されている。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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アヴィニョンの橋の上で(日本語版) |
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アヴィニヨン橋を見物の後、教皇庁宮殿に向かった。 今は古めかしいが建てられた当時はかなり豪華なものだった。 |
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法王庁宮殿 Palais des Papes |
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アヴィニョン教皇庁(フランス語: Palais des papes d'Avignon, ラテン語: Palatium paparum) 309年から1377年まで7代にわたる教皇のアヴィニョン捕囚から教会大分裂の時代、南フランスのアヴィニョンに設けられていた教皇宮殿(ローマ教皇庁)。 宮殿のうち、「旧宮殿」はベネディクトゥス12世が旧司教館を取り壊さして、同郷のミルポワ出身のピエール・ポアソンに依頼して築いたものであり、それに対し、クレメンス6世がイル・ド・フランスの建築家ジャン・ド・ルーヴルに命じて築かせたのが「新宮殿」である。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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アヴィニョン捕囚 1305年、教皇に選出されたボルドー大司教がクレメンス5世としてリヨンで即位した。 フランス人教皇誕生の背後にはフランス王フィリップ4世の強い影響力があった。 フィリップ4世の意志を受けたクレメンス5世はローマに戻らず、枢機卿団と共にアヴィニョンに滞在し、1309年にここに教皇庁の移転を宣言した。 これがいわゆる「アヴィニョン捕囚」(教皇の「バビロン捕囚」)である。 1377年にグレゴリウス11世がローマに戻るまで、7代69年間に渡ってこの「捕囚」が続いた。 この間、事実上の「キリスト教界の首都」となったアヴィニョンには、教皇庁宮殿、現在はフラ・アンジェリコやボッティチェリの「聖母子」を収蔵するプティ・パレ美術館として利用されている大司教館など当時の建築が数多く残り、その辺りの地区はアヴィニョン歴史地区として世界遺産に登録された。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 参考)バビロン捕囚 新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され移住させられた事件を指す。 バビロン幽囚、バビロンの幽囚ともいう。 紀元前539年にアケメネス朝ペルシアは軍をバビロンへと進め、新バビロニアは滅亡した。 この際、ペルシア王キュロス2世の命令によって、ユダヤ人たちは解放され、故国に戻る許可を得た。 捕囚の地から最初にエルサレムに帰還したものは42,462人という。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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宮殿の中庭、こちら側は初期の建物で質素な作り |
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夕食の前にクリスマスマーケットに出かけた。 かなり賑やか。 |
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レストランでホットワインを注文したツアーの客がいたが、レストランではないとのことだった。 | ||||
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この時期のみ見られるキリスト生誕の模型を飾ったクレッシュ |
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「クレッシュ(creche)」は、ラテン語が語源で、動物が餌を食べる場所を意味し、それが家畜小屋の意味になった。(キリストが生まれた所) フランスでは託児所、保育所も「クレッシュ」と言われる。 イタリアではプレセビオと言っていた。 |
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クリスマスマーケット見物後、夕食に向かった。 | ||||
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ブラッスリー(仏: brasserie) はフランスにおける飲食店の業態、種別で、本来の意味ではビアホールのように酒と食事を提供する店をさす。 もともとはパリ在住のドイツ人向けに始まった店である。 第一次大戦までは、文人や政治家など知識層が集って議論をする場といった、フランス革命期におけるカフェと同じ役割も果たした。 brasserie という語はビール製造所の意味も持つ。 なお、片仮名表記ではブラスリーまたはブラスリとも表記される。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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夕食がしょぼかったためか、ホテルの帰りにサン・ベネゼ橋のライトアップを見せてくれた。 |
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今日のホテルはキリアドコーティ-ンガレ KIRIAD COURTINE GARE |
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