12月10日(火) 5日目 |
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昔のカルカッソンヌの写真 |
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カルカッソンヌからサンテミリオン322Km |
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途中のドライブインでの写真を少し、以下に紹介。 | |||||||
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サン=テミリオン (Saint-Emilion) フランスの南西部に位置する町で、アキテーヌ地域圏、ジロンド県に属する。 ボルドーワインで有名なボルドー近郊のワイン産地のひとつで、歴史地区は周辺の7つのコミューンの景観とともに、「サン=テミリオン地域」の名でユネスコの世界遺産に登録されている。 町の名は、8世紀にこの地の洞窟に隠遁した僧侶聖エミリオ (Saint Emilion) に因む。 この地の土壌や地形はワインの醸造に適しており、エミリオに付き従った僧侶たちが、販売も視野に入れたワインの醸造を行うようになった。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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レストラン横の急な石畳の坂を上がると、町が一望に見渡せる教会の上の広場に出てくる。 | |||||||
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モノリスMonolithe教会(1枚岩教会) 1枚岩の名の通り、1枚岩の石灰岩をくりぬいて教会が造られている。 地下には聖エミリオンが隠遁した洞窟などあるとのことだ。 塔の立っている丘の上に登ると町が一望に見渡せる。 余談だが映画『2001年宇宙の旅』でモノリスに猿が手を触れて進化していくという冒頭のシーンを思い出した。 |
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ペトリュスPetrusは 世界で最も有名な赤ワインの1つで、高価なボルドーワインのひとつ。 「ペトリュスはワインというよりも神話の象徴なのだ」とロバート・パーカーが絶賛している。 シャトー・ペトリュスのブドウ畑はメルロ種100%で作られている、生産本数は年4500ケース程度で少なく、世界の愛好家のワイン庫に入ってしまうためほとんど市場に出回らない。 |
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サンテミリオンのマカロンは2枚で挟むタイプではなく、1枚で表面がひび割れしたクッキー状の昔風の形。 材料はアーモンド・卵白・砂糖で作られている。 サンテミリオンの修道女が作っていたのを村の人が製法を受け継いだとのことです。 焼く前に表面に砂糖をまぶしておくと焼いた後ひび割れが出来るようです。 |
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サンテ・ミリオン動画 |
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サンテミリオンからボルドー40.9km |
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ボルドー(Bordeaux) フランスの南西部に位置する都市で、アキテーヌ地域圏の首府、ジロンド県の県庁所在地である。 ボルドーワインの産地として世界的に有名。 ジロンド県の県庁が置かれている地で、フランス革命期にはジロンド派の地盤であった。 中心市街地においては、1960〜1970年代に行われたメリアデック地区の改造作戦が、人と自動車の通行を切り離すことを狙って行われ、道路の上に歩行者用の歩道が建設された。 2000年代初頭から、中心市街地再開発の現場のリズムの中で「眠った美女(la belle endormie)」が目を覚まし、路面電車の復活以来、非常に大きく変化した。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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カンコンス広場 (Place des Quinconces) トロンペット城の跡地に作られた広大な広場。 12万6000m2 は、ヨーロッパの都市広場としては最大である。 広場自体は1810年から1822年に整備され、19世紀末にはジロンド派記念碑が建てられた。 この記念碑は元々フランス革命100周年を控えた1881年に企画されたものであったのだが、実際の製作は1894年から1902年にかけてのことであった。 |
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ジロンド派記念碑 この記念碑は建築家ヴィクトル・リシュ (Victor Rich)、彫刻家アシル・デュミラトル (Achille Dumilatre)、フェリックス・シャルパンチエ (Felix Charpentier)、ギュスターヴ・ドブリ (Gustave Debrie) らの着想によるものである。 彼らは二つの池の中央に高さ43mの円柱を立てた。 記念碑は第二次世界大戦中に金属の供出のために撤去された。 全体が復元されたのは1983年のことであった。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 ジロンド派(仏: Girondins) フランス革命のフランスの政治派閥の一つである。 この名称はジロンド県出身者のブルジョワ階級が多数を占めたボルドー・ジャコバンクラブに所属する議員(ヴェルニョーら)を中核としたことに由来するが、革命当時に”ジロンド派”という名前は存在しなかった。 歴史用語として定着したのは、1847年、ラマルティーヌの『ジロンド党史』が出版されて以降のことで、後世の後付である。 明確な党派ではなく、中流ブルジョワ、プロテスタントなどで結びついた穏健共和派諸派閥の集合体。しばしば連邦主義者とも言われた。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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大劇場Grand theatre |
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柱の上の女神像(12体ある) |
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大劇場はヴィクトル・ルイによって1773年から1780年にかけて建てられた新古典派建築のひとつ。 シャルル・ガルニエはパリのオペラ座を設計する際にこの大劇場を参考にしたと言われている。 ※新古典主義建築(Neoclassical Architecture) 18世紀後期に、啓蒙思想や革命精神を背景として、フランスで興った建築様式。 ロココ芸術の過剰な装飾性や軽薄さに対する反動として荘厳さや崇高美を備えた建築が模索されたが、やがて19世紀の歴史主義、様式濫用の中に埋没した。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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サン・アンドレ アンデレは、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。 シモン・ペトロの兄弟であるとされている。 西方教会、東方教会ともに聖人で記念日(聖名祝日)は11月30日。 アンデレは格変化語尾をはずして名詞幹のみにした日本語聖書の慣用表記で、ギリシア語での主格表記はアンドレアス。 『マルコによる福音書』によると、兄ペトロと共にガリラヤ湖で漁をしていたときに初めにイエスに声をかけられ、弟子となった。 弟子のリストの中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネについで4番目にあげられている。 伝承ではアンデレはギリシアのアカイア地方でX字型の十字架で処刑され、殉教したことになっており、絵画においてもしばしばX字型の十字架と共に描かれている。 引用:フリー百科辞典WIKIPEDIA《詳細》 |
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1440年から1500年の間に同じ名前の大司教の主導で建設された。 1863年に塔のてっぺんにアキテーヌの黄金の聖母子像が置かれた。 鐘楼が大聖堂と別に建てられた理由はこの付近が湿地帯で地盤が弱く、聖堂に8トンの鐘を収納するには無理があること、また鐘を鳴らしたときの振動で建物を傷める可能性があったためらしい。 |
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まだ,暗くなっていないが、ボルドーのクリスマスマーケットを見物 | |||||||
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ボルドー 動画- |
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ホテルまで約10Km、かなりある |
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電子レンジまで備えてあった。部屋はかなり広くて快適。 |
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オプションでボルドーの港(ガロンヌ川)の見物と夕食があったが、参加しなかった。 以前にローマでカンツォーネ・ディナーのオプションがとてもひどかったのが取りやめた理由だ。 市の中心部からかなり遠く、出かけるのも疲れるのでスーパーで買ったサンドイッチとジュースで夕食となった。 オプションから帰った人に聞くと大したことなかったとの感想だった。 |
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