12月9日(月) 4日目 |
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集合がスムーズで予定より早く出発。(融通の利く運転手さんでした。) | |||||||||
アヴィニヨンからポン・デュ・ガール27.6km |
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朝早かったので、観光客は私たちのツアーだけだった。 しかし、ちょっと寂しい。もう少し賑やかなほうが良かった。 |
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ローマ人の土木技術はすごい |
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ポン・デュ・ガール(:Pont du Gard) フランス南部・ガール県のガルドン川に架かる水道橋である。 ユゼスからニームへ水を運ぶための水路の途中にあり、古代ローマ時代・紀元前19年頃にアウグストゥス帝の腹心アグリッパの命令で架けられたと考えられている。 ニームへの導水路は全長約 50 km、平均斜度は 1 km あたり 24.6 cm で、ポン・デュ・ガール上流でもっとも大きくなっている。 それはこの橋の高さを出来る限り低くしようとしたためであった。 流水量は1日約2万立方mであった。 3層のアーケードは上に行くほど幅が狭くなっている。 全体の高さはガルドン川の最低水位から 49 m である。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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朝早いので私たちツアーの観光客以外だれもいない | |||||||||
水道橋の橋から川を望む |
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ポン・デュ・ガール動画 |
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ポン・デュ・ガールからカルカッソンヌ 227Km |
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カルカッソンヌのシテを見物する前に、ミディ運河に連れて行ってくれた。 運河は国鉄のカルカッソンヌ駅の前にあり、説明を受けなければただの川だ。 上下の高低差をクリアするための水門も規模が小さく大したものではなかった。 |
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下の地図の運河が広くなっている部分(港) |
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運河の前にあるカルカッソンヌ国鉄駅 |
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ミディ運河(Canal du Midi) フランスのトゥールーズでガロンヌ川から分岐し、地中海に面したトー湖にいたる全長 240 km 、支流部分も含めた総延長では 360 km に及ぶ運河である。 19世紀に鉄道に取って代わられるまで、大西洋と地中海との間を船舶で結ぶ、大量輸送ルートであった。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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ミディ運河を見た後、先に昼食を摂るためシテに向かった。 | |||||||||
昼食のレストランの名前は”Donjon 牢獄” |
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昼食はこの地方の料理カスレ、モツ煮のようなもの、ちょっと見た目が良くない。 | |||||||||
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カルカソンヌ (Carcassonne) フランス南部の都市、ラングドック=ルシヨン地域圏に属するオード県の県庁所在地である。 古代ローマ時代、要塞都市が建設されたことで有名である。 面積は65.08km2、1999年の人口は43,950人、近郊を含めたカルカソンヌ都市圏としての人口は82,577人である。 2004年に施行された自治体間連合(Intercommunalite)の人口は64,952人。 街の名前カルカソンヌは、カール大帝がこの都市の攻略をあきらめ退散するときに、当時街を治めていた女性カルカス (Carcas) が勝利の鐘を鳴らした (sonner) ことに由来するという伝説がある。 またこのときに篭城した市民が家庭に残っていた食材である豆、雑穀、豚や腸詰や鴨などの鳥獣肉を持ち寄りまとめて大鍋に入れ煮込んだものがカルカソンヌの名を冠したカスールという鍋料理:カスレのルーツになったと言われている。 古代ローマ時代から発達した城塞都市であるシテ(cite, またはville haute)と、オード川をはさんだ向かいに展開した下街(ville basse)との二区画からなる都市である。シテを覆う城塞は19世紀に建築家ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクにより修復されており、シテは「歴史的城塞都市カルカソンヌ」の名で1997年にユネスコの世界遺産に登録された。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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戦争の時ここから下の敵を石や弓で攻撃した |
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シテの中を歩いていたらしゃれたチョコレート屋さんが目についたので入ってみた。 店員さんが試食をさせてくれた。 おいしかったので土産に購入した。 |
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この教会について最初に書かれた文書は、925年にまでさかのぼる。 1096年、教皇ウルバヌスU世が二カルカソンヌに来て、サン・ナゼール大聖堂の礎石を祝福した。 建物は12世紀の前半に完成した。 その後、何度か改築された後、1801年に下町のバスティード・サン・ルイのサン・ミッシェル教会に大聖堂の地位を奪われた。 しかし、1898年に教皇レオ13世によって大聖堂(カテドラル)の称号を与えられた。 |
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Saint-Louis(サン=ルイルイ9世(Louis IX, 1214 - 1270年、在位:1226 - 1270年) フランス王国カペー朝第9代の国王でルイ8世とカスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ブランシュの子。 死後、カトリック教会より列聖されSaintが称され、ここから、Saint-Louis(サン=ルイ)と呼ばれるようになった。 これは日本語では聖ルイあるいは聖王ルイと訳される。 米国の都市、セントルイス(ミズーリ州)の地名の由来ともなった。 ブルボン家の先祖でもあり、同家の王の多くがルイを名乗るのも彼に由来すると思われる。 同じく聖王と称されたカスティーリャ王フェルナンド3世は従兄。 内政に力を入れ長期の平和を保ったため、彼の治世の間、フランス王国は繁栄した。 国内外を問わず、争いを収めるよう努力したためヨーロッパの調停者と呼ばれ、高潔で敬虔な人格から理想のキリスト教王と評価されている。 ただ、宗教的情熱から2回の十字軍を行ったが、莫大な費用を費やし、自身も捕虜となるなど散々な負け戦を喫し、失敗に終わっている。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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ナザレのヨセフ 新約聖書に登場するマリアの婚約者、夫にしてイエスの養父。 職業は大工であったという[1]。カトリック教会、正教会、東方教会、聖公会及びルーテル教会で崇敬されている。 カトリック教会では、労働者の守護聖人とされ、幾つかの祝日がある。 また、1870年に教皇ピウス9世により、カトリック教会や幾つかの国家・地域の守護者であると宣言された。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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「女領主カルカス (Dame Carcas) の伝説」 カルカソンヌの名の由来を説明しようとするものである。 サラセン人の占領下にあった頃、侵略しようとしたカール大帝は市門の前に陣を敷き攻囲戦を行った。 この攻囲は五年を超えたが、この時、夫の大公亡き後シテの騎士団を率いていたのが、公妃カルカスであった。 攻囲が六年目に入ったとき、シテの内側では兵糧も水もなくなりかけていた。 カルカスは残っているものの一覧を作ろうとしたときに、市民は豚一頭と小麦の袋をもってきた。 彼女はこれを見て一計を案じ、豚に小麦を食わせて太らせた上で、塔から市外へと放り捨てた。 これを見たカール大帝とその部下たちは、太った豚を惜しげもなく捨てるのだから、市内にはまだ十分な兵糧があるに違いないと考え、撤退を決めた。 カルカスはその勝利を祝福し、町中の鐘を鳴らさせた。 撤退中の大帝軍の一人はこう書き記した。「カルカスが鐘を鳴らしている(Carcas sonne ; カルカ・ソンヌ)」と。伝説では、これが市の名前の由来になったのだという。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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カール大帝(742 - 814) フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。 カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子で、カール1世とも言う。 768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)として彼の治世は始まったが、カールマンが771年に早逝したため、以後43年間、単独の国王として長く君臨した。 800年には西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位:800年 - 814年)を称したが、東ローマ帝国はカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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ジャン=ピエール・クロ=メイルヴィエイユ(Jean Pierre Cros Mayrevieille) シテが造られた当時はこの地域はフランスとスペイン支配下のアラゴン王国の国境地帯で戦略的な重要な場所だった。 しかし、1659年にフランス・スペイン間の国境線が確定し、重要性がなくなった。 そのため、シテは放棄され、外壁を石材として盗み出す者も現れ、荒れ果てることになった。 しかし、1850年に、シテの名士ジャン=ピエール・クロ=メイルヴィエイユがシテの修復にとりかかり、シテの破壊は食い止められた。 |
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カルカッソンヌ動画 |
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シテを見物した後、いったんホテルにチェックインした。 | |||||||||
メルキュール・ポルト・デ・ラ・シテMERCURE PORTE DE LA CITE |
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ホテルはシテから、近いが冬なので観光客が少ない | |||||||||
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夕食はカルカッソンヌ駅の近くのレストラン、その前にカルカッソンヌのクリスマスマーケットに出かけた。 ちょっと人出が少ないので寂しい。 |
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夕食はミディ運河の近くのLe Bistroというレストラン | |||||||||
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夕食後、添乗員さんが、夜間のシテを見たい人は連れて行ってくれるとことで出かけた。 ホテルからシテへは駐車場を抜けるとすぐだった。 |
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夜のシテ、さすがに季節外れで人通りなし |
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今日はこれで終了、ゆっくり寝ることにした。 | |||||||||
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